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ゲッコーパレード「ハムレット」を観てきた


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 ゲッコーパレード「戯曲の棲む家」の第3弾である。演目については前回の6月公演のときに聞いていたし、客席側であったキッチンが舞台に、舞台側であった座敷が客席になるということも聞いていた。
 キッチンで「ハムレット」(?)という興味はあったが、あまりに知られた作品でもあり、よほど切り口を考えないと凡庸になってしまうだろうと、実はあまり期待していなかった。だが、その予想はみごとに裏切られた。もちろん、いい意味で。
 リーフレット(後から読んだ)には、「今回は、戯曲『ハムレット』のストーリーではなく、ほかの要素を抜き出してみようと考えました」と演出の黒田瑞仁の挨拶文があった。そして、チラシに「哲学的な問いに自分を悩ませる青年にも、きっと食欲はあったはず。少なくとも、この木造家屋に暮らす一人の男は夜食を求めて階下にやってきた」とあるようにして劇ははじまった。
 ハムレットを演じたのは渡辺恒。照明を落とした夜中のキッチンに前触れもなく登場し、物色するように冷蔵庫を開け、卵を取り出して鍋に入れ、ゆで卵を作り出す。何やらブツブツとつぶやき続けているのだが、なかなか聞き取れる声にならない。やがてそれは「ハムレット」の科白であることがわかる。見方によってはたいへん贅沢な幕開けだ。せっかくの科白をわざわざ聞こえないように発しているのだから。
 物語(ストーリー)としての「ハムレット」は復讐劇・仇討ち劇である。しかし、何というカタルシスに欠けた復讐劇であることだろうか! 父の仇をとるためにハムレットはいかに多くの人間を巻き込み、不幸に陥れたことか! 近代劇として個の苦悩を描いたなどというのは全くのまちがいで、一人の王子の狂気によって一族が、さらには一国が滅亡していく様を描こうとしたのではないかとさえ考えている。そういうわけで、「ハムレット」はさまよえる魂の物語だと私は思い、彷徨する魂が狂乱していく様を描いたのだと決めつけているのである。
 渡辺のハムレットはまさにさまよえる魂さながらであった。殻を剥き、口にしかけたゆで卵が話しかけ、語りかける相手に擬されるあたりからしだいに狂乱に陥っていく。焦点の絞り方は正しいと思った。
 共演者を河原舞と崎田ゆかりの二人に絞ったところも正解だと思った。「ハムレット」の様々な登場人物を演じ分けることになるが、ハムレットの視点に立てば同一人物がその場面場面によって様々な人物に変容してみえてしまうことには何の不思議もないのである。
 演出としてすぐれていると思ったのは、衣装を替えさせ、その二人の女優を現代人として登場させるシーンを挿入させたところである。二人はキッチンで料理をしたり、ショートケーキを食べたりする。つまり、芝居の世界とは切り離された、しかし確かに同時進行している日常の世界が存在していることを明示しているのである。
 ラストシーンは三人でテーブルを囲んでの会食のシーンである。たぶん、幕開けのシーンと照応させている。ハムレットはハムレットとして科白を発している。他の二人も科白で応えているのだが、食事の手を休めてはいない。狂乱と正常、非日常と日常との対比。やがて屋台崩しさながらに食堂は解体され、ハムレットは一人取り残される。
 役者三人の達者ぶりは相変わらずだが、今回は本編から取り出され、再構成された科白の生かし方と、必ずしもすべてが効果的であったかどうかはともかく、意外性に富んだ演出の工夫を見どころとしたい。

 次回公演は10月20日(木)~25日(火)
 「飢餓陣営」作・宮沢賢治
 「道成寺」(『近代能楽集』より)作・三島由紀夫
 の二本立てだそうである。

Web:http://geckoparede.com/
e-mail:geckoparede@gmail.com


 
 


by yassall | 2016-08-27 19:07 | 日誌 | Comments(0)
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