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三浦英之『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』集英社

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1 窓は夜露に濡れて
  都すでに遠のく
  北へ帰る旅人ひとり
  涙流れてやまず

 という1番からはじまる「北帰行」は小林旭の持ち歌である。昭和30年代に歌声喫茶で歌われていた曲を採譜・アレンジしたものだという。小林旭版で割愛された2、4番の歌詞は以下のようになっている。(その他、2、3番にも微妙な相異がある。)

2 建大 一高 旅高
  追われ闇を旅ゆく
  汲めど酔わぬ恨みの苦杯
  嗟嘆(ああ) 干すに由なし

4 我が身容るるに狭き
  国を去らむとすれば
  せめて名残りの花の小枝
  尽きぬ未練の色か

 中学生のころ、たしか「中二時代」(あるいは「中三時代」)の付録についてきた歌集で、私は原曲の歌詞を知った。(たぶん歌集を編集した人は歌声喫茶版によったのだろう。)
 2番の1行目に「旅高」とあるのは「旅順高校」の略だろうと察しがついた。日露戦争のことを聞いたり、父が兵隊時代に満州にいたことから、旅順という地名は知っていた。だとすれば小林旭の無国籍的な歌とは違って、「さらば祖国/わがふるさとよ」という歌詞にも真実味があると感じたことを記憶している。
 では、その前の「建大」とはどこか? なぜかは分からないが、きっとこれは「建国大学」という大学が、満州国のどこかに国策によって創設された歴史があったに違いない、との「勘」が働いたのである。その勘は正しかったわけだが、私が最初に「建大」の名を知ったのはこのときである。

(「北帰行」の作詞・作曲は宇田博であるということが判明したのは、歌が流行るようになってからずいぶん後になってのことらしい。旧制一高の受験に失敗した後、満州の親元に帰り、建国大学前期(予科)に入学するも校則違反で放校、次いで旅順高校に入学したが、ここも校則違反で退学になった。まさに歌詞そのままである。
 ※宇田はその後旧制一高を再受験、東大卒業後、戦後はTBSに入社した。
 ※「北帰行」の原曲は現在「旅順高等学校寮歌」となっているが、宇田は退学が決まった直後にこの歌を作詞し、寮の友人たちに残していったという。その後、寮生たちが歌い継いでいったということであって、最初から「寮歌」として作られたものではない。
 ※また、「寮歌」として歌い継がれたと書いたが、旅順高校は日本の敗戦と同時に5年で廃校となっている。)

 次に私が「建国大学」の名を意識するようになったのは安彦良和の『虹色のトロツキー』によってである。50歳のころ、ちょうど家の建て替えで3ヶ月ほどマンション住まいをしていた折、近所の本屋でたまたま手に取った。私が購入したのは中公文庫コミック版だが、元々は1990年から1996年にかけて他誌で連載されたものらしい。中公文庫からは刊行中だったが、すっかり夢中になってしまい、ついに8巻を揃えることになった。
 物語は日本人の父とモンゴル人の母の間に生まれたウンボルトが「建国大学」に特別研修生として入学してくるところから始まる。関東軍参謀にして建国大学創設主任であった辻政信が連れてくることになっているのだが、この部分はもちろんフィクションである。ではあるが、石原莞爾、甘粕正彦、川島芳子、李香蘭、はては大本教の出口王仁三郎、合気道の創始者である植芝盛平まで登場する、ロマンあり、活劇ありの一大歴史絵巻は、綿密な調査に裏づけられた昭和裏面史たり得ていて、ノモンハン事件までを描く。
 ここで『虹色のトロッキー』にまで深入りするととりとめもなくなってしまうので、早々に切り上げることにするが、ただなぜ「トロツキー」なのかというと、ソ連を追放されたトロツキーを「建国大学」の講師に招聘しようという構想があったのは本当らしいということだけ言い添えておこう。

 さて、ようやく本題に入る。『五色の虹』の筆者三浦英之は朝日新聞記者。2010年から翌年にかけて「建国大学」に関する取材にとりくみ、一部は夕刊紙に連載されたとのことである。
 2011年の東日本大震災の取材、その後の米国留学などの間に原稿をまとめ、建国大学同窓会の人々の協力による裏づけを得たのち、出版を決意したという。インタビューに応じてくれた人々が高齢であることからの「曖昧さ」、あるいはその人が暮らす国の政治状況に対する配慮から、一時は本にすることを断念しようとも考えたとのことだが、かえって建国大学卒業生の人々から背中を押してもらったという。開高健ノンフィクション賞に応募し、受賞したことで書籍化への道が開けたという。
 出版は昨年の12月。私は東京新聞の書評で知り、5日に外出した際にジュンク堂で購入した。上記のことから、いつかもっと詳しいことを知りたいと思っていたのだった。
 本を買って帰ると、まずパラパラと拾い読みをしてみる。そうして読む順番を決める。今すぐに必要な情報が得られそうか、少し腰を落ち着けて読んだ方がよさそうか、などのあたりを付けるのである。
 読み出したら止まらなくなる本というものがある。他に読みかけの本もあったのだが、こちらを優先させることにした。7日には読み終わった。力作だと思った。よくぞ書いたと思った。

 「建国大学」は満州国の崩壊とともに歴史の闇へと姿を消した。開校して8年弱という歴史の乏しさもあり、大学の資料はほとんど残っていないという。というより、敗戦と同時に焼却されてしまった資料も多いことだろう。
 戦後に卒業生たちがたどった運命もまちまちである。「建国大学」の卒業生・在学生であったことを伏せなければ生き延びられなかった時代を過ごした人も多いようだ。だが、卒業生同士の連帯感は強く、お互いに連絡を取り合いながら名簿などは整理されてきたらしい。「満州建国大学卒業生たちの戦後」というサブタイトルのとおり、各国に散らばった卒業生を訪ね歩いてのインタビューを骨格にしている。卒業生の人々にしてみれば、「今、話しておかなければ」という気持ちがあったのではないか? その語り口をみると「これが最後になるかも知れない」という心情がひしひしと伝わって来る。

 三浦が書く通り、建国大学は「日本の帝国主義が生み出した未熟で未完成な教育機関」であったことは間違いないだろう。当初に掲げた「五族協和」の理念も開校数年後には神道や天皇崇拝の強制がはじまり、植民地下における支配と被支配という、そもそもの矛盾を覆い隠せるものであり得るはずもなかった。
 それでも、学費・学寮生活費は免除、他に官費で月5円を支給、言論の自由は完全に保障されるというばかりでなく、むしろ学生たちのみによる宿舎ごとの討論会が奨励される、図書館ではマルクス主義の文献や孫文の著作も自由に閲覧できるという、きわめて実験的な教育方針には興味をそそられる。貧家に育ったために進学を断念せざるを得なかった秀才たちが、その建学精神に呼応して(そうでなくともそれぞれの志を抱いて)きそって受験したため、「建国大学」は超難関校となったというのはあながち嘘ではないだろう。「建国大学」一期生は全部で150人、うち日本人65人、中国人59人、朝鮮人11人、ロシア人5人、台湾人3人であるという。受験生は約1万人であったとのことだ。(ついでにここで書いておくと、入学後は宿舎内も同一の民族ばかりにならないようにし、床をとる順番も互い違いになるよう規則が定められていたという。)

 「建国大学」の発案者は石原莞爾であるとのことだが、その石原はそのあり方について①建国精神、民族協和を中心とすること、②日本の既成の大学の真似をしないこと、の他に、③各民族の学生が共に学び、食事をし、各民族語でケンカができるようにすること、④学生は満州国内だけでなく、広く中国本土、インド、東南アジアからも募集すること、⑤思想を学び、批判し、克服すべき研究素材として、各地の先覚者、民族革命家を招聘すること、といった意見を述べたという。
 これらがその通りに実現されたわけではないが、⑤にしたがって先述のトロツキー招聘も構想されたし、実際に1919年に朝鮮で起こった「三・一独立運動」で「独立宣言書」を起草した崔南善が教授として採用された。その崔南善にひかれて「建国大学」に二期生として入学した姜英勲氏は後に韓国首相となり、南北初の首相会談を実現させた人物である。
 「建国大学」に通っていた非日系の学生の多くは、戦後「日本帝国主義への協力者」とみなされ、自国の政府・民間から厳しい糾弾や弾圧を受けた。
 ただ韓国のみが母国にもどった彼らを「スーパーエリート」として国家の中枢に組み込もうとした。それは語学力や国際感覚に優れていただけでなく、当時国家が最も欲していた軍事の知識を習得していたからだ、というのには考えさせられてしまうが、韓国が置かれた歴史的地位を思えば納得せざるを得ないのかも知れない。
 姜英勲氏は陸軍中将として士官学校校長にまで昇り詰めたが、その姜氏をもってして、朴正煕のクーデターを批判したために4ヶ月の投獄ののち、アメリカへの亡命同然の生活を送らざるを得ないほど、卒業生たちの人生は順調ではなかった。姜氏が首相として招聘されるのは士官学校時代の教え子である盧泰愚が大統領に就任したときである。

 大連で取材にのぞんだ一期生の楊増志氏は、在学中に反満抗日運動のリーダーとして地下活動中に検挙されたという人物であるが、中国当局からマークされていたらしく、インタビュー中に長春包囲戦に話題が及んだとき、突然取材が中止された。長春で取材の約束をとりつけていた七期生の谷学謙氏は幾多の変転の上、中国教育界の重鎮の地位を占めるにいたった人物であり、中国での取材ビザの申請にも尽力があったということだが、どのような力が働いたのか、直前になってキャンセルされた。
 三期生のモンゴル人学生であったダシニャム氏は満州国軍司令官であったウルジン将軍の息子である。そのウルジン将軍の名誉回復がなされたのは1992年になってのことだという。今はカザフスタンのアルマトイで暮らすスミルノフ氏もロシア革命から逃れてきた白系ロシア人の末裔として、他の人々とはまた違った苦難の人生を歩んできた人物である。

 こうして内容を紹介していると、とりとめもなくなってしまう。日本人卒業生については端折ってしまったが、収録されている在学中の日誌を読むと、政府が掲げる建学の理想と現実との矛盾に直面せざるを得なかった日本人学生の心の葛藤を知ることが出来る。また、卒業生のつながりが国境を越えたものであることも知ることが出来る。
 最後に台北に住む一期生の李水清氏のことを紹介して終わりにしよう。頭脳の明晰さから「台湾の怪物」と呼ばれたとのことだ。その李氏が三浦から楊増志氏のことを伝え聞いたとき、大声で笑い出し、次のように語ったというのである。

 「いや、なに、君はまったく心配しなくていいんだよ」(彼は)「格好いいところを見せたかったんだよ」「君だけにじゃない。君の背後にいるたくさんの同期生たちににね。俺は共産党政府なんぞには屈していないぞ、楊増志、未だ反骨精神ここにありってね。」「逮捕されては釈放され、釈放されてはまた逮捕される。その連続こそが彼の人生そのものだったんだ。でも誰も--少なくとも元建国大生は--彼を絶対に軽蔑しない。彼は凄い男なんだよ。」

 「建国大学」は日本の傀儡国家であった満州国の支配のために作られた国策大学であり、「当初の崇高な理念は物理的な閉学を待たずにすでに崩壊して」いたことには、いささかの留保を加える必要もないことは明らかだろう。しかし、そこで青春を過ごした者同士に生まれた絆と信頼が、地理的な壁、時間的な壁を越えて強固に結ばれていたことも信じていいように思ったのである。

三浦英之『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』集英社(2015.12)

※一度アップした後も書き足りない気持ちでいっぱいだ。それは一人一人の人生についての紹介はこんなものではとうてい足りないという思いに近い。「建国大学」はいうなれば負の遺産である。そうであるから、忘れたふりをしたり、否認したりもしたくなるだろう。しかし、そこにも否認し得ない人間の営みがあり、喜び悲しみの人生があった。そして、白系ロシア人スミルノフをして「古い友人がはるばる遠くの国から私を訪ねてきてくれた。…神よ、あなたは私に最高の人生を与えてくれた」といわしめている。それもこれも、今、書きとめておかなければ、いずれは消えてしまう。若きジャーナリストである三浦英之が一冊の書物としてこれらの一人一人の人生を書き残してくれたことに心から敬意を表したい。


※小木田順子さんの書評がありました。
http://webronza.asahi.com/culture/articles/2016010800002.html
 


by yassall | 2016-01-08 21:21 | | Comments(0)
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