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今年の読書から

小熊英二『社会を変えるには』講談社現代新書(2012)
柄谷行人『世界共和国へ』岩波新書(2006)

 ここ数年、志木高校時代の知人たちと読書会を開いていることを以前にも報告した。2冊ともその読書会のテキストとして私が推薦した。とくに柄谷の『世界共和国へ』は私にレポーターの順番が回ってきたとき、「思考実験的な要素があるので、分担はせず、1回切りで」という条件でテキストにしてもらった本である。
 この2冊について語るためには、私の現在の関心事がどこにあるかを明示しておかなければならない。いずれも難問で、答えに到達することが私に出来るとは思えない。「だが、その答を得るまでは一歩たりとも先へは進めないのだ」などと大見得を切ったところで、たちまち腰砕けになることは目に見えている。
 それでも、「人生の生き直し中」という限り、私がこれらの問いを意識し続けることはその証立てであろうし、今度こそ安直な楽観も悲観も拒否しつつ、問い直し、問い続けていかなければならないと思っているのだ。
 本来なら、それらがなぜ私にとっての関心事なのかを書かなくてはならないのだが、煩雑を避け、箇条書きにしてみる。

 ①成長なき資本主義は可能か
 ②「国家の死滅」のときは来るのか
 ③私が生きてきた(生きている)時代はどんな時代か
 ④「日本的なるもの」は存在するか
 ⑤「個」と「全体」の問題は解決されるか
 ※③からはさらに「戦後民主主義」とは何か、「代表制」は民主主義であり得るか、あり続けられるかといった枝番としての問いが生まれる。枝番は他の問いからも発生する。


 上記の2冊はこれらの問いに、大いなる示唆を与えてくれたと言ってよいと思う。
 小熊英二『社会を変えるには』は、戦後日本の社会運動の歴史と現段階の状況と課題の分析、社会学的な知見に裏づけられた原理論としての「民主主義」論、「近代自由民主主義」の理論的背景について述べた書物である。書きぶりこそ平易で、アクロバット的な思考実験とは無縁ながら、新しい視点をいくつも提示してくれ、思考の変革をもたらしてくれる。
 
 柄谷行人『世界共和国へ』は、著者自身が「自分の考えの核心を、普通の読者が読んで理解できるようなものにしたい」とあとがきで述べているように、2000年以降の著者の思考の現段階でのまとめとして書かれ、しかも「普通の読者」に読まれることを強く意図して世に出された書物である。そこには著者なりの危機意識と使命感が存在する。
 柄谷はまず、現代が「理念と想像力なき時代」であると指摘する。1990年代以降の資本主義のグローバリゼーションの進行の中で、「世界市場」が形成され、国民国家の輪郭が揺らいでいる。新自由主義が世界を席巻する中で、これに対抗しながら広域国家づくりがすすんだり、「旧世界帝国」が再登場しようとしたり、途上国の両極分解が起こったりしている。しかしながら、新自由主義への対抗はしばしば排外的ナショナリズム、文化的・宗教的原理主義にとどまっている現状がある。
 そして、現代において人類が直面する課題は、ずばり戦争、環境破壊(原発問題を含む)、経済的格差であるというのである。これらの課題の解決のためには「国家と資本の統御が必要」であるとする。

 柄谷は考察の枠組みとして、マルクスに多くを依拠しながら、生産様式からではなく交換様式およびその変容と接合から歴史・社会を考察しようとする。
 そこで考察される交換様式とは、A互酬、B略取ー再分配、C商品交換、D(X)である。歴史の発展過程としては、Aは原始社会・共同体に対応し、Bはアジア的生産様式=賦役貢納制、古典古代的奴隷制、封建制に対応し、Cは資本制に対応する。
 ただし、共同体は原始社会以後も社会構成体の基礎として残る。共同体が本格的に解体を始めるのは国民国家の形成および商品交換の普遍化によってである。Bは国家の誕生とともにあらわれ、官僚制と常備軍からなる構成は近代国家においても変わらない。Cは萌芽的には各社会構成体に存在したが、絶対主義と資本制が結合していく中で商品交換の原理は国家の支配を抜け出ていく。
 Dは(X)として表現されるが、「自由の互酬制」であり、商品交換という位相において開かれた自由な個人の上に互酬的交換を回復しようとする運動として「想像的な存在」であり、歴史的には「普遍宗教が説く倫理」あるいは「社会主義運動」としてあらわれた。ただし、「想像的な存在」であるとしながら、柄谷は「社会構成体に内属」しているとも書くのである。

 つぎに、柄谷は歴史の現段階としての「資本主義的社会構成体」は、資本[商品交換]=国家[略取ー再分配]=ネーション[想像された共同体(互酬)]が接合した「ボロメオの環」であるという。
 先に述べたように資本と国家が結合して急速に商品経済が普及していく過程で共同体は破壊されていった。ネーションとはその共同体的な人間の紐帯を「想像的」に回復しようとしたのだというのである。
 私には、これは非常に説得力に富んでいるように思われた。実際には様々な階級・階層に分断されているのに、「国民」として「国家」に統合されることを可能にする原理こそ、「国民国家」(国家=ネーション)という幻想なのである。柄谷はフランス革命の標語、「自由」は商品交換に、「平等」は(略取-)再分配に、「友愛」はネーションに対応しているという。
 問題の焦点はこの3つの原理を混同、あるいは結合が必然的で堅固であると錯覚してしまうところにある。(「ボロメオの環」は想像上の環であり、三つの輪は互いにしっかりと連結しているが、二つの輪同士は互いに連結していないから、一つの輪でも欠けるとたちまちバラバラになってしまうというしろものなのである。)

 価値形態論からみる貨幣の性格として最も重要なのは「貨幣と商品の非対称性」であり、貨幣は社会的質権として、人間の意志を超えた客観性と社会的な強制力を発揮する。
 資本と国家は異なる原理によっている。国家はそれ自身のために存続しようとしている。また、国家は他の国家に対して存在している。したがって、国家を表層的な上部構造であるとし、深層にある市民社会=真実社会の自己疎外態であるから、経済的な変革によって資本制を終わらせれば国家は消滅すると考えるのは間違いである。同様に、国家の消滅の「手段」としての「プロレタリア独裁」(共産党一党独裁)も誤りである。「他の国家」からの「革命の防衛」のためには国家権力は強化されなければならず、国家社会主義(一国社会主義)に陥る。

 では、どのようにして資本と国家を「統御」していくのか? 柄谷が提起するのは「自由の互酬性」にもとづく「アソシエーション」と、カントが「永遠平和のために」で問うた「世界共和国」の実現である。
 国家と資本を揚棄していく主体は「プロレタリア」である。ただし、生産過程におけるそれは資本に従属的であるしかない。プロレタリアは生産点において搾取される存在であると同時に、流通過程においては「生産物を買い戻す消費者」であり、「売れる」ことによって「利潤」が完結する資本に対して、ボイコット(等)の手段によって対抗することが出来るのである。
 資本は自己増殖的で、資本が資本である限り、その運動を(自ら)止めることはできない。資本主義は差異化が不可能となる時点で終わるということはできるが、その運動を放置する限り、それが終わる前に人間と自然の大半が未曾有の破壊に直面する、というのが柄谷の発する警告である。

 読書会でのレポートの最後に、私が感想として配布したメモは以下のようなものである。

 ・「マルクス」と「マルクス主義」を区別。マルクスの新しい可能性を追求しているようにもみえる。
 ・生産様式からではなく交換様式から歴史・社会をみるという方法は人類学の知見に負うようにみえる。「史的唯物論」に対する疑問を投げかけているようにみえる。ヘーゲル的な「理性」の発展としての世界史に対しても同様である。
 ・ただし、「古典古代的奴隷制」と資本主義社会において出現する「奴隷・農奴」状態を区別しているところから、経済的な下部構造がその土台にふさわしい「社会構成体」を形成することは否定していない。
 ・人間性としての「互酬的交換様式」は現代人にも認められる。原始共同体とは異なる社会において「相互性」を取り戻そうという思想には魅力を感じる。
 ・「空想的社会主義」と断ずることは容易である。だが、かつての「プロレタリア独裁」もまた「空想的」であったとはいえないだろうか? もっとも、資本主義肯定論者の例えば「トリクルダウン」も幻想であることはもはや明らかだが。
 ・『世界共和国』の思想はカントに依拠している。カントに社会主義的な傾向が見られることは正しいようである。
 ・プルードンとマルクスの親和性には慎重である必要がある。ただし、マルクス主義の「三つの源泉」のひとつにフランス社会主義があることはレーニンも認めているところである。(プルードンは結社という意味でのアソシエーションには否定的だったようである。ただ、「連合」の重要性は認めていたようである。)
 ・「大衆的」かつ「前衛的」な「党」が「代表」として選ばれ、長期的な視野に立って「自由」「公平」「公正」な社会を展望していくという道を(筆者は)肯定するか?
 ・「アソシエーション」=生産・生活協同体は「地方再生」の課題として一定程度実現可能ではないだろうか? それが「国家」を造りかえていく力になるかまでは不明。ただ、ヨーロッパでは「シェア」の実践はかなりすすんでいるようである。新しい社会のシステムやルールの広がりは期待したい。
 ・現代の課題に応える新しい「理念と想像力」を、という思想態度には強い共感をおぼえる。キング牧師の演説やジョン・レノンの「イマジン」を想起する。

佐和隆光『経済学のすすめ』岩波新書(2016)
船戸与一『満州国演義一~九』新潮文庫(2007~2015、文庫版は2015~2016)

 もう2冊あげる。
 佐和隆光『経済学のすすめ』には「人文知と批判精神の復権」というサブタイトルがつけられている。ここから察せられる通り、前半は国立大学において「人文社会系学部や大学院は組織を廃止ないし再編」し、「社会的要請の高い分野への転換」を図るべきだとした昨年の「文科大臣通知」批判である。日本の大学のランキングが低い原因は、論文を英文で書かないため、他の研究者から引用される回数が極端に少ないからだ、というような現場感覚からの指摘からはじまって、欧米の学問体系および教育課程における人文科学の位置づけを論じ、真に創造的な学問探究におけるリベラルアーツの重要性を説いて、批判は精緻かつ鋭利である。
 戦後日本の経済学を論じた件では、アベノミクスは新古典派(新自由主義)でもケインズ派でもなく、あえて分類すれば「国家資本主義」にほかならないと喝破する。アマルティア・セン(インドのノーベル経済学賞受賞者)は新古典派が前提にすえる「経済人」を「合理的な愚か者」と決めつけ、「効用最大化」以外に、あるいはそれ以上にシンパシーとコミットメントを人間の選好順序の要因としてあげたという。その意味からすれば、日銀がマネタリーベースを上げさえすれば消費が上向くとするアベノミクスは、市場原理にもとづく新古典派というより、上意下達による愚民政策に他ならないと批判する。
 後半は経済学の教科書化=「制度化」に対する批判である。それはアメリカからはじまったが、とくに日本における経済学の「制度化」は政府のすすめる経済政策に「理論的」あるいは「統計的」な裏づけを付与しようとするものでしかない。「数字」のとり方によって、それはいかなる政策にも対応してしまうのである。筆者によれば、経済学は本来モラル・サイエンスであり、「人文知と批判精神という鎧」を纏ってはじめて「希有なる威力」を発揮するのだというのである。
 ノーベル医学生理学賞を受賞した大隅さんの「役に立つという言葉が、とても社会を駄目にしている」というスピーチとも通底する、もうけとしての「経済」優先の歪みを正そうとするアクションは頼もしいと思った。自分にも理解できそうなところだけ拾い読みするつもりでいたが、最後まで読み通してしまった。

 さて、船戸与一『満州国演義』こそ、私がこの1年間をかけて読み続けた書物に他ならない。張作霖謀殺にはじまる第1巻を手にしたのが3月、「満州国」の瓦解から通化事件・シベリア抑留を描いた第9巻を読み終わったのが12月。もちろん全9巻400字詰原稿用紙7500枚超の大著とはいえ、ただひたすら毎日を費やしてここに到ったのではない。続刊の発売を待つ期間もあったが、しだいに重苦しさを増していく内容が次の巻に向かうのをためらわせること度々だったのだ。著者自身が「小説の進行とともに諸資料のなかから牧歌性が次々と消滅していく」ことを痛感させられた、と書いている。
 同じあとがきで、「小説は歴史の奴隷ではないが、歴史もまた小説の玩具ではない」と書くように、ベースには「膨大な量の文献との格闘」がある。巻末に掲げられた参考文献リストをみても、それが少しも誇張でないことが理解できるし、「資料を読んでいるうちに客観的と認定された事実にも疑義を挟まざるをえないものがあちこちに出て来るようになった」ということばに、その「格闘」ぶりが証明されている。
 もともと「小説として成功したか否か」を問うような作品ではないのかも知れない。敷島4兄弟と陰の主役ともいうべき関東軍特務員の間垣徳蔵を登場させ、これらの人物を中心に小説は進行していくが、それぞれの個性をもって時代と激突し、主体的に生き抜いて行くというより、時代の目撃者あるいは伝聞預かり人として配されているというところだろう。敷島という姓も「大和」のとか「日本」のという意味でしかなく、さまざまな階層に散りばめられながら、時代に翻弄されるしかなかった日本人一般を表象しているのだと思われる。
 ただ、時代の大きなうねりは押さえながら、たとえば「満州」には日本に併合された朝鮮半島からも移植しており、それらの朝鮮人が襲撃にあったときの関東軍の対応、電力の確保のために建設されたダム工事の現場での現地工人たちの境遇など、通史では取り上げられることのないような出来事も丹念に描写されていく。明確な批判精神といったものが介在しているのでもなく、特定の歴史観による取捨選択がなされてもいない分、その愚劣さや非情さ、もはや戦争継続の能力も大義も失われていることが明らかなのに、ひたすら破滅へと突きすすむしかない歴史の大渦、その抗いがたさ、解体されていく国家と人間をこれでもかといわんばかりに描いて、読む者を突き落としていく。
 『満州国演義』は船戸与一の遺作である。執筆途中の2012年頃には胸腺癌を患っていることが公表され、最終巻の9巻の刊行から2か月後に71歳で没した。余命1年弱という宣告からなお3年余りを生ききって完結させた。
 この執念は何だろう。この稿の冒頭で、私は「私が生きてきた(生きている)時代はどんな時代か」などという問いを発しながら、私がその「答」に到達できるとは思えない、などという軟弱なことを書いた。
 1944年生まれの船戸にとって、『満州国演義』に描かれた時代は本人が生きた時代とはいえないものの、そのベースを形づくった時代である。私は船戸にもまた、「自分の起源となった時代」「自分の拠って立つ時代」を明らかにしなくては死んでも死にきれないという決意があったのではないかと思っているのである。
 司馬遼太郎が書こうとして書けなかったというノモンハンを船戸は書いている。先ほど、「明確な批判精神」は介在させずと書いたが、そのノモンハン事件やインパール作戦に参謀としてかかわった辻政信や瀬島龍三等に対しては、そのエリート意識と立身出世主義(功名主義)を容赦なく批判している。作品には船戸の遺言がこめられているのである。
 読み通すのは苦しい。だが、読むべきだ。船戸の執念に応えなくてはならないのだ、と思ったのだった。

 村上もとかの漫画『フイチン再見!』は単行本で8巻まで刊行されている。上田としこの『フイチンさん』は私たちが子どものころ、少女雑誌に連載されていた漫画である。「ああ、こんな絵の漫画があったなあ」というのが最初だったが、村上のオマージュともいうべきこの作品によって上田としこが満州からの引揚者であり、父親は帰日直前に捕らえられ処刑されていたこと、『フイチンさん』はその体験を元にしていることなどを初めて知った。
 鳥居の歌集『キリンの子』は版を重ね、歌集として成功をおさめた様子でなによりだった。有名になったせいか、彼女のブログを閲覧すると、共感や感動を伝える声に混じって、心ないコメントや匿名のコメントが多数書き込まれているようだ。まったく不届きだと憤慨するしかないが、そんなことで心折れる鳥居ではないと信じている。
 雨宮まみの急死は惜しんでもあまりある。山折哲雄は来年も読んでいくつもりである。以上


by yassall | 2016-12-31 14:47 | | Trackback | Comments(0)
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