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2017秋の高校演劇③西部B地区発表会(続)

 10月7・8日に大宮地区発表会が開催され、Cブロックとしてのコンクールも終了した。前回、今年も劇評をアップするかどうかについては考慮中だと書いたが、やはり掲載することにした。審査に当たった者としての責任ということを考えたし、選外としてしまった各校についても一言なりとも書き残しておきたかったからである。それよりも何よりも、やはり講評で述べただけでは足りないという気持ちが残ったからだ。そういう気持ちにさせたのも各校の芝居に後押しされたということだろう。
 最初に9月7・9・10日に開催された西部B(所沢・入間・飯能)地区の各校分をアップする。大宮地区については数日中を目標としたい。審査結果については最後に述べる。

西武文理高校「I'm HOME」藤原瑛理子・作(創作)
 家族の再生あるいは新しい家族像の模索がテーマだと思った。この本の場合は子どもを持った親同士の再婚と、その後に父親が死去してしまったことから生じた家族構成で、成り立ちとしては比較的単純である。しかし、都市化社会がすすむにつれ、血縁によらない家族というのは増えていくのではないか? そうした時代の到来を感じ取って新しい家族像を模索しようというのであれば興味深いと思った。
 芝居としては展開が急すぎたり、必然性に乏しかったり、さまざまな問題を持ち込みすぎて焦点を絞りにくかったりした。認知症の母親が家出した次女に手紙を書き残していたりなどの無理すじも気になった。「なぜ次女は家に帰ってきたのか?」をもっと突き詰めて欲しかった。もっとも激しく反応した次女が、もっとも強く家族を愛していた可能性があるのだから。引きこもりの三女の人物像は面白かった。

所沢西高校「残夏の朝顔」山本岳輝・作(創作)
 主人公大地は父と母をあい次いで亡くす。深い喪失感から孤立する大地を幼なじみや学友たちが支える。人の往来に不思議感があった。一人住まいをしている大地の家に幼なじみの女子が勝手に上がり込んでいたり、他の学友たちと泊まり込んだりと、設定上に無理なものを感じながら、あまりにもあっけらかんと進行していくので、男女間や先輩後輩間に対する人間関係のとらえ方として現代的なのかも知れないと感じた。もちろん感覚的なものだろうが。人物像の造形、人間関係における対立の見せ方、場面転換の工夫など、芝居づくりにはまだまだ工夫が必要だと思った。

狭山経済高校「これからはそういう『設定』で!」なつみ「ダブルクラブ」・作
 ネットからの台本だと思うが、面白いところがあると思った。神、自然法則、遺伝子など、人間を超えた力によって世界は支配されているという感覚は普遍的に存在するのではないか? コンピュータ時代にあって、何者かの「設定」によって自分のあり方も支配されている、という不安感にはリアリティがある。ただ、「神」による支配と比較すると世俗化されており、当然そこには「設定」しだいによって変化がありうるという隙間が生じる。主体的にとらえれば、それは変化への可能性であり、人間による働きかけの余地をあたえるものである。「取り戻そう」とする「プライド」とは人間の主体性や自由ということであろう。台本の最後を自分たちで書き換え、「自分の設定は自分たちで作り上げる」と宣言することに集約させてしまった。芝居としてどちらが面白かったかは不明だが、この台本で自分たちは何を伝えようとしているのかについてディスカッションした結果であるなら尊重したい。

所沢北高校「のぞく・はいる・ほる」古谷泰三・作
 直接的には阪神淡路大震災を背景にした作品であるらしい。「当事者」でないのに書きすぎだという人もいるかも知れないが力作だと思った。3.11後の今日、震災体験の深化という点で普遍性を持ったと思った。台本上、登場人物はA・B・C・D・Eとしか書かれていない。互いを名前で呼び合うシーンがない(だから名前をつける必要がない)以上に、誰の身の上にも起こり得る出来事として描いたということではないだろうか?
 5人が5人とも重要な位置付けがなされている。比較的早くに出番がなくなるAとBにしても、お互いがお互いを見失い、すれ違い、それでも互いを探しに行くのである。結婚し、子どもをつくり、つまり生活の再建のため階段を登ろうとするDがいて、自分にそれを許さず井戸を掘り続けようというCがいる。もちろん作品はCの選択に重きをおこうとするのだが、DにはDの苦悩があったこともきちんと描き切っているのである。
 大澤真幸の本で知ったのだが、「ソフィーの選択」という重いテーマがある。Eの抱えた苦悩は「命の差別」という点で「ソフィーの選択」と同質であると思った。Eは最初に発見した「草食動物の目」をした「あいつ」ではなく、その声にしたがって救援に向かったCを助けた。以前、「隙間に入ることによって誰かの役に立ちたいんだ」と語ったという「あいつ」にCは神を見たのかも知れない。それ故に憎み、見殺しにした罪悪感に耐え難かったのだ。
 だがしかし、その重さは助けられたCも背負わざるを得なかったものである。そのCが井戸を「ほる」ことを決意し、心の痛手を癒やし、いつか罪を洗い流す「水」を掘り当てようとする。その勇気の確かさを思った。
 生徒たちはこの芝居の重さを受け止めきれるだろうか、ただ台本をなぞるのではなく、自分たちの肉体を通して表現できるだろうか、というのが課題だと思った。最後まで緊張感が失われることなく、みごとにやり遂げた。
 最後に舞台装置について。階段はきれいに作り込まれていた。散乱する瓦礫はどうかと思ったが、登場人物たちにとって「その日」の風景は少しも変わらないのだとすれば、彼らの選択の方が正しかったのかも知れない。中空に斜めに吊された十字架も不要だと思ったが、ふとA.ワイダの「灰とダイヤモンド」で、廃墟となった教会でマリア像が逆さに吊されていたのを連想した。

入間向陽高校「靴下スケート」中村勉・作
 明日処分する予定であるらしい、これまでに溜めこんだ雑多な品々を詰め込んだ「100か200」のゴミ袋の山から加奈子が登場する。学校には通っているらしいから引き籠もりとは違うのだが、明らかに周囲に適応できずにいる加奈子と、何人目かの家庭教師として傭われた優子との二人芝居である。いつしか共感や連帯感で結ばれていくのだが、会話自体はたわいもなく、ナンセンスに終始している。きっと、そのナンセンスさを楽しむ芝居なのだろう。会話はことばのやりとりには違いないが、必ずしも意味を伝達することを目的としているとは限らず、他者を身近に感じ、感情を共有することに価値があることもあるのだ。袋の中味は加奈子には宝物であったのだろう。それがゴミ袋に収められているということは、加奈子自身が自分を変えようと思う時期に差しかかったと見ることも出来る。その意味では品々の中で仮面は象徴的である。ペルソナはパーソナリティーの語源である。パーソナリティーとして社会参加することとは仮面をかぶることであるかも知れないのである。もっと弾んでもいいとも思ったが、向陽らしい丁寧な芝居づくりで好感が持てた。ラストの靴下スケートは舞台の真ん中でやって欲しかった。

芸術総合高校「朝がある」柴幸男・作
 作者の柴幸男氏は2010年の岸田賞受賞者であるとのことだ。本来は一人芝居であったものを集団劇に脚色したらしい。さらに元をただすと、柴氏は太宰治の「女生徒」の世界を表現しようとしたのだという。
 あとから聞くと、脚色や科白の分担、フォーメーションやモーションは生徒たちがあれこれ工夫しながら決めたらしい。公演1週間前まで詰めの作業をおこなっていたというから、確かに若干のぎこちなさは残っていたかも知れない。しかし、それも言われてみればの話であって、むしろ固められていないみずみずしさと伸びやかさがあった。
 主題は時間だと思った。私たちが直面している時間は「明日、そしてまた明日」という無秩序に連続していく時間であり、たちまちに過ぎ去り、失われていく時間である。この劇でいえば「ゆう子さんにきちんとお礼をいわないうちに機会を失ってしまった」と悔やむしかない時間である。
 しかし、AからJまでの無数の私たちは自由に時間の中を行き来する。それは、この劇で描かれた時間は「一瞬」であるからだ。いうなれば水平の時間ではなく垂直の時間、「一瞬」から永遠へとつながっていくような時間なのである。その象徴が「くしゃみ」である。くしゃみは思考と行動のズレさえも無化してしまう。
 本来、このような時間は詩の持つ時間である。演劇でありながら表現されたのは詩なのである。今回はその実験精神を買いたい。

聖望学園高校「七人の部長」越智優・作
 良く書けた台本だと思う。「生徒の自主性尊重」は形式的なタテマエで終わっていないか、という学校批判の要素が認められる。どこまで高校生たちを啓発しようという意図が働いているかは分からないが、大いに刺激されて欲しいところだ。
 ただ、「会議」によって生徒自身で何かを決めたい、たとえ結果がついてこなくても職員会議に働きかけてみたい、という生徒会長の問題意識は部長会議のメンバーには理解されず、共有されるところにはならなかった。不満といえばそこが不満だったが、もともと啓蒙的に作られた劇ではないから仕方ないだろう。
 その分、帰れる・変えられないの混乱とか、マラソンの話題への脱線とか、剣道部とアニメ部の対立と和解とか、客席を笑いの渦に巻き込んでしまえるかどうかが勝負どころとなる。実際、何度もこの芝居を見ているはずなのに思わず笑ってしまうくらいに仕掛けに手が込んでいる。あとはいかに客席の呼吸をつかむかだ。
 女子は顔が見えるようにきちんと髪を束ね、履き物も(体育館履きではなく)上履きを用意してきた。丁寧に芝居づくりをして発表会に臨んで来たことは分かる。生徒会室を教室型にしたが、自分たちもあとから言っていたように机と机の間隔が開きすぎて、会話や動きのテンポが狂ってしまったのが残念だった。ふだんの練習場所より舞台のスペースが広いと、つい演技エリアをひろげ過ぎてしまうが、そんな必要はないばかりか不自然になってしまうのである。

豊岡高校「ホットをひとつ、お願いします。」福原未希・作(創作)
 作品に対してはツッコミどころ満載なのだが演技力で引っ張った。とくにサラシナ(作者でもある)を演じた女子の柔らかい、ふくらみのある演技が光った。変転する心の動きが伝わってきた。そのサラシナのリードによるものだと思うが、ユキモト役の不思議な人感(何しろ天国でカードに興じるという場面で始まるのだから)、動きにキレのあるアイダ役のズッコケ感、アイダの上司であるホヅミ役のしっかり感がうまく噛み合い、飽きさせない。互いの距離感も正確だと思った。
 サラシナは自分のためにユキモトを死なせてしまったという「心的外傷」をかかえている。一方、ユキモトは先に天国にいてサラシナを案じている。その「心的外傷」をどう克服していくかが課題になるのだろうが、サラシナは最後まで自分を許すことが出来ず、またユキモトを受け入れることも拒否する。そのギリギリのところを追求しようとしたことは理解できる気がする。安易なハッピーエンドに終わってしまうことを否定したかったのだろう。ただ、どうしてもそこで芝居が止まってしまうし、複雑な心情をことばで説明してしまうから、客は演技よりことばに集中してしまう。
 結局、二人は転生した後に再会を果たすのだが(そうでないとドラマにならないのだから、それはいいのだが)、先の結末からどうしてそれが可能だったかもことばによる(それもとってつけたような)説明になってしまった。
 と、批評がましいことを書いたが、それは「ツッコミどころ満載」と書いてしまった手前であって、思いがけない見つけ物をしたという感想に偽りはない。

所沢高校「オイデイプス」岡谷南高校演劇部・作
 芝居づくり・舞台づくりをよく心得ている学校だなと思った。現代のマスコミ社会を外枠にして古代ギリシャ悲劇が同時進行していくという劇である。舞台に大がかりなギリシャ神殿風の舞台装置を飾り込んだ。二重舞台になっているからそれぞれの世界が同時に展開しても観客は直感的に理解できる。主要なキャスト以外は一人で何役も受け持つことになる。衣装を黒で統一して色のついた布を身にまとうとか、腕章を腕にはめるとかしてシンボライズし、役どころを明確にした。オーソドックスではあるが、演者を交代させながら単サスの点灯・消灯を繰り返すことによる場転にはスピード感があった。
 台本も興味深いものだった。古代ギリシャ悲劇は託宣(という神の意志)によって定められた運命から逃れ得ない人間たちの物語である。近代化とは、しかしその神々の世界の世俗化だった。現代マスコミにとって、王たちの悲劇は視聴者を刺激する話題性という価値に一元化され、視聴率かせぎの餌食でしかない。その対立が劇の骨格になるだろうと思った(あとからの懇談によると、生徒たちもそういう認識でいたらしい)。
 しかしながら、これは台本通りなのだから仕方ないのだが、とくに前半のオイデイプスが妙に子ども子どもして作られていたり、明快で論理的な弁護が魅力的だったクレオンが結果的にはオイデイプスを追放することになるのだが、人間の運命や悲劇に対する共感を欠いているように見えたりするところが残念だった。「みなまで言うな」というオイデイプスの科白は、己の運命を引き受けようとの勇気の証だろう。この場面はなかなか堂々と演じられていた。ディレクター役の女子も好演だった。

所沢商業高校「タナトピア」穂村一彦・作
 死んだときの姿のまま死体が永久に保持されるというタナトピアで、愛する(した)人との生活を選択した者たち。破綻も多いが選びたくなる気持ちも分からなくもない。古事記にも、ギリシャ神話にも、中国古典にも現れる世界である。タナトピアからの脱出を試みた由佳がもっとも非人間的な存在に描かれる。
 グロテスクさとロマンティシズムとの共存とでもいうのだろうか、怪奇ロマンというような雰囲気をもっと濃厚に出せれば面白い芝居になったかも知れない。舞台の作り込みが不足していたのと、場面転換の仕方にも工夫が必要だった。芝居づくりの基礎をどこかで学べればよいのだが。
 2年生が1人(もう1人、死体役で友情出演)、1年生が3人。2年生のひかり役の生徒には見覚えがあった。昨年からの急成長に驚かされた。感情表現、目線の送り方がよく、意味のない動作がなく、感情の変化の裏付けがしっかりしていた。せっかく多人数で入部してきた1年生を引っ張っていって欲しい。

所沢中央高校「そうーゆーことも」小林洋・作
 4人連れのクラスメートが高校最後の夏休みの記念にキャンプに出かける。そこで思いがけない出生の秘密が明らかになる、というけっこう深刻な内容なのだが、「そうーゆーことも」あるさという軽妙さを基調としようという芝居なのだろう。
 「それでミナミがいてくれるならよかったのかな」という科白のためにある芝居なのかな、と思った。どのようにしてこの世に生を受けたかには関わらず、一人ひとりの命と人生に価値があるのだから。
 アンサンブルがよく、幕が降りたあとにさわやかさの残る演技であった。そこのところは評価できるのだが、やはり台本には無理があると思った。米を研ぐのに洗剤を使おうとしたというのは受け狙いでしょう、と講評で述べた。ネットの世界では、洗剤で米を洗って電気釜にかけたら泡だらけになってしまった、というような逸話が確かに出てくる。しかし、私は猫チン事件(アメリカで猫を電子レンジでチンしてしまった、取扱説明書には禁止の項目がなかったので訴訟を起こし、勝訴した)と同じような作り話であろうと思っている。もし家でも学校の調理実習の時間でも、一度も米を研いだことがない、家族や級友が研いでいるところを見たことがない、という生徒が仮にいたとしても、その生徒が「ああ、じゃあ私が行ってくるよ」と名乗りをあげたりするだろうか? 

狭山清陵高校「ぽっくりさん」亀尾佳宏・作
 台本に対する疑問は以前(9月21日)に書いたとおり。クライマックスには劇的な結末と、「死を選ぶな!」という強いメッセージが発せられるが、果たして自死願望を懐いてしまった人たちにどれだけ届くだろうか?
 前半のコメディタッチの「学校の怪談」テイストから、後半のシリアスへの変化をメリハリをもって作り出せるか、教室の中で傘をさして歩くなどの場面を幻想的に作れるか、あたりが見どころになるなと予想していたが、生徒たちもどこか納得できていないのか、なかなか素直には芝居が進行していかないようにみえた。「目に見えないものを見てきた」という子どもたちの気持ちを、私が理解できないというのとは違うのである。
 部活の雰囲気はなかなかよいのではないだろうか? ぽっくりさん役に力量を感じたが、他のキャストも個人で工夫したり、皆で相談したりしながら役作りをし、芝居を作り上げていこうとした跡は確かに伝わって来た。 
飯能高校「DAWN 「ドーン」」飯能高校演劇部・作
 場転につぐ場転、スピード感あるパフォーマンス、圧倒的な稽古量と不要な自意識は捨て去ってしまおうという覚悟で客席を興奮の渦で巻き込んだ。
 監禁か密室か(密室は内側からは容易に鍵を外せるのだそうだ)、つまり人間の自由? はたまたエロスの復権? そのあたりにテーマがあるのではないか、と検討をつけてみる。如来、菩薩、明王という日本の神仏たちとミカエル、ガブリエル、アズラエルという西洋の神の使いたちとが協力して星明という男子生徒の獣性=煩悩を呼び覚まそうとする。しかし、どうやら西洋側には別の意図があった様子でサタン(ルシファー=明けの明星=サタン)の復活を企んでいたらしいことが発覚する。しかし、星明はサタンとしては復活せず、西洋側の企みは挫折する。「これで日本は守られた」というのは人間の理性と感情に対する東西文明の差異を表現しているのだろうか?
 ところがミカエルが仕えているのがギリシャ・ローマ神話の主神ゼウスであったり、そのミカエルのいでたちはどうみても修道士であったりと、どこまで本気でテーマを追求しているのかは不明である。
 はたと、これはパフォーマンスそのものを楽しめばよいのでは、と考えを変えた。すると冒頭に述べたように感嘆すべき芝居はこびが見えて来たのである。
 昨年も1人の3年生が中心になっていたが、その3年生の芝居をみごとに受けていた2年生(つまり今年3年生)がミカエル役で出演していた。この3年生が昨年に増してパワーアップしていた。ほぼ袖幕に隠れ、審査員席か両端の最前列席からしか見えないだろうという場所に入ってからもしっかり演技が出来ていた。1年生のただ1人の男子も含め、他のキャストも鍛えられた演技であったが、中でも伝達役の柔軟でキレの良い演技が光っていた。先が楽しみである。


by yassall | 2017-10-09 14:40 | 高校演劇 | Trackback | Comments(0)
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