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高校演劇2015西部A地区秋季発表会

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 細田学園の復帰によって7校開催となり、2日間開催の日程となった。19日にはどうしても家を出られない事情があり、いつものように土曜1日開催であったら今年は観劇を見送るしかなかったのだが、2日目の日曜だけ見に行くことが出来た。
 1日目は朝霞西、朝霞、和光国際、細田学園の4校、2日目は新座、新座総合、新座柳瀬の3校の上演だった。

 新座高校の演目は亀尾佳宏「お葬式」。高校演劇ではすでに古典ともいうべき作品である。私も何度目かの観劇になるが、なぜか観るたびに印象が異なる。
 そこで考えたのだが、子ども達を主人公にしているからといって、子どものお話として演じてしまうと、かえって芝居のねらいを外してしまうのではないかということだ。子どもだから祖父の死を理解できず、夕暮れ近くなって祖父が火葬に付されることに思いいたったとき、ようやくにして葬儀の場を抜けだしてしまったことを後悔した、としてしまうと、だいたい芝居としては失敗してしまっていることが多いように思う。
 皆一様に黒い服を着て、見知らぬ人までが集まって来て、泣いたかと思うと酒を吞んでは大笑いしている、という葬儀の様子に子どもは「嘘」=儀式性を見ている。人を弔うとは何か、という原点に返って、葬儀そのものを異化してみせたのがこの芝居ではないだろうか。
 その頂点がマラカスやらタンバリンを持ち出しての念仏踊りのシーンである。しかし、世界中をみわたせば鳴り物入りで騒々しくも死者を送る民族は数多く存在するのである。
 新座高校では2度目の「お葬式」となるが、率直にいうと前回の方がよかった。Hさんが今年で最後というので新座高校の芝居はぜひ見たかったのだが、今回は若手のFさんに多くを委ねたとのことであった。出演者3人の内2人が1年生ということともあわせて、少々きつい物言いになってしまったかも知れないが、ぜひとも世代交代を達成して、またいい芝居をみせてもらいたい。

 新座総合高校は創作劇で「Do Not regret」。芝居としての構成力はともかくとして、毎回創作劇を持ってくるのはたいしたものである。自分たちが表現してみせたい世界があるのだろう。
 今回気付いたのはいかにも総合技術高校らしさという点だ。デザイン科、服飾デザイン科、食物調理科を置いている学校らしく、舞台美術や衣装がビジュアルであること、科白の合間に果物と菓子の栄養に関する話題が差し挟まれたりしていることなどに興味が引かれた。(そうであるなら、もっともっと「らしさ」で勝負に出たらどうかとも思った。)
 こちらももう若手のMさんが中心になっている。自分たちの世界に閉じこもるのではなく、以前より客席に届けようとしているようになって来ていると感じた。

 新座柳瀬高校の演目は「改心」。O.ヘンリーの「よみがえった改心」の翻案(脚色とあったが翻案と言った方が近い気がするのでこう呼ばせてもらう)である。
 O.ヘンリーは愛読した一時期があった。O.ヘンリーの小説とフォスターの音楽にはアメリカの青春がある、という印象を持っているのだが、両者とも死に方は悲惨だった。アイロニーとヒューマニズムの不思議な融合というのが私のO.ヘンリー評である。
 物語のクライマックスは、かつて自分が金庫破りであったことを白日に曝してしまうことを覚悟で、恋人であるアナベラの父親が閉じ込められた金庫を開けるシーンだろうが、原作がそうであるように、むしろ作品の命はラルフ実は元の名ジミーを真犯人として追っていた捜査官のプライスがことの顛末を見届けたのち、「あなたが誰だったか記憶にありませんね。どうぞお幸せに。」といって去っていくという結末だろう。
 本作もそこが分かっているから、上手に高台を配し、パトロール中(実は張り込み中)というプライスを常時立たせていた。最後の一瞬になってその理由が明らかになる、というのはかなり贅沢なしかけだが、峻厳なイメージの中にユーモアをまじえたプライスの演技によって芝居は支えられたといってよいと思った。
 実は、そうであるならば、プライスの立つ高台は横方向だけでもよいからもう少し広いスペースが欲しかったと思った。また、確か原作では銀行の金庫室だったのが頭取の自宅という設定に変えられているのだが、玄関のドアを開けてすぐのスペースに、自宅用にしては巨大すぎる金庫が置かれている不自然さはどうしても残った。
 脚色というより翻案ではないか、といった理由は原作にはないチャールズの存在である。この恋敵の画策によってラルフは窮地に追い込まれていくことになる。ドラマにより深刻な対立が生まれ、ラルフの内心の葛藤もより深いものになっていく。ただ、ラルフの方は金庫を開けることによって自分の過去を引き受ける覚悟を固めるのだが、やがては相応の罰を受けることになるにせよ、一方のチャールズにも破滅の自覚としての絶望が訪れたはずなのではないだろうか? 少なくともその場にいたたまれなくなるほどの。
 そんなわけで、私としては新座柳瀬には是非とも中央発表会にまですすんで完成版を見せてもらいたいと思っていたのだが、残念ながら今年も西部Aからの選出はなかった。
 審査員の講評は、ストーリーの展開がなめらかすぎて役者が生きてこなかった、というようなことだった。指摘されたことが分からないでもないのだが、長年新座柳瀬の芝居づくりを見ている身としては、むしろその抑制されたストイシズムこそ真骨頂ではないかと思っているのである。

 
 
 

by yassall | 2015-09-22 00:55 | 高校演劇 | Trackback | Comments(2)
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Commented by at 2015-10-06 22:34 x
ご来場ありがとうございました。また、反応が遅れてすいません。

今回の作品は久しぶりに苦手なタイプの脚本を書いたので、色々と至らぬ所も目立つのですが、再構成した物語は気に入っているので、いつかもう一度書き直して挑戦してみたいと思っています。
表現については仰るとおり、ドラマチックな物語をドラマチックに演じるよりも、日常の延長にあるような物語をいかに表現していくかに重きをおいているので、例年同様、そう言われてもと言ったところです。
また、よろしくお願いします。
Commented by yassall at 2015-10-07 12:59
日常の延長というのとは少し違う気がしますが、たとえばラルフとチャールズとの対立もあれ以上に表現してしまうと生々しすぎてあの芝居にはそぐわないものになってしまうと思うのです。そこにストイシズムを認め、美学の存在を認めたいと思ったわけです。ただ、ラルフの方は「バラ一輪を」というダンディズムに収斂させ得るとして、むしろチャールズの躓きをどう決着させるかに難しさを感じました。ドラマとしては面白い存在ですが。
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