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竹間沢車人形を見てきた

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 竹間沢車人形の公演を見にコピスみよしまで出かけて来た。何度かその名前を耳にしてきたのだが鑑賞するのは初めてである。
 コピスみよしは毎年高校演劇フェスティバルでお世話になっている。同行したnatsuさんから指摘されて気がついたのだが、第14回ということは高校演劇フェスティバルと歩みを同じくしてきたということになる。
 高校演劇フェスティバルも会館のオープンセレモニーとして声をかけていただいたところから始まったわけだが、会館設立にあたって中央と同レベルの文化を地域でという柱と、地域に根ざした文化の拠点をという柱が立てられたということなのだろう。そうしたコンセプトのもとに、この地域に生まれた芸能の伝承と普及という位置づけから本公演が始まったに違いない。
 車人形のどこが車かというと、人形の遣い手が轆轤車とよばれる車輪つきの箱車に跨がり、すばやく移動しながら人形を操ることを可能にした仕掛けなのである。車輪にも工夫があり、滑らかに回転することもできるようになっている。そのことで、三人かかりで操る文楽人形のような、大きな人形を用いた人形芝居が可能になったとのことである。
 この日の演目の最初は「寿式三番叟」で、その日の舞台を無事に務め上げられるよう、舞台を清める舞が舞われる。芸能が娯楽であるとともに神事であったという証拠である。
 次いで昔話「姥捨て山」、車人形教室とつづき、最後に公演のメインとなる「佐倉義民伝」が上演された。三代目若松若太夫が奏でる説教節にのって、「甚平渡し場の段」と「宗五郎住家子別れの段」が演じられた。説教節の伴奏で、というのが車人形本来の上演形態なのであろうし、三人遣いと比較すれば明らかに動きも素朴な車人形にぴったりな演目であると思った。素朴とはいったが、雪の降りしきる中、最後の別れのため家路を急ぐ宗五郎の足の動きなどは本当にリアルで、保存会の方たちの日ごろの鍛錬の跡をみた思いであった。
 この日ご一緒したのはnatsuさんの他、Uさん。公演後はいつもコピスの打ち上げで使うみずほ台駅前の大(ビック)でプチ忘年会を催した。
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 会館に展示されていた人形と轆轤車。安珍と清姫の清姫とみたが間違いか!? 実は1週間くらい前に朝霞高校のA先生からアトリエ公演のご案内をいただいたのだが、この日と予定が重なってしまい失礼した。そちらも盛況だったらよかったのだが。

 竹間沢車人形は幕末間近の安政年間(1854~1860)に埼玉県入間郡三芳町大字竹間沢の前田家に伝わった人形芝居です。この人形芝居の特徴は、大型の人形を一人で操り、ケツグルマという轆轤車を用いることにあります。
 人形芝居が伝わったきっかけは、竹間沢村の里神楽師、前田左吉(芸名:左近、1838~1886)に二宮村(現:東京都あきる野市二宮)の古谷平五郎の娘ていが嫁いできたことです。古谷平五郎は説経師、6代目薩摩若太夫として名高く、ていもまた説経節を語ることができ、嫁入り道具として人形芝居用具を持参してきたため、前田家に人形芝居が定着しました。
 前田家はていの実家、特に古谷平五郎の養子、吉田安平(芸名:冠三郎)に操り方を習い、やがて前田左吉は吉田三芳という一座を名乗り、各地で興行するようになります。初代の左近、左近の子である二代目の民部の時(明治時代)に全盛を迎えた車人形は、大正時代になると、浪花節・新派劇・映画に押され、またていが亡くなるということもあり、次第に衰退し、時代の中に埋もれていきました。
 断絶していた車人形が復活するのは、最後の興業よりおよそ五十年後のことになります。昭和46年、埼玉県教育委員会の人形芝居緊急調査により、前田家より人形芝居用具が発見されます。また、二代目民部の子である信次、近が存命であり、彼らの記憶から操り方を学び、車人形が伝えられています。(HP三芳町立歴史民俗資料館より)

 
 



by yassall | 2015-12-21 15:08 | 日誌 | Trackback | Comments(0)
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