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2017秋の高校演劇②西部A地区秋季発表会

 9月23・24日、西部A地区秋季発表会へ出かけて来た。どんなに頼まれても、古巣であるこの地区の審査員だけは引き受けまいと思ってきた。審査とはかかわりのない目で芝居をみたいと思っているからだ。
 とはいえ、やはり秋は秋なりの緊張感のある発表会となった。もちろん、各校もコンクールだけを目当てに芝居づくりをしているわけではないだろうが、それぞれに特色を出しつつ、高みをめざしていこうという意欲が伝わってきた。
 長い夏休みを芝居づくりについやして来たことだろうから、見せていただいた礼儀として感想を書いてみたい。芝居の出来不出来ということとは関係なく、書きたいことが次々と浮かんでくる芝居とそうはならない芝居とがあるから、長短に差が出てしまうのはご容赦願いたい。

和光国際高校「たりたの疾風」萩原康節・作
 顧問のHさんとは長いつきあいになった。ご自分でも武道をたしなんでいらしたから、その経験をいかして殺陣をとりこんだ作品が多かった。和国に異動して来られてからは初めてだと記憶している(昨年も柔道部ものではあったが)が、Hさんの作品の中では一番の出来だと思った。
 それは題材とその扱いの面白さによるところが大きい。その題材とは明治28年に創設された大日本武徳会の大会に参加し、のちに薙刀術範士の称号を受けた園部たりたの生涯である。実在の人物であるから一個の人間として人物像が浮き彫りにされ、あるいは制約され、対立軸を浮き立たせるために「作られた」人間像になってしまうという弊をまぬがれることができた。
 ネットで知れる範囲のことだが、園部たりたは明治3年仙台藩馬廻役日下陽三郎の六女として生まれた(明治3年は会津戦争後であるから仙台藩が藩として存続していたといっていいか、どうかは不明)。撃剣興業に参加しながら薙刀術をまなび、18歳で印可状を受け、秀雄と名のることを許された。劇はたりた18歳のころから数年間を描く。(劇はたりたと渡辺昇との試合がクライマックスであるが、実際にたりたと渡辺昇が大演武会で試合をおこなったのはたりた29歳とあるから、かなり作者による創作の手が加わっているのは確かだろう)。
 こうした芝居が劇として成立するかどうかはその武具のとりまわし、稽古における型や演武の迫真性だろう。稽古風景を最初に見せて、そのキレのよさで客を引きつけたし、とくにたりた役の生徒のさわやかさが伝わる演技で、嫌な味わいが混ざり込むのを退けた。稽古用の棒薙刀をきちんと袋に収めているところなどにもきめ細かい作り込みがうかがえた。
 だが、私がもっとも引かれたのは師範役に位置づけられた中澤琴乃の人物像である。たりたと同じ仙台藩の出身で西南戦争時には抜刀隊にも加わったという設定になっている。たりたより年長であるから戦闘に加わったかどうかは別として会津戦争も記憶にあったに違いない。二度の戦乱の経験者である中澤は、日清戦争を前にして渡辺が戦意高揚のために全国の陸軍の基地を巡回興行させようとするのを必死に拒否しようとした、というのである。
 大日本武徳会の創設には二面性があったのだろう。国民の戦意高揚、敢闘精神の涵養に役立つという富国強兵政策との合致から財団法人として認可された、という一面はもちろんあっただろうし、また近代戦においてほとんど価値を失った古武術の伝統を守りたい、とする武道家たちの切なる願いもあったことだろう。劇中では「武術の近代化」ということばで表現される。中澤は薙刀の「近代化」をめざしたということになっていた。
 ※薙刀は南北朝以降はほとんど実戦では使われなくなった武器であるから、伝統やたしなみという側面が特に強かっただろう。
 ※武術の近代化という面でもっとも成功した例は講道館柔道だろう。
 また、劇は女性の地位向上という主題も秘めていた。先ほども書いたように武道家としてのたりたは実際には秀雄を名のっていたようである。それを「もう女子は足りた」から名づけたというたりたという名をあえて残しているところからも知れる。
 脚本としての作り込みに荒っぽさがあったことは否めない。劇中で何度か「追い込まれたときこそ前に出る。逃げ場がなくなってから逃げたら負けなんだ」という、たりたのモットーだったらしい科白が使われていた。このことばなども、単に試合に臨んだときの心得、あるいは勝利へのこだわりとだけ受け取られていたらもったいない。逆境に抗う力、自らの運命を自らの力で切りひらく固い決意のことばとして伝わるようになっていたら、と思った。
 日清戦争前夜という重い問題を提起しながらそのままになってしまったことの消化不良感はその通りだと思う(実際には国民の多くは戦勝ムードに湧いたというのが本当のところだろう。だが、そこには多大の犠牲があったはずだ。中澤の「また人が死ぬんですね」という述懐はもっと光ってよいと思った)。
 中澤のその後の消息として、満州に渡ったそうだ、という点についても考えるところは多々あるが、ここでは触れない。ただ、いろいろな人々がいろいろな動機と目的をもって大陸へと渡っていったのだろうとだけいっておく。小説上のことだが、五味川純平『人間の條件』の梶だって戦争に疑問を持ち、兵役から免除されようと満鉄職員になったことになっている。
  ※
 たりたの曾孫だという大志は狂言回しに徹底した方が成功したのではないか? ただ、合気道をやっていたという大志に、もし仮に多少とも作者の影が投影されていたとするなら、(年上らしい口の利き方をさせてもらうなら)もっと自信を持てよ、そうすれば人の批判ももっと素直に、余裕をもって受け入れられるはず、そのことでさらに成長できるはずと言いたい。
  ※
 のっけから長文になった。本当はHさんに読んで欲しいがHさんは私のブログは読んでいないだろう。つまりは自分のために書いておきたかったと言うことだ。
  ※
 さて、この調子だといつまでたってもアップできそうもないので、少々スピードアップ。冒頭に書いたように芝居の出来不出来、印象に残った残らないとは別なのでご容赦!

細田学園高校「ぼくんち」廣井直子・作
 公園にいつも集まって来る5人の仲良しの子どもたち。ママゴト遊びや隠れん坊で取り残され、泣き出した弟と兄との葛藤などを通じて、各家庭の内情や子どもたちが抱いている心の不満などがあきらかになるというお芝居。
 いきなり鬼婆退治という場面で始まるからドッキリさせられるが、昔風の嫁いびりの姑のいる家庭だったら、心を痛めている子どもたちがいることも想像できる。まあ、「本当に殴っちゃだめなんだよ。」と戒めているところにかわいげがある。
 春の「七人の部長」と比較すると「作ろう」「見せよう」が優先していない分、演技は素直で好感がもてる。ただ、今度は芝居はこびが坦々としてしまって、子どもたちの心の動きがみえず、芝居の展開を見失ってしまう場面が多かった。あれ、あの兄はどうして急にすねだしたのだろう?と、首をかしげてしまうのだった。それは役者自身の心がきちんと動いていないとき、つまりなぜその科白が出てくるのか理解できていないことが多いのだ。
 舞台装置の黒ボックスは審査員の指摘があったとおり。とはいえ、舞台装置はトータルな世界観、といいながら、私も芝居の都合を優先させてしまったことは多々ある。だが、とくに具象(滑り台やジャングルジム)と抽象とを混合させる場合には細心の注意が必要だ。
 顧問のEさんには次世代のホープとして皆期待している。がんばろう!

新座総合技術高校「アメリカンに謎解きを。」NSG演劇部・作
 新総ワンダーランドというところだね。以前にも、このゆるい感じがかえって魅力なのかも知れない、と書いたことがある。今回もなかなかのスタイルの持ち主が金髪とピンヒールといういでたちで登場、観客を煙に巻いた。
 ただ、その意味でいうと服飾科、デザイン科をかかえる新総としては、まだまだビジュアルのパンチ度が弱かった。新総の独自路線をつらぬくのか、それとも本格的にドラマづくりをめざすのか、選択のときではないだろうか?
 春にせっかく「海がはじまる」で開いた新境地を追求してもらいたいという気持ちが残る。見ていると、いつも一定の部員数は確保できているのだから。

朝霞西高校「スナフキンの手紙」鴻上尚史・作
 料理しがいのある芝居だ(劇中にフライパンを持った後藤田が登場するから、というわけではないが)。
 朝霞でも春季発表会で1度(その頃は私はまだ志木にいたが)、新1年生のアトリエ公演で1度とりくんだことがある。その頃は春は特に時間制限はもうけていなかったから90分くらいにはなっていたと記憶しているし、アトリエはそもそもエンドレスである。だから60分芝居におさめるのはかなり苦労があったのではないか、と推察する。
 ただ、今回の朝西の芝居についていえば、かえって無駄をそぎ落とした、テンポのよいしまった芝居になっていたのではないだろうか? 幕開け早々から高速で舞台を駆け回る役者たちの動きで観客を演劇空間に引きこんでいく。
 キャンディー追跡の場面に突然サラリーマンが登場するシーンがある。昔、生徒が欲しいというのでドンデンを作ったが、朝西は大黒の前に置かれた黒ボックスにダークスーツをきた山室が後ろ向きに座っているというスタンバイの仕方で処理していた。その方がスピード感も出るし、十分成立していたと思う。
 さて、「理想の60年代」「内戦の70年代」「流血の80年代」(詳しくは忘れたが)という時代認識が示されたあと、「希望の90年代」が提起される。では自殺衝動も乗り越え、どのように「希望の90年代」に飛躍するのか? 「閉ざされた扉」という閉塞状況を打破するのか?
 もし、不満があるとすれば、サイコダイブしたあと到達した新世界で、面々にはもっと新鮮な自己と世界との出会い感が欲しかった。そうでなかければ新しい出発もあり得ないのだから。

朝霞高校「りんごの木の下で」カメオカマミ・作
 緞帳が開いて、ああ、よくここまで和室の一部屋を作り込んだな、というのが第一印象だった。あとから見せてもらうと畳の敷き方や柱の造作など、けっして丁寧ではないのだけれど、客席からは十分観賞に耐えるものだった。
 階段のつけ方には指摘があった。前の私の家でも2階はあとで建て増ししたこともあり、(居間ではなかったが)畳の部屋に階段がつくことになった(その部屋は納戸のようになった)。居間だと風の吹き込みが心配は心配だが、許容範囲かとも思う。だが、縁側の位置は約束事をしっかり決めておいて欲しかった。外にいた長女を室内に呼び戻したとき、縁側があるとされた面とは違う面から入ってきた。おい、そこは壁でTVが置いてあったはずだろう、と突っ込みたくなった。もう夜だし、遅れて玄関から戻ってきた長女が皆が空けておいた席につくことで全員がそろった、ということでよかったのではないだろうか?
 台本は審査員が二人とも評価なさっていたが私には無理すじに思われた。いくら寝起きが悪くても親にカッターを投げつける娘がいて、その親子関係や家族関係からこのようなストーリーが展開していくだろうか、と首をかしげた。その次女が父親にしかけたいたずらの始末がどうなったかも霧散ししてしまったし、フィアンセがもうすぐ訪ねてくるという直前になって美容院にでかけるという設定も、長女が居合わせないことによるドタバタのためのご都合と思われてしかたがない。
 それでも客席に一定の笑いが生まれたのは脚本の力というより演技の力だった、と何人かの方からはお褒めのことばをいただいた。まあ、こちらももっと作り込めるとは思ったが(と相変わらず朝霞には厳しめにいっておく)。

新座高校「お葬式」亀尾佳宏・作
 この演目については「女の子が抜けだして来たのは「知らない人が大勢集まって」「みな嘘泣きしている」のにいたたまれなかったからではないだろうか? 幼いために人の死を理解できないでいる、というのではなく、大好きだった祖父の死を受け入れられないでいるからではないだろうか?」というようなことを以前に書き、また「お葬式ごっこ」はその儀礼としての葬式をいったん無化し、真に人の死を悼み、弔うことの意味をもう一度問い直すということだったのではないか、とも書いたことがある。
 実はそのような考え方をするようになったのは、以前に同じ新座高校がとりくんだ「お葬式」を見てからなのだ。ところがその後、他の学校が上演した「お葬式」を見ると、どうも違っているような気がしてならなくなった。
 今回、新座高校の芝居を見て、その理由が分かったような気がした。今回の「お葬式」はその後に見た「お葬式」と同じなのだ。つまり、こちらの方が脚本そのままで、その意味でいったら前回見た「お葬式」だって脚本に忠実だったのには違いないのだが、生徒たちの演技がどこかで私の想像力と思考回路を刺激してくれたのだった。
 丁寧に芝居を作っていたし、演じていた。だが、そうするとやはり子どもの芝居になってしまう。それもかなり無理すじの子どもだったということになってしまう。(ああ、また亀尾氏の脚本を否定するような言い方になってしまった。)

新座柳瀬高校「Lonely my Sweet Rose」サン・テグジュペリ・作 稲葉智己・脚色
 2014年の秋に初演されている。その時、私は「感心したのは俳優たちのセリフの美しさだ。本当に美しい詩の朗読を聞かされているような酩酊感があった。」と書いた。
 台本はほぼ変わっていないのだという。しかし、私には一段と作品としての完成度が増したように思えた。役者の力量、ということではないと思う。前回も役者のレベルは相当に高かった。
 演出は変わったところがある。前回、王子は円錐形の台の中で蛇に咬まれて消えていったと記憶している。しかけはほぼ同じだが、今回はセンターで蛇にからまれ、暗転ののち、円錐形の台の中で現れる。あまり詳しく書いてしまうといけないのかも知れないが、バラが現れる場所も違った。
 エンディングの変更で芝居にドラマチックさが生まれたと感じたが、それ以上の変化があった。それは飛行士である。飛行士の受けの演技がみごとだったのだ。ほぼ王子の独白で進行していく芝居が受けの演技のおかげできちんと会話として成立していったのだ。飛行士がしだいに王子のことばに引きこまれ、その存在を「飼い慣らし」「飼い慣らされ」ていく様がみてとれたのだ。
 そのことについては照明効果も有効だった。飛行士の目に光をあたえ、表情に陰影をもたらした。だから、王子が消えたあとで飛行士が「王子様!」と嘆きの声をあげることの必然性も伝わった(ただし、声はもう少し抑え気味で悲しみが表現されていた方がよかった)。
 中央の台上の長身の地理学者も存在感があり、声も美声だった。バラ役の女子は確かはじめての女性役だったが、どこか投げやりな感じをよく醸し出していた。ヘビ役、キツネ役もきちんと役どころを果たしていたと思う。
  ※
 この地区段階での中央発表会への推薦のための候補校については、もう一つの地区の発表会がこれからであり、途中経過なので聞きはしたが公表および論評は差し控える。ただ、2日間を通して全部の上演を見せてもらった身として結果は順当であったと思う、とだけ言っておきたい。
  ※
 さて、今回は最後にnatsuさんとの交遊記のようなことを書いておきたい(きっと、何を勝手な!と怒られることだと思うが)。
 natsuさんが所沢から新座北(新座柳瀬の前身)に異動してきたのは私が志木に転勤になった1年後のことではなかっただろうか?
 最初のうち、私は演劇部には熱心でなかった。まったくの初心者で指導らしきことも出来なかった。新しい学校に定着するためにはまず学年にしっかりとりくもう、と思っていたし、実は学校図書館関係でも全国大会の開催をひかえていた。
 ところが異動3年目の夏、その全国大会準備の疲れもあったのか、私は大きな病気をして半年ほど休職し、学年も外れることになった。復帰後の冬、地区の顧問会議があった。次年度の常任委員が志木に回って来る番だったらしいのだが、立教のTさんが気を回してくれ、順番の変更を提案してくれた。そのとき、「ああ、いいよ」と気楽に引き受けてくれたのがnatsuさんだったのだ。
 その時までにも何度か顔を合わせているはずだったのだが、natsuさんという人物をはっきりと意識したのは初めてだった。それ以来の交遊のはじまりだった。
 その後、私の方は手術後の痛みや不具合からもそろそろと回復し、学年を外してもらったものの、もう少し生徒と関わり合いたいなと思い始めていた。演劇部には新入部員がなく、もと所属していた学年の3年生が3人ばかりいるだけだった。そこへ入試の面接で演劇部への入部を希望していた生徒と掃除監督で出会ったのである。その生徒は入学後、すぐには演劇部には入部しなかった。「あれ、君は演劇部に入部したいと言っていた子ではなかったっけ?」とたずねると、今でもやってみたいとは思っているという。そこで「一人じゃできないから誰かつれておいで」といったら、程なくして中学の同級生だという生徒と一緒にやってきたのだ。
 一方で常任委員を外してもらうという配慮をしてもらいながら、一方で顧問生活の続行(実質は開始)をはかるという。矛盾しているようだが、演劇部顧問としての人生も、西部Aとのかかわりもこうしてはじまった。
 それ以前は知らないが、西部Aの地区としての立て直しの時期であったようで、その中心になったのがnatsuさんだった。それも幸い?したのか、私としてはすでに出来上がった仲間の中に入っていくというより、最初から運営体制づくりの中に組み込まれていくことになった。反対にいえば逃げ隠れ出来ないことになった。
 とはいえ、初心者であることには変わりがない。natsuさんには本当にいろいろなことを教わった。照明の基本的な考え方からパネルの作り方、そして芝居のあり方・考え方、脚本の読み方から稽古の仕方……。私はすでに45歳をすぎていたが、natsuさんは私より若干年長であったから尋ねやすかったし、natsuさんとしても教えやすかったのだろう(覚えの悪い奴だとは思っただろうが)。直接教えてもらったことも多いが、照明の仕込みでも最初は綱元などを任されながら「見て」覚えたことも多い。
 後年のことになるが、数年前に定年となったAさんから「Sさんは他校の生徒のことも同じように考えてくれたり、相談にのってくれた。」ということばをかけてもらった。ヒアリングやリハーサルなどでの立ち位置などもnatsuさんから受け継いだスタイルだ。「昔は自分のところのことしか考えいなかった。今はその罪滅ぼしだ。」というのが口癖だった。
 「(演劇部以外の)他のところで出会ったら、きっとお互いに何てヤツだ、と思い合っていただろう。」というのも口癖だった。だが、お互いに酒好きだというところでは気が合った。お互い現役だったころは、ことあるごとに居酒屋通いをした。他にも声をかければお仲間が大勢集まって来た。
 natsuさんは自分はやさしくないという。だが、他人にやさしくない人間がいっしょに酒を吞むことを好んだりはしないものだ。確かに大いに頑固で、少々?怒りっぽく、歯に衣着せぬところはある。だが、後腐れのないところもあって、相手がいい芝居を作れば過去のいきさつは抜きにして讃辞を送るというような場面には何度も遭遇している。
 相手を見てものをいうことを知っているのはもちろんである。私も志木にいるときより、朝霞に移ってからの方がきつい言われ方をした。朝霞をあずかったならもっとしっかりしろ、と言いたかったのだろう。当初はいろいろ難題もあったから、かえって励ましのことばと受け取った。それでも、私が初めて中央発表会への出場を決めた芝居のとき、バラシの最中に「段取りはみんな決まったね」とニコニコしながら声をかけてくれたのを印象深く覚えている。
 こんなことを書き出したのは、このところ何回か触れている西部A地区との接し方についてである。幸い古くからの付き合いの人も、新しく顔なじみになった人も、我々が行けばあたたかく迎えてくれる。打ち上げの席にも招待してくれる。だが、ときどき、このままでいいのかと思わないでもないのである。natsuさんの観察眼は変わらず鋭く、せっかくのチャンスがあるなら聞かなくては損だと私などは思うのだが、やはりヒアリングでさまざまな助言を得たり、ライトを吊ってもらったり、ときには同じ悩みをかかえる同志としての一面をみたりという関係性が薄れていくと、なかなか素直に耳を傾けてもらえないという場面も増えているのではないかと感じているのである。いつか、そんなことをゆっくり話合ってみたいと思っている。(書き過ぎも多々あっただろう。しかも、ながながと。natsuさんごめんね!)


by yassall | 2017-09-26 02:28 | 高校演劇 | Comments(4)
Commented by at 2017-09-26 07:03 x
週末はご観劇ありがとうございました。
続けて観てくださっている方の感想は自分の作品を見直すときに、とても参考になります。
これからもよろしくお願いします。
Commented by yassall at 2017-09-26 09:32
お疲れ様でした!お客さんがたくさんみえて良かったですね。地理学者の羽ペンはもう少し角度をつけて持った方がよかったかな? 照明の切り替えが頻繁すぎたのではないか、という見方も確かにあります。でも最終的には作り手の判断です。生徒たちは信頼してついてくると思います。それも智さんの力ですね。
Commented by natsu at 2017-09-26 16:58 x
さすが、yassallさんの劇評は丁寧で行き届いているなあと感心しながら読んできたら、最後に来て、おいおい、何だよこれは~。
無性に昔のことが話したくなる時はあるけれど、これはあまりにも突然だ。

でも、かまわないですよ。わたしが忘れてしまったこともあって、そうだったかなと振り返りました。
yassallさんはわたしにいろんなことを教わったと書いているけれど、わたしの方は教えた気はまったくなくて、聞かれれば答えたし、思ったことをあれこれ言ったかもしれないけれど、それを教わったと言ってくれるのは受け取るyassallさんの方にそういう気持ちや姿勢があったということで、わたしとしては教えてなんかいないよと言いたい一方で、嬉しいしありがたい気持ちでいっぱいになります。

西部A地区とのつき合いについては、確かにそろそろ潮時かもしれないね。
またどこかで飲みましょう。
Commented by yassall at 2017-09-28 08:35
そういえば朝コミから追い出されそうになったのを必死で押し戻した、なんて事件もありましたね。ここは年寄りが出なきゃダメだとか、女性も連れて行った方がいいとか、いっしょに作戦を練ったものでした。照明講習会を開いてくれたAさん、書道の腕前を発揮してくれたKさん、すてきな仲間もたくさんいました。釘か木ネジか論争なんかも懐かしいです。西部A、やはり去りがたい!
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