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ゲッコーパレード本拠地公演『チロルの秋』

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 12月9日、ゲッコーパレード本拠地公演を見に蕨まで出かけてきた。演目は岸田國士『チロルの秋』であるが、チラシにある通り、タイトルは絵画上演no.1「とにかく絵の具を大量にかけるでしょう。そしたらあなたは目撃する。それが何であったのかを。あなたと私が昔から、必ず線を引いてきたって事も。」なのである。
 黒田瑞仁の「代表からのご挨拶」によると、「これまで〈パレードのように〉と意識して数多くのジャンルの芸術家と共同制作」を行ってきたが、所属メンバーからしてどうしても「演劇公演」の形をとることになった、しかし現代美術家の柴田彩芳が新メンバーに加わったことで「作り出すものの形として「演劇公演」だけでなく「美術作品」という可能性も手に入れた」ということである。
 そこで「とにかく絵の具を大量にかけるでしょう。」ということになる訳なのだが、率直に言って、あまり成功しているとは今回はいえないように感じた。大小の脚立や椅子、あるいは広げられ、吊された布、ホウキなどが、絵の具をかけられたことによって、別な何ものかとして立ち現れてきたかというとそうはならなかった。ある美的操作によって統一されたというわけでもなく、かといって混沌というのとも違っていた。役者たちはそれらのオブジェの中で芝居を演じていくわけだが、役者が動くことによって「美術作品」が生命感を帯びてくるとか、役者側からみてその演技に新しい意味を添えていくというふうにも見えなかった。キャンバス地のような役者の衣装にも彩色がほどこされ、それはそれで面白いこころみではあったが、舞台との一体が実現されたというところまでは達していなかったように思った。総じていえば「美術作品」としても「舞台装置」としても実験的な段階で、もし続けていくのなら、コラボとして成功するのはこれからだろう。
 岸田國士については「岸田國士戯曲賞」とか、岸田今日子の父であるとかの知識しかなく、『チロルの秋』についても今回の公演にあたって「青空文庫」をナナメ読みした程度である。したがって、こちらの方も分かったようなことは書けないのだが、芝居の方は面白いと思った。
 1924年の発表で、最初期の作品であるとのことだが、どこかにボヘミアン志向があるのだろうか? チロルのホテルに長逗留していた日本人アマノが、母親が日本人で、明日には旅立つというステラと愛を語る、といった内容である。ところが冒頭のステラとホテルの経営者であるエルザの会話の部分があたかもプレイバックするかのように途中まですすんでは何回も繰り返され、ときどき陰科白が入るものの、アマノがなかなか登場しないのである。
 後半に入って、アマノは激しい物音とともに、駆け込むようにして登場する。遅れた非礼をわびる科白は原作の通りだが、どこか生々しく、客の方は役者本人の遅刻の謝罪をしているかのように一瞬錯覚する。ともかくも生身のアマノの登場によって、ここからはリアルさが追求されていくのかと思ってしまうし、実際にステラとアマノとの間には緊張感のある科白のやりとりが繰り広げられていくのだが、それらの大部分は隣室に姿を消して障子越しに聞こえてくるという演出になっている。それらのやりとりが重視されていないというより、どこか遠いものとして伝えようとしたのかも知れない。
 どうやら「空想の遊戯」をキーワードにしているのである。原作も愛の不可能性、あるいは愛の挫折をテーマにしているらしいから、決して間違った解釈ではない。むしろ恋愛が「空想の遊戯」であることを強調し、アマノの登場はその断絶でしかあり得ない、あるいは断絶によってしか恋愛はかたちを持ち得ないことを表現してみせようとした演出なのだと思った。
 ステラは崎田ゆかりが演じた。今日の芝居は崎田の芝居だったといってよいと思う。表情豊かな中にも、己れの運命を悟った、凛としたものを感じた。いろいろな役柄をこなせる役者だと思った。エルザをつとめた河原舞は今回は脇を固めた。アマノの上池健太はまだ弱さがあるように感じた。
 ヨージこと岡田萌の姿がないの心配だった。もしこのまま一座から離れるようなことになったら、これまでのように毎回公演を見に行くことになるかどうかは分からない。それでも若い才能がさまざまなチャレンジを続けていくことを応援する気持ちに変わりはない。


by yassall | 2017-12-10 04:08 | 日誌 | Comments(0)
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