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2017年春季西部A地区演劇発表会

 4月29・30日、2017年春季西部A地区発表会が朝霞コミュニティセンターで開催された。1日目が9:30開場で和光国際、新座総合技術、朝霞高校の3校、2日目が9:20開場で朝霞西、細田学園、新座、新座柳瀬高校の4校が上演した。
 2日間で7校上演ならずいぶん余裕があるな、と一瞬感じたが、各校の生徒・顧問は両日とも朝8:30には集合ということになっていただろうし、学校によってはもっと早い時間に学校集合がかかっていたところもあるだろう。現役時代、私の学校でも「朝通し」が慣例になっていて6:30だったかに集合していた時代もあった。(その後はメイクだけになって、少し集合時間が遅くなった。)
 そういうわけだから、見に行くだけの立場の人間は気楽なものである。1本の芝居を上演にまでこぎつける稽古の日々と(たぶん一直線に進められたわけではないだろう)、2日間の運営にあたるご苦労とに対するリスペクトを忘れないように心がけながら観劇した。まあ、そのためには楽しんで観させてもらうのが一番だと思いながら。

 和光国際高校「さいまじょ・メランコリア」萩原康節・作
 キャストリストをみると3年生はほぼ総出演。春の発表会は3年生の総決算公演でもあるのだ。卒業をひかえ、「三送会」で自分たちなりのメッセージを送ろうと、共鳴した後輩たちとともにダンスを踊る卒業生たち。ストーリーの展開がなんとも強引だなあ、と感じたが、どうやらアイドル・グループ欅坂46の「サイレント・マジョリティ」という曲を振り付けつきで踊りたい、というところから出発したらしい。私のような年齢の者には、どこかで聞いたことがあるかも知れないなあ、という程度の認知度であったのでネットで調べてみた。この歌詞が現代の若者たちの心をとらえているのだとしたら興味深いことだと思った。
 分かりやすくするためか、人物造形が類型に傾いているのが気になった。理事長がその典型だが、その口から吉本隆明の名が飛び出したのには驚かされた。吉本隆明をリュウメイと呼称するのはある特定の年代の人間まで、という思い込みがあるのだが、この理事長に吉本隆明を読み込んだ時期があり、その自分の思想を破棄するに到った過程があったのだとしたら、そこのところが深められていたら面白いのにと思った。まあ、そういう芝居ではないということなのだろう。

 新座総合技術高校「海がはじまる」曾我部マコト・作
 いつもは創作劇で独特の舞台空間を作ろうとしてきた新座総合が、今回は既成台本で臨んできた。少し前から、きちんと客席に届けようという意志とその力を感じるようになってきたが、今回の公演で1段も2段もステップアップを果たしたと思った。
 脚本がよかった。あとから顧問の先生に伺ったら、サツキを演じた生徒の提案だという。昨年あたりから舞台映えもよく、身体もよく動き、声も出る生徒だな、と注目してきた。彼女なりに芝居もよく見、本もよく読んだのではないだろうか?
 ボートレース大会の接待係に割り振られ、開会を待つというところからはじまるのだが、しだいに何が真実で何か嘘であるか分からない会話を通して、それぞれの抱える事情と人間関係が明らかにされる。かなり難しい芝居だと思うが、他のキャストもみごとにはまって、よく演じきった。余分な身振り手振りが多かったのが気になったといえば気になったが、思い入れたっぷりになりすぎて芝居を壊してしまうなどということもなく、脚本の心を摑んでいた。


 朝霞高校「酔・待・草」竹内銃一郎・作
 現役時代、やってみたいと思いながら果たせなかった作品。かなり苦心している様子がもれ伝わってきたが、よくぞ板に乗せてくれたというのが実感である。
 キャストに3年生は1人しかおらず、他の5人はみな2年生である。2年生はこの芝居づくりを通して演技を学んできたということになるのだろう。まだまだ勘違いしているところもあるかも知れないが、以前を知っている身としてはずいぶん役者らしくなってきたなと思う。
 ただ、私が原作を読んだのはずいぶん前だったから、細部は忘れてしまっていた。原作では田舎道にぽつんと電話ボックスがあるという設定になっているのに、携帯電話にしてしまったのは誤りだという指摘があった。確かに携帯電話だと時代設定に矛盾してくる箇所があるのは間違いない。
 ただ、電話ボックスを置くとしたらリアルさがなければ漫画になってしまうだろうし、作成するにしても、どこからか入手する(当たってみる価値はあるかも知れないが)にしても、相当に困難だろう。また、2017年にこの芝居をやるというとき、携帯電話に置き換えることによって生まれる効果というのもあるのではないかとも考えるのである。
 電話機を通して誰かと繋がっている可能性、あるいは誰とも繋がってはいない可能性、そして繋がるといったとき、空間ばかりか時間的な距離さえ超えてしまう可能性といったような。何しろ携帯電話は個体として切断され、電線ですら繋がっていないのだから。
 というわけで、私としては携帯電話に置き換えることで原作に対するリスペクトを欠いているとまでは思えないし、ましてや電話ボックスが手に入らなければこの台本をやるべきではないというのとは違うと思うのだ。
 ただ、カスミが立ち上がったとき受話器を手にしていた方がいいとは思うし、「証人」云々のところの処理が必要になるだろうが、マングースはバスケットの中の架空の存在のままの方がいいとは思った。ヒゲはメイクで作るか、ヒゲにまつわるセリフを変えてしまうか、ともかく今のままでいいとは思えないし、手直しが必要なところはまだまだある。
 もっとも大事なところは、まだまだ「受け」の演技が弱く、自分のセリフの順番を待ってしまっているところだろう。一人一人のセリフを早口にすればスピード感が生まれるというのではない。相手のセリフに反応し、そこから自分のセリフが繰り出されていくという緊張感からしかテンポは作れない。ますます磨きをかけてもらいたい。

 朝霞西高校「ある日、ぼくらは夢の中で出会う」高橋いさを・作
 台本については「2016秋の高校演劇Cブロックを振り返って②」で書いた。通常は新人刑事カトウに焦点を合わせて芝居づくりがされる。カトウからみたベテラン達の胡散臭さに対する失望や怒りが底流に流れている、と私は解釈してきた。
 ところが今回の朝霞西の芝居ではカトウによって否定されるベテラン達の方に重点が置かれているように感じたのだ。カトウを演じたのはただ1人の3年生だから演技的に弱かったということではないと思う。そのような作り方をしたのかも知れない。それとも胡散臭いはずの、それでいて自信たっぷりのベテランたちの言い分に、どこか納得してしまう程度にまで私自身が「怒り」を忘れてしまったということだろうか?
 建て込んだ白いパネルは上辺がきれいに揃ってよい出来栄えだったが、大黒にしてラストシーンでは少しスモークを焚いて青いサスライトを何本か落とすというようなことでもよかったのではないかと思った。また、カトウは女子だったが無理に男役にせず、その世界にあこがれて飛び込んで来た女性刑事というような設定でもよかったのではないかと思った。まあ、対立軸が変わってしまうかも知れないし、無責任な言い分だが。

 細田学園高校「七人の部長」越智優・作
 私の記憶違いかも知れないが、原作では他の部長達が皆揃っているところに演劇部の部長だけが遅刻して入ってくる、という始まりではなかっただろうか? そのことには直接触れなかったが、後から顧問の先生のお話を伺ってみると、部長達の並び方からして過去の公演の体裁を変えて見たかったということだった。
 若い顧問の先生が赴任されたことから細田演劇部が復活した。あれこれ方向性を探っている最中であるということだと思う。ここ数年の公演をたどってみると、手探りのようにしてすすめていることが分かる。それはそれで、きっと将来に結実していくに違いない。
 そんな中、今回の公演は細田として1段階ステップアップを果たしたと思った。それぞれの部活動の部長がそれらしくはまっていたし、全体としてちぐはぐになってしまうことなく、舞台上に同じ時間が流れていた。
 肝心の生徒会長と演劇部部長が少し弱かったと感じたが、顧問の先生もそこのところは承知していて、生徒会長の心の変化が描き切れなかったことを反省なさっていた。逆にいえば、もう一歩のところまで来ているという手応えを摑んでいるのではないだろうか?

 新座高校「夏芙蓉」越智優・作
 私の知る限り、新座高校として3回目の「夏芙蓉」である。自分たちの学校の十八番にしていこうというのは方向性のひとつとしてあり得ると思うし、観る側としてもそのときどきの生徒たちによってどのように演じ分けられていくか、過去とも比較して見ていくのは楽しみでもある。
 結論からいうと、過去3回の中では一番の出来栄えではないだろうか? これまでが不満足だったというのではなく、今回は何か演者たちに風格のようなものが感じられたのだ。
 皆自信を持って自分の役を演じているから、きちんと同じ時間が流れている。ただ、芝居はその時間の流れが急変する箇所がある。クライマックスへの導き方、作り方に磨きをかければさらによくなると思った。

 新座柳瀬高校「Article30」稲葉智己・作
 1948年の「世界人権宣言」の採択いたるまでの国連人権委員会での討論を描いた作品。各国代表を集めたという設定による密室劇であり、セリフの応酬だけで成り立つという作劇になっている。ほとんどが条文をめぐって、その内容や順序、文言の選択に費やされるのだが、最後まで緊迫感が失われることなく、進行していくにしたがって人間ドラマとしての風格までおびてきた。
 国民主権や基本的人権に対する攻撃はつねに繰り返されている。日本国憲法下にある日本でさえ、「優勝劣敗」やら「適者生存」説をかざして、それらを「建前」だけのことにしようとする勢力が存在している。(念のために言っておけば、ある特定の基準を設ければ「優劣」があるのは確かだが、すべての生物はいつかは衰え、滅びていくという厳然たる事実を前にすれば、絶対的に「優」なるものは存在せず、「劣」なるものが滅びる運命にあるのだとすれば、それらはすでに存在していないはずなのである。)その思想は結果的にニヒリズムに陥るしかなく、ニヒリズムからはいかなる未来も開けてはいかないのである。
 ときどき、こういうテーマ性のあるものが書きたくなるのです、と作者はいう。その言い方だと偶然にということになるが、私にはまことに時代をとらえた作品であると思われた。なぜなら、現代ほど人類の「普遍的価値」がないがしろにされようとし、「力」の論理がまかり通ろうとしている時代はないと感じるからである。経済的グローバリズムも「力」の論理なら、反グローバリズムをかかげる国家主義も「力」の論理である。
 「人権」思想は一朝一夕にして出来上がったものではない。ドラマでもそのことが強調されている。先に人間ドラマたり得ていると書いたのは、最後に議長のエレノア・ルーズベルトとサウジアラビア代表の会話を持って来たところにも現れている。「結婚の自由」「宗教変更の自由」をめぐってサウジアラビアは棄権するのだが、ドラマでは互いの討論をリスペクトしあうというところで終わる。未来への希望はそこにしか存在しないのである。

 簡略ながら、以上が感想である。最初に書いた通り、感想を書くことで上演にいたるまでの各校への敬意をあらわしたいと考えた。今回は小姑がましいことは書くまいというつもりでいたが、やはり書いてしまったかも知れない。ご容赦願いたい。


by yassall | 2017-05-01 20:22 | 高校演劇 | Comments(2)
Commented by 稲葉智己 at 2017-05-03 01:07 x
先週末はご観劇ありがとうございました。
作品の題材にしてみたいと思っていることは常にいくつかあるのですが、このタイミングでどの題材を選ぶかは、たぶん日頃から接している情報に影響を受けていると思います。
ただ、ほぼ科白だけのやり取りの芝居というのは初めてだったので、きちんと物語になるかを心配していました。
参考にした文献は絶版になっているものもありますので、もし興味のあるものがあればご連絡ください。
Commented by yassall at 2017-05-03 12:00
テーマ主義者といわれていますが、私もメッセージ性だけで芝居を評価しているわけではありません。多人数間で繰り広げられる会話の組立がみごとでした。台本も、役者も。ソ連代表も棄権はしたが反対はしなかった。それは会議の過程でソ連の意見も尊重されたからだ、ルーズベルトがそれを受けとめる力を持っていたからだ、というのがよく分かります。生徒たちも彼らなりに勉強したので説得力のある演技ができたのでしょう。
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