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2014秋の高校演劇を振り返って   「トシドンの放課後」と「ホットチョコレート」

 地区発表会の講評を書き終わった。もう幾日か寝かせて(?)事務局に送付する予定である。中央発表会のパンフに掲載される。15校で1ページだから意を尽くせないのは仕方がない。叱咤も、激励も、高校演劇へのエールとして受け取ってもらえれば幸いである。
 何校か気になった学校がある。また、パンフの原稿としては書きにくいことがらもある。思いが届くかどうかは分からないが、書いてみたい。

上田美和「トシドンの放課後」(川越西高校)
 初めてこの芝居をみたとき、これは高校演劇が生んだ名作のひとつに数えられていくだろうという感想を持った。今回、川越西高校が上演すると聞き、台本を受け取って、二つのことを考えた。
 高校進学のため甑島を離れてきた女子生徒(あかね)と、不登校傾向をかかえながら特別措置として別室登校中の男子生徒(強)、初めての担任で女子生徒に手を焼いている教師という三人芝居である。題名のトシドンは甑島に伝わる歳神で、大晦日の夜に子どもを叱りにやってくるという。秋田のナマハゲに似ているのかも知れない(ナマハゲがやってくるのは小正月だが)。
 作者の上田美和氏は鹿児島の人らしいが、離島から高校進学者を迎えなければならないという県内事情、根強い伝統を残す甑島の民俗という背景がこの芝居の成立に大きなかかわりをもっていると思った。それをどう理解し、演じていくか。それがひとつ。
 もうひとつは脚本のもつ弱点である。それは主に学校という機構にかかわる(簡単にいえば「こんな学校があるはずがない。」というものだった。もしかしたら教師上田氏の過去に何らかのルサンチマンがあったのではと勘ぐってしまう)。強は自分勝手に相談室登校を続けているのではない。「特別措置だって。僕の場合。」というセリフもある。教室には入れなかった強は、生来の勉強好き・読書好きということもあり、相談室にはまじめに登校していた様子だ。「特別措置」を課した以上、その条件がクリアされれば留年という結論には到らないのではないか。
 もし、学校としての判断ではなく、学年末の成績会議で単位認定にこぎ着けつけるための実績づくりだったとするならば、本人に近しい直接の担当者が起案し、少なくとも学年内くらいには同意を得て本人に努力をうながしたはずだ。
 それにしては強はあまりにも放置されている。冒頭であかねを相談室に連れてきた教師が、初めての担任ということもあり、強という先客がいたことを失念していたことはあり得る。だが、強の担任も副担任も顔を出している様子がない。相談室登校が「特別措置」である以上、相談室のカギを開けてやったり、出欠をとったりする教師がいなければおかしい。
 細かいことをいえば、あかねは二度学校謹慎を言い渡されるがそれはいつどこで決まったのか。まさか担任の独断ではあるまい。監督もなしに男女を同じ部屋に置くだろうか、ということもある。
 まあ、それを持ち出してしまうと、この芝居の設定そのものが成り立たないということになってしまう。ただ、そうした弱点を押さえ込んでしまう説得力を持ち得るかどうかである。

 あかねの「心の荒れ」の主因は寂しさであり、離島を離れてきた孤独感と疎外感がベースにある。1年前に父を亡くし、その葬儀のために帰島したところ、母親から茶髪を激しく叱責され、もう「絶対島には帰らない」と決意している。成績もふるわず、高卒後の進路に希望が持てないこともあるかも知れない。
 そのあかねの心が解きほぐされていくのは、強との語らいの中で、愛について考えたこと、さらに各地につたわる伝承から話が及んで、甑島のトシドンについて語るあたりからである。その思い出は父の記憶とも重なっていくのであるが、懐かしそうに故郷を語ることで、強とも心が通うようになる。「お父さん、今の私見たら、なんて言うかなあ」という自己への振り返りも生まれてくる。

 「ちーっす! 元気? 久しぶり!」といってあかねが相談室に顔を出すところからラストシーンがはじまる。あかねは心の安定と平常の学校生活を取り戻した様子だ(だから金髪は改まっていてもいいのではないかと思った)。
 留年が決まり、「死んだ方がましだ」という強を、トシドンの面をかむったあかねが叱りつける。「おいはな、子ども叱る父親じゃ!」というあかねは、心の内に生きるものとしての父親を取り戻している。
 では、あかねの言葉は強の心にどう響いたのだろうか? 父親を亡くしたのはあかねの側である。あかねの言葉が、「集団の中」に「自分の居場所」を見つけられなかった強に、それでも「生きる」ことを肯定する力を与えたとすれば、トシドン=父性と考えるだけでは不十分である。トシドンは島の共同体原理、つまり役割や能力だけで人が結びつくのではなく、ましてや競争原理に支配されているのでもない、人と人とが全人格的に結合していく人間集団のあり方の象徴なのである。もともと各地の伝承に心ひかれていた強に響いたのである。

 以前にこの芝居をみ、今回また川越西高校の芝居に寄り添ってみることで、以上のようなことを考えた。
 パンフの原稿にも書いたが、まずはあかね役が熱演し芝居を引っ張った(他の二人にも独特の味わいがあったが、まだ一年生なので今後の楽しみということにしておこう)。講評のときにも一番眼を輝かせて聞いていたし、質問コーナーの時間に移っても、熱心に食い下がってきた。それだけ真剣に芝居に取り組み、役作りに励んだことが伝わってきた。
 この芝居には、あかねと教師、母親の関係がどうだったかという問題も隠れている。話をしていると、そのあたりにも目配りはしていたようだ。
 ラストシーンで強が目をそらしてしまったのはやはり計算違いではないだろうか。「涙を見せまいとして」というような解釈であったようだが、そのような保持を越えて、深い共感と感謝、自己肯定の確かさを見せるべきだったと思う。そうでないと、二人の行く末が心配なままである。
 トシドンの仮面が大きすぎないか、と講評で述べたら、調べたところ大きいのもあったということであった。気になったので帰宅後、ネットで検索してみると、確かに二頭身に近いような作例もあるようだ。いずれにしても異形の姿をかたどったものであるのは確かなのだろうが、この点は訂正して謝罪しなければならないかも知れない。

曾我部マコト「ホット・チョコレート」(川越女子高校)
 この芝居も今や高校演劇の古典となった。今までにも何回も見てきたが、今回審査員として寄り添ってみて改めて気がついたことがある。
 愛媛と限ったことでなくても良いのだが、少なくとも関西圏に近いか以西にあり、進学にあたっては県外に出るケースが多くなるような地方の県でなくてはならない。もうひとつは、高校三年生の夏休み直前という季節でなくてはならない、ということである。
 父親の転勤に伴って急に転校することになったキッコの引っ越し準備から芝居がはじまるのだが、キッコに限らず、もう半年後にはみなバラバラになっていく。そうした別離と新しい出発のドラマなのである。
 三年生でありながら、バンドを組んで八島サマーフェステバルに参加するための準備をしている。キッコが抜けた穴が心配だが、置き土産にオリジナル曲を作曲したとあり、みな盛り上がっている。この高校生たちの若さを表現するためにも季節は夏でなくてはならない。

 なぜこんなことを書き始めたかというと、残念ながら今回の川越女子高校の芝居にはこの季節感が欠けていたように思ったからだ。衣服も長袖だったり、重ね着をしていたり、「クーラー効いているからいいよね」などという原作にないセリフが挿入されていたりすると、何か勘違いがあったような気がしてならなかった。とはいえ、お定まりのセミの鳴き声を聞かされてもなあ、とも思ったが…。
   ※
 他の学校についても補足すべきことがないわけではないのだが、以上の二作品については私にとっての発見もあったと感じたので書いた。
 明日は西部Aの地区発表会を見に行く予定でいる。こちらは純粋に楽しみに行くだけなのだが、先の2地区の他の学校のことも含めて、もし続編を書く気になったらまた筆をとる。


by yassall | 2014-10-03 20:02 | 高校演劇 | Comments(0)
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