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銀杏祭「てあそびうた」公演

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 今年も銀杏祭(東大附属中等教育学校文化祭)に行って来た。昨年も紹介した旧知のKさんから、「二年連続、都大会出場が決まりました!」という報告とともに、お誘いのメールをいただいたのだ。
 natsuさんにtomoさんも加わって三人で出かけて来た。すでにお二人のブログには観劇の報告と劇評がアップされている。
 少しばかり遅れをとったが、私はテーマ主義者らしく、この芝居は何を伝えようとしたのだろうか、また観る側として何を読みとったらいいのだろうか、という観点から感想を書いてみたい。

 道具立てに万華鏡が取り上げられる。手元のわずかな動きによって、万華鏡は刻々と模様を変える。時間は一瞬たりとも同じ姿をとどめることを許さない。
 双六が取り上げられる。上がり直前にふりだしに戻されたりする。もしかすると時間の流れは一方向とは限らないのかも知れない。
 ハーメルンの笛吹き男の伝承は、芝居の骨格にかかわる、かなり重要な挿話となっている。子ども達はどこへ行った!

 人間は生まれ、成長し、変化していく。成長には節目のようなものがあり、この芝居の主人公たちは自意識のめざめを迎え、そのことに戸惑いを感じている。
 先生の期待に応えようと、つい学級委員に立候補してしまい、「いい子」であろうとする自分に違和感を感じ始めた少女。自分で命名したのではない、自分の名前から膨らんでいくイメージに耐えきれなくなった少女。ガリ勉の少女は親の敷いたレールの上を走り続けることに疑問を感じていないように振る舞っているが、ふと自分の歩く地面の冷たさにおののきを感じてしまう。
 ハーメルンの大人たちは嘘をついた。嘘をついたことで子ども達を失ってしまった。自分に嘘をついている自分たちは大人になることによって、自分の中の子どもを失ってしまったのだろうか?
 きっと、そんな心の中の不安や動揺がこの芝居の動機になっているのだろうと思った。昨年と同様、生徒創作ということだが、ほぼ同時進行的に自分たちの心模様を見つめ、台本として構成化し、舞台に作り上げたことに賞賛を送りたい。

 言葉で説明し過ぎないように、というようなことを終演後の反省会で発言したことについて補足したい。
 嘘の反対は本当である。だが、嘘をついている自分がいるとして、その反対の本当の自分なんているのだろうか?
 親や教師の期待に応えようとしているのが嘘の自分だとしたら、本当の自分は責任をいっさい放棄し、自堕落な生活を送りたいなどと思ったりしているのだろうか?
 それまでの自分が嘘の存在であるように見えてしまうというのは、自分の心の中に、それまでの自分を見つめ直すもう一人の自分が生まれたということ、(難しい言葉で言えば対自存在とでもいうのか)、つまりは自意識のめざめなのである。少女たちの戸惑いとは、そうした心の中の分裂に直面したことによって生じたのである。
 それはたいへんな衝撃であるだろうし、そのショックから逃れるために、分裂する以前の状態、すなわち子どもへ先祖返りしたいという願望も生まれる。

 この芝居が描き出そうとした世界にもう一歩踏み込んでみれば、つまり作者や俳優たちも気づかなかった深層にまで及んでみようとするならば、そういうことだったに違いない。
 そして、それらは実はすべてこの芝居に描き込まれているのである。クラスメートに囲まれた教室の場面からあるはずみで切り離され、モノローグの世界に、さらには異界に迷い込んでいく様に、あるいは教室ではコミュニケーション不能に陥っていたのに、3人が同一場所で出合うところからクライマックスにいたる様に、それらは十全に表現されている。

 自意識は自分以外のもの、たとえば親や教師の意志を排除しようとするし、何よりも自分が自分の主体であることを取り戻そうとする。
 大人になることによって子どもは失われてしまうのではない。むしろ、自我が何らかの危機に差しかかったとき、そのアイデンティティを内から支えるものとして心の深いところに生き続けているのである。
 それもこれも、主人公たちの変化や、その過程で発するセリフ、様々な道具立てでしかけられた構成によって表現されていたし、また芝居の醍醐味というのはそのようであるのでなければならない。
 だから、過剰に説明的な言葉で最後を締めくくろうとすると、かえってイメージのふくらみを台無しにし、芝居を瘠せさせてしまうことがあるのだ。
 (言葉だけで説明しきれないからこそ、小説でもなく、評論でもない、演劇という表現が選ばれるのだ。)
 「客を信じろ」というのは芝居づくりの大事なセオリーなのである。説明してやらないと伝わらないかも知れないと疑うことは、実は自分たちの芝居を信じていないことでもあるのだ。

 私が興味深く思ったことを最後にもうひとつ。道具立てとして選ばれた中に、もしかすると作者も気づいていないかも知れない、ある傾向を感じた。
 手遊び歌、何かの精を思わせる和服の少女、ダルマ、狐の面、男子のマジシャン風の衣装の意味が不明だったが、これはサーカスだと合点した。
 土俗的なもの、民俗的なもの、あるいはカーニバル(祝祭)的なものに作者は強く心をひかれているのではないのだろうか? 
 それらは意識の古層を形成するものであり、子どもであったことが個人のアイデンティティの基礎をなすものであるとすれば、もう一回り大きい集団の文化につながろうとするものなのである。
 私がイメージのふくらみといったのはそういう意味である。



 

 
 
 

by yassall | 2014-10-14 01:43 | 高校演劇 | Trackback | Comments(2)
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Commented by at 2014-10-14 16:41 x
日曜日はありがとうございました。
脚本も見ず、1回観ただけで、ここまでテーマについて掘り下げることができることに驚くばかりです。natsuさんもそうですが、作品を鑑賞する角度がしっかりと定まっているからこそ出来ることなのかなと思います。
僕にも観て感じることはあるのですが、それを具体的に言葉にするのは難しいなぁと今回はつくづく思いました。
Commented by yassall at 2014-10-14 19:09
こちらこそお疲れ様でした。
過分なことばをいただきましたが、鑑賞者としてもまだまだです。結局、観客や読者というのは、自分の側に引きつけて解釈してしまう存在だと思います(感情移入!)。今回の劇は私の思考を刺激するものがあったということでしょう。それにしても、才気と可能性を感じさせられましたね。
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