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2016年埼玉高校演劇中央発表会

※初稿から書き加えがあります。(11月23日)当該校の許可を得て画像を追加しました。(同日)後半部を編集し直しました。(11月28日)


 11月19・20日、埼玉県高等学校演劇中央発表会が開催された。各ブロックから選出された10校が2日間に分かれてしのぎを削った。最後に以下のような審査結果が発表された。


 最優秀賞    秩父農工科学高校
 優秀賞一席  新座柳瀬高校    (以上は関東大会に推薦)
 優秀賞二席  松伏高校
 創作脚本賞  「M・H・P」飯能高校演劇部


 今年も全日程を通して観劇することができた。一昨年も書いたように、現役時代以上に精勤(?)するようになったのには三つ理由がある。一つ目は、地区発表会の審査員を引き受けるようになり、自分が選んだ学校が県中央大会でどう評価されるか、応援も含めて見届ける必要があるように思ったこと。二つ目は古巣である西部A地区から選ばれた学校があればその応援。(西部Aを破って選ばれた学校があったらどんな学校のどんな芝居であったのか。)そして三つ目は気心の知れた人々との、いまや恒例となった大会終了後の懇親会である。


 今年は2年ぶりに地区発表会の審査員を引き受けた。担当したCブロックからは東京農大第三高校と飯能高校が出場している。農大三高「翔べ!原子力ロボむつ」はややスピード感の弱まりを感じたが、総体としては地区発表会から一段とレベルアップしており、熱演だった。客席にもその熱は十分伝わったと思うのだが、今年も優良賞に止まったのは残念だった。
 飯能高校「M・H・P」は創作脚本賞を受賞した。今年は創作台本をもっての出場校が少なかったのでどこまで評価していいかは分からないが、私たちが地区発表会でピックアップしようとした核心のところが審査員の方々にも届いたということではないか、と思っている。(創作脚本賞については該当作品なし、ということでもいいのだから。)
 ただ、そのような評価がなされたことを踏まえた上で、私としては中央発表会に向けてもっと作り込んで欲しかった、という気持ちが残ることは表明しておかなければならない。「実存的な問いかけ」という点については講評に書いた通りなのだが、主題として提示されたままでドラマとして深められていないことがもどかしく、歯がゆいばかりなのだ。観客としては、1時間の間、同じところを何度もどうどう巡りさせられているような気になってしまう。


 西部A地区からは、新座柳瀬高校としても、また地区としても5年ぶりの中央発表会への出場となった。今年の演目「Love&Chance!」は地区発表会からさらにグレードアップしており、みごとに観客の心をつかんでいた。科白量が多く、いきおい役者たちは早口になっていたが、一番後ろの席にいた私のところでも明瞭に伝わってきた。台本にもずいぶん手を加えてのことだから、役者たちも鍛えに鍛えられてのことだろう。
 ここで一言しておきたいのは、この科白量は海外作品としてはごく当たり前のことで、新座柳瀬だけが独特に見えるというのは、日頃日本の芝居だけを見慣れているからではないかということだ。座・高円寺でエドワード・ボンド「大いなる平和」(『戦争戯曲集』から)を見た時にそれを実感した。マシンガンなどというものではなかった。科白が洪水のように押し寄せてきた。こうであってこそ、西欧では戯曲が文学の最高形式と呼ばれるのだと理解した。科白芝居、などというなら、それくらいの科白量を覚悟しなくてはならないのではないか。(ロビーでちらと「科白が聞き取れなかった」などという声を耳にしたので。少なくとも早口や滑舌のせいにして欲しくない。滑舌については先に触れた通りだった。)
 さて、新座柳瀬も含んでのことだが、今年はコピスの仲間から先の農大三高の他、坂戸高校、星野高校の4校が出場を果たしたというのも嬉しいことだった。埼玉高演連のHPに、8月に宮代・草加南・松伏の3校が合同自主公演を実施したという記事が掲載されていた。その3校とも中央発表会への出場をなしとげている。コピス仲間にしても、3校での合同公演を実施した学校にしても、やはり互いの切磋琢磨を積み重ねてきた学校が成果を出しているということではないだろうか。
 坂戸高校については審査員の講評から出た「現代における民主主義のゆらぎ」の表現という解釈が印象深かった。星野高校はトリにふさわしく会場中を湧かせることに成功した。


 さて、一昨年も書いた通り、審査員としての私の役目は地区発表会の段階で終わりである。県中央発表会は純粋に一人の観客として高校演劇を楽しみたいと思っている。そして、最初の上演校である草加南高校の「想稿・銀河鉄道の夜」で「素粒子のように自由だ」などという科白と出会うと、それだけで来てよかったという気持ちにさせられるのだ。
 ただ、今年は2人ばかり、私の地区発表会での審査について意見を言いにきた人がいた。審査のあり方について、様々な意見に耳を傾けることは必要なことだと思っているし(埼玉高演連として審査員同士の交流会や総括会議を持って欲しいと考えたこともあった)、教えを垂れてくれるというならありがたく拝聴しなくてはならない。
 また、自分だってそうだったが、審査員に不満を持つことは往々にしてあり得ることだ。だからといって(相手がプロならともかく)プレッシャーをかけることになるのもルール違反だから、それぞれの評価基準の存在を信頼して、我慢するところは我慢するというのが暗黙の了解事項だが、どうしても言いたいことがある人の声は受け入れてあげるのも年齢相応の作法だろう。というわけなので、反論というのでもないのだが、この機会に私の考えるところを少しく述べておきたい。


 演劇部顧問としては私はかなりの後発である。学生時代には演劇部の友人もいたし、社会人になってからも、地域運動で知り合った劇団員の人と交流があったりはした。それらは顧問となってから何かのベースにはなっていると思うが、何といっても40歳代になってからの顧問歴で、劇づくりはもちろん、照明も音響も最初のイロハから始まったのである。
 また、組合や学校図書館関係でけっこう仕事をかかえ、演劇についてはなるべく活動範囲を地区内にとどめようともしていた。だから、他の地区の人たちからしたら、「審査員として来ました」といっても、どこの馬の骨が来たのかと思われても仕方のないことなのである。
 ただ、自分でも「馬の骨」という自覚は持っているから、その分、審査のあり方、評価の基準、芝居を見る観点については熟慮を重ねているし、審査員打ち合わせにも可能な限りは出席し、台本を受け取ってからはテーマの分析、具体的な評価の基準や観点の書き出しメモを作成し、作者や作品についても調べられることは調べ、それらの作業を2週間前には終わらせて、今度は先入見なしに芝居を見られるよう準備を心がけている。
 私は私なりの価値観を持っているつもりだが、審査にあたってそれを押しつけることはしないようにすることも心がけている。まずは一人の観客として、何を表現したかったのか、それは伝わったのか、伝えるためにどのような工夫をし、磨きをかけていったのか、そのことで役者自身も観客たちにも変化を与えられたのか(感動したとか、勇気や優しさが得られたかとか)、を見届けるようにしている。
 まず、以上のような基本姿勢を述べた上で本題に入りたい。

 問題の焦点はつまりは上演作品のオリジナル性に関することだった。既成台本であれば必ずオリジナルとしての劇団あるいは上演校が存在する。既成台本によって発表会に参加しようとすれば、大なり小なり、オリジナル性の問題が発生する。(脚色・潤色の場合は、逆の問題、今度は作品のオリジナル性を損なわないか、という問題が発生する。脚色・潤色を断る作家、許可を求める作家がいるのは当然なのである。)

 ①最初にいえば、オリジナルを見ていなければ正しい審査は出来ないはずだ、というような無理難題を投げつけるのは止めて欲しい。高校演劇で全国大会に出場した演目だけでも過去まで振り返れば厖大にあるのだから、それらをすべて見、つぶさに記憶しておくなどというのは不可能である。(そんなことを言い出されたら、もともと私のように出来たら審査員など辞退したいと思っている人間には絶好の口実になる。)また、「似ている」ことが審査の除外になることがルール化されるのなら、すべての上演作品に適応されなければならない。各ブロックでバラバラに審査されている状況の中で徹底できるものかどうかは自明である。
 (ついでに言っておけば、客は初見だからそれを知らずに評価してしまう、というのもあまりに観客を軽んじた見方ではないか? それは客に受けなかったのは自分たちの芝居が高尚すぎたからだ、というのと同じくらい思い上がった見方だ。芝居の出来不出来に観客ほどシビアな存在はないのだから。)


 ②全国大会に出場した芝居を完全コピーすれば、その学校も全国まで進めるというのはともかく(まさかそれを狙って、とまで勘ぐっているわけではないだろうが)、高い評価を受けられることになってしまう、というのも全くの誤りである。それは、自分でも芝居づくりをしたことのある人間ならすぐに理解できるはずだ。それぞれに個性を持った人間たちが舞台に上がるのだ。そんな生やさしいものであるはずもない。読書感想文の宿題を出された生徒が、過去のコンクールの入賞作品か何かを写して提出してしまうのとは訳が違う。


 ③そもそも演劇において完全コピーがあり得るか、という問題はさておいて、ある芝居なり台本なりを発見して、自分たちも演じてみたい、と思ったとき、どうしてもオリジナルに似てくることはあり得ることだ。それがオリジナルに対する敬意であるということだって考えられる。真似にならないように、そっくりにならないように、と工夫しても、核心部分であればあるほど同じようになってくることは避けがたいのではないだろうか? それでも、その台本と真剣に向き合い、自分たちの表現として、肉声が届くようにして舞台上に開かれたとき、それを評価することにためらうべきではないと考える。


 ④同じことだが、既成台本である限り、審査にあたってはどこかの「真似」である可能性は予想しておかなければならない。だが、それぞれの身体、それぞれの声、それぞれの個性がある限り、ただの「真似」であれば身体に合わない服を着たときのようにぎこちなくなってしまうはずだ。芝居が自分たちの身体から出たものになっているかどうか、芝居として成立しているかいないかが評価の基準であるだろうし、そこを見抜く眼力を身につける必要があるのだ。作者やオリジナルの上演校から「剽窃だ」との訴えがあったというならともかく、きちんと上演許可も得ているという前提を忘れて議論してはならない。
 (なお、こういう言い方をしたからといって誤解のないように述べておけば、最後の※で触れたように話題になった学校が独自の表現を追究していないというのは全く事実に反するということは強調しておきたい。)


 ⑤とくに地域性が高いテーマによる芝居の場合、それを他県で上演することに意義があるのか、といった議論もあるのかも知れない。それを言いだしたら海のない、したがって離島もない埼玉で「トシドンの放課後」を上演することは何のリアリティもなく、ナンセンスだということになってしまう。当事者に対する配慮などという、いわゆる「不謹慎狩り」まがいのことも言い出さないで欲しい。そのくせ都合のいいときだけナショナリズムを持ち出すネトウヨたちと一緒になってしまう。一地域の問題に押しとどめるのではなく、これを「我がこと」として受けとめたとき、問題は普遍化されるのではないか?


 ⑥多少ともテクスト論をかじった人間なら、完全にオリジナルなテキストなどは存在せず、あらゆるテキストは先行するテキストの複雑な引用で成り立っているという言説があることを知っているはずだ。思想や表現においても同じことがいえるのではないか? ある感情を表現するのに、別な表現をしてみようと試みる。だが、「別の」と思われた表現は別の役者の「真似」であることの方が多いのではないのか? また、それがコードとして機能しない限り、伝達は成立し得ない。厳密にオリジナル性を考えるというならこの問題から逃れることはできない。


 長くなった。先に私は私なりの価値観を持っているつもりだ、と書いた。誤解をおそれず、ひとつだけ紹介しよう。それは思想でも芸術でも、「9.11後」「3.11後」があるはずだ、直接9.11、3.11をとりあげるか否かではなく、世界や人間を見る視野の片隅にそれらが置かれていなければ、それは真実ではあり得ない、ということだ。
 千住博が『美は時を超える』で、9.11後にニューヨークの美術界で変化が起こったことを伝えている。「現代美術」はまったく通用しなくなり、人々が求めたものは「人間」的なものをたたえた作品、ピカソやマチス、あるいは歴史の風雪にたえてきた古典作品だったというのである。過激さにおいて現実の方がはるかに先に行ってしまったとき、芸術における「過激さ」の追究は鳴りをひそめていくしかなかった、それでは非人間化を押しとどめることが出来なかったということなのだろう。
 3.11後についていえば、現代が直面する課題が戦争、原発(環境問題)、格差であることを、誰しもが逃れられない問題として白日にさらしたということだろう。
 ここまでいえば、私が問題にしているのが農大三高の「翔べ!原子力ロボむつ」のことであることが分かるだろう。農大三高がこの台本にとりくみ、見ごたえのある芝居に仕上げたこと、県中央発表会でこの芝居が上演され、観客が惜しみない拍手を送ったことを、埼玉の高校演劇界は誇りとすべきだと私は信じて疑わないのである。

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 会場のさいたま芸術劇場。1日目は雨模様でしたが、2日目は好天に恵まれました。

 ※natsuさんのブログでもこの問題を論じています。青森弁でなければ「原子力ロボむつ」という芝居は成立しない。「地域に根ざした問題を扱っているために、たとえば言葉一つを取っても、その土地の言葉を忠実に「コピー」するしかないのである。」というのはその通りだと思います。「演じる」という一点にしぼっても、まずはその「人物」(この場合なら青森県人)になり切ろうとするところから、演技が始まるのでしょう。この投稿を最後まで読んでくれた方は合わせてお読み下さるようご案内いたします。
http://krmtdir90.exblog.jp/

 ※作者の立場に立ったらどうなのか、ということも考えてみたいと思います。他の県、他の学校によって上演されることを拒もうとするケースもあることでしょう。自分たち以外にその芝居を上演することは出来ない、許さない、と考えるならば、上演許可を出さないことも出来るのです。逆に、オリジナルの尊厳を維持しながら、全国に拡散されていくことを良しとするという場合もあると思うのです。また、様々なバリエーションが生まれることを歓迎するという場合もあるでしょうし、自分たちとなるべく変わらないように演じて欲しい、自分たちとは異質な解釈を持ち込んで欲しくない、というケースだって考えられるのです。作者とどのような打ち合わせがあったかは不明ですが、この作品のようなメッセージ性の高い芝居であれば後者であると考えるのが自然でしょう。
 ※もういいや、と思いましたが、やっぱり一言。①~⑥は一般論としてオリジナル問題を論じましたが、問題を農大三高の芝居に限ってみます。(私は事前にも当たってみましたが、)ネットでサツキ・ミナヅキの画像が検索できます。(次のURLをそままクリックすれば出ます。)
http://koenkyo.org/?p=1822
 下は農大三高のサツキとミナズキの写真です。顧問と部員の許可を得てアップしますので、比べて見て下さい。(なお、写真はたまたま午前中の記録係をおおせつかったので撮影したもので、決して無許可で撮影したものではありません。) これを「そっくりだ」と見る人も「自分たちなりにアレンジした」と見る人もいるでしょう。それでも、「そのままだ」とは言えないのは確かでしょう。

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 それでも、その二体の意匠には裾回りに近いものがあるのは確かですが、その他の画像をみると、衣装も、フォーメーションも、照明もまったく異なっていることが分かります。農大三高が独自の表現への工夫を怠ったというのは事実ではないというのは明らかです。
 また、ネットではこの二体のロボットは「モスラ」に登場したザ・ピーナッツを連想させると書いた観劇記録もありました。「あるテキストは先行するテキストの複雑な引用である」という実例のようです。ましてやある脚本を選び、手を加えることなく舞台化しようとするとき、オリジナル性を云々することにはよほど慎重でなければなりません。


by yassall | 2016-11-21 20:08 | 高校演劇 | Trackback | Comments(6)
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Commented by krmtdir90 at 2016-11-21 22:48
素晴らしい反論をありがとう、です。スカッとしました。これに再反論できる人はいないでしょう。何かに頼らなければ立っていられない「神話」主義者の淋しい心性に鉄槌を!
この時間、ちょっと酔ってますね。natsu
Commented by yassall at 2016-11-22 15:41
早速のコメントありがとうございました。natsuさんの方こそ、鋭く的確な批評でした。「真似だろう」とか「ここが同じだった」とか、チマチマしたことをいわず、良いものは良い、と認める度量が欲しいです。演劇に一家言があるという人ならとくに。
Commented by at 2016-11-22 17:12 x
コメントありがとうございます。
科白が早いのはもちろん狙いですが、
お客様の反応に押されたのか、今回は些か早すぎました。
せっかく関東に行くなら
人前で演じることに少し慣れさせる必要ありかなと思い、
交流のある演劇部の方々に協力して頂いて、
通しを観に来てもらおうかなとか思っています。
その節はyassallさんやnatsuさんにもお声がけしますので、
是非お越しください。
Commented by yassall at 2016-11-22 18:58
他は批判するくせに仲間褒めばかりと思われてもと考えてあまり書き込みませんでしたが、今回はアルルキャンとシルヴィアのメインのカップルも魅力的で、ストーリーに説得力がありました。新潟には行けないので声をかけてくれれば都合のつく限りは伺いますよ。壮行会もかねられたらいいですね。
Commented by とうきょう りゅう at 2016-11-23 19:16 x
コメント、とてもうれしかったです。ありがとうございました。昨年来、色々言われることも多く、モヤモヤしていましたが、すっきりしました。いい芝居を上演することを目標にがんばります。
Commented by yassall at 2016-11-23 23:37
写真の掲載にあたってはいろいろ連絡をとっていただき、ありがとうございました。これを「コピー」というなら、「オリジナルと科白が一緒じゃないか!」というところまで行ってしまうのではないでしょうか? 誰よりも会場の観客たちから送られた拍手がこの芝居の真価を証明していました。
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