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東大附属中等教育学校『父と暮らせば』

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 顧問のKさんから久しぶりのメール、「4月3日に六本木の俳優座劇場で公演をうてることになりました」とのお誘いをいただいたのは3月4日のことだった。添付されていたチラシを見ると、催し物名は「第26回はいすくーるドラマスペシャル」とあり、4月2-4日の期間中に6校が上演するという。どのように選抜されたのかは知らないが、通常の部活動としての枠を超えたところで高校演劇の発表の場が開かれていることは貴重であるし、旧知のKさんからのお誘いとあれば出かけないわけにはいかない。
 『父と暮らせば』は井上ひさし作で1994年の初演、2004年に宮沢りえ・原田芳雄・浅野忠信出演で映画化された。もともとは二人芝居であったが、映画では浅野が木下役で登場する。また、調べてみるとこまつ座以外では語りであったり、一人芝居であったりする上演例があるとのことだ。
 東大附属も一人芝居であった。なぜ一人芝居という方法を選んだのか、詳しいことは知らない。何でも昨年も学校公演でとりあげた脚本であるという。同一人物が演じたとすれば、その時点では役者となれる生徒が一人しかおらず、その延長であったのかも知れない。そうだとすれば、想像するに演じた生徒にはかねてからの希望があり、一人芝居をうつしかないときに、その状況を逆手にとってこの脚本を選んだのではないだろうか? 同学年に複数の役者志望の生徒がいる中ではなかなか一人芝居を名乗り出るのは困難であろうから。そしてそれが確かだとすれば、演劇に対する向きあい方においても、脚本選択においても、真面目で一途なひとがらが浮かんで来るのである。
 芝居をみせてもらった感想としては、まさにそのような真剣さとさわやかさ、そしてこの脚本にひたむきに取り組んできた者のもつ確信というのか自信のようなものが伝わって来たとまず言いたい。一人芝居としてどこまで出来るか、というのが見どころの一つだったのだろうが、まったく心配御無用であった。嘆き伏している娘のときはまるめた背中からもその悲しみが伝わってきたし、父に変わったときは娘にあたたかい愛情をそそぐ存在に瞬時に変化できていた。声を聞いていて、本当に涙まじりになってしまったのではないかと心配していた次の場面では娘を見守るおおらかな父親の口調に変わっていたときには、ある種の「技」の域に達するものを感じた。娘のときと父のときの違いを声量の違いであらわそうとしたためか、最初のうちは娘の声が聞き取りにくかったが、それは広島弁を早口でまくし立てた結果でもあったのだろう。それはそれで、聞き取れないときがあるのも自然であるともいえる。
 テーマは広島の被爆体験の継承である。被爆者である美津江には忘れようにも忘れられないにもかかわらず、自分からは触れたくない(あるいは未だ言葉に出来ない)体験である。その美津江の前に、広島の記憶を残すために原爆瓦や遺留品を収集している青年木下があらわれる。木下は美津江を見そめ、美津江も木下に引かれていく。しかし、美津江は木下に心引かれていくことで、かえって自分一人が生き残った後ろめたさから「自分一人が幸せになることはできない」との思いに苦しめられていく。数日前から幽霊となってあらわれた父竹造はそんな美津江を慰め、励まし、ときに叱咤する。やがて美津江は木下と生きる決意を固め、父に感謝する。進駐軍の監視ということばが何度も出てくるような時代であり、美津江がただちに広島の語り部になったとか、原水禁運動に参加するようになったとかという話にはならないだろうが、美津江が被爆者である自分を引き受けていく覚悟を固めたことは確かであると思われる。
 政権党の一部から日本も核武装をすべきであるとか、核抑止力に実効性を持たせるために核兵器の持ち込みを許容すべきであるとかいう発言が飛び出す現代にあって、「キノコ雲の下」で何が起こったかに対する想像力を復活させるためにも今日的意義の高い作品である。だが、そのようなテーマ性あるいはメッセージ性を超えた人間愛を作品は持っている。「お前の切ないためいきから(幽霊である)儂の胴体が出来た」なとどいう科白が書ける井上ひさしは本当にすごい人間だと思った。そして、その脚本に取り組むことを決意した生徒の曇りない真っ直ぐな気持ちに心から敬意を表したいと思うのである。
 顧問のKさんがどこまでかかわっていたのかは聞いていない。帰り際にちらとロビーで見かけたのだが、natsuさんとは声をかけ合ったらしい様子があったものの、少し遅れて出た私とは目が合わなかった。終演後はすぐにバラシがあるので、といっていたから、すぐに舞台の方に引き返したのかも知れない。だから、もしかすると「一人芝居をやるならこんな台本もあるよ」と紹介したのはKさんだったのかも知れない。それは分からない。
 それでも、生徒が決意したとき、それを引き受けてやろうとしたのがKさんだったことには間違いないだろう。幕が上がったとき、装置が相当程度しっかり組まれていたことに、まず軽い感動を覚えた。一人芝居を支えていくには舞台装置の作り込みが大切だとの判断からではないか? 調度品などにはやや時代が若いと感じないでもなかったが、吊り物の電灯は視線を集中させる役割を果たしていたし、終盤になって運び込まれた原爆資料を詰めた茶箱も説得力があった。
   ※
 natsuさんとは事前に打ち合わせていたのだが会場に入るとKMさんも来ていた。思えばKさんとも同時代の人間なので何の不思議もないのだが、詳しく話を聞くと最近詩を書いている者同士のつながりで和国の1期生と知り合いとなり、その1期生を担任したのがKさんという巡り合わせがあったのだそうだ。KMさんは所用があるとのことで終演後はまたの再会を約束して別れたが、natsuさんとは新宿のわらび家で一献傾けた。シメに軽めのあがり蕎麦をいただいて9時前には別れたが、ちょうどよい関係ではないだろうか?

 

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by yassall | 2018-04-05 00:41 | 日誌 | Comments(0)
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