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つい一言 2014.9

 九州電力が「再生可能エネルギー」の購入を中断していることが新聞で報道された。九電では、太陽光発電の急増で供給力が受容を大幅に上回ると、需給のバランスがとれなくなる恐れがあるから、としているとのことだ。
 再生エネルギーの「固定価格買い取り制度」によって、多くの企業がメガソーラー(大規模太陽光発電所)の建設に参入しようとしている。既存の企業ばかりでなく、起業家が新たな会社を設立するケースもある。
 だが、発電と送電が完全に分離するのではなく、発送電を独占し続けたい電力会社をそのままにしておくなら、当然起こってくる問題だろう。送電に特化していれば、電力会社は需要に応じて発電会社から電気を購入すればよく、発電会社が多数であれば競争させればいいだけの話になる。自分のところでも発電したいとなれば、他社からの買い取りによって自社の発電を止めたくないというのが道理だろう。

 九電では、「川内原発」の再稼働と買い取りの中断とは「関連性はない」としているとのことだが、それはどうだろうか。
 起業家が自己責任のもとに発電事業に参加しようというとき、リスクの高い原発に手を出す愚を犯すことはないだろう。一方、もし原発事故が起こっても国が補償を肩代わりする制度を作ってしまえば、既存の電力会社は手持ちの原発を稼働させたいに違いない。
 日本のエネルギー政策の転換のためには、国および電力会社が脱原発を決意し、再生可能エネルギーの開発を本気になってすすめるか、電力会社を分割するなどしてでも発送電を完全に分離し、市場原理にしたがって自由競争にゆだねるしかないのではないか。(9月26日)

 政府事故調査・検証委員会の「吉田調書」が公開された。吉田氏は東電で原発の地震・津波対策を担当する原子力設備管理部長であった時期があるそうだ。所長として福島原発事故に直面したとき、事態の深刻さをいち早く認識し、焦燥感や絶望感に揺られていく様子がわかる。
 「ベント」や「海水注入」など、3年半前に、東電本社や官邸からストップがかかったとか、かからなかったと問題になっていたことが記憶に甦ってくる。
 この点については、「私がこのとき考えたのは、格納容器の圧力を何とかして下げたい、原子炉に水を入れ続けないといけない、この二点だけなんです」とし、「海水注入」を停止しなかったのは「私の判断」だと証言している。池田元経産省副大臣は、「吉田さんは現場を負っている責任感からノーを言える人だった」と評している。
 だが、と考える。東電は今後とも「ノー」といえる人を育てたり大事にしたりできるのだろうか? 東電に限らず、日本の企業にせよ官公庁にせよ、イエスマンばかりを求めているのではないだろうか?
  ※
 「水が入らないということは、ただ溶けていくだけですから、燃料が。燃料分が全部外へ出てしまう。(中略)放射性物質が全部出て、まき散らしてしまうわけですから、われわれのイメージは東日本潰滅ですよ。」(吉田氏)
 吉田氏の献身的な努力を過小評価するわけではないが、かろうじて「東日本潰滅」を免れたのは偶然のなせるわざである部分が大きい。
 しかしながら、原子炉の内部がどうなっているのかについて、いまだに不明な部分が多い。「東日本潰滅」の危機が本当に遠ざかったのかどうかすら分からない。その時期に、なぜ原発の再稼働なのか、3.11の教訓が活かされているとはとうてい思えない。(9月14日)

 朝日新聞社が福島原発事故に関する「吉田(昌郎)調書」、および従軍慰安婦問題での「吉田(清治)証言」、池上氏のコラムの掲載見送りについて誤りを認め、謝罪した。
 「吉田調書」については、5月に起こった韓国船沈没事故に関連づけて、私も次のようなことを書いたことがある。

 朝日新聞が入手したという「吉田調書」で、「東日本大震災4日後の11年3月15日朝、第一原発にいた所員の9割にあたる約650人が吉田氏の待機命令に違反し、10キロ南の福島第二原発へ撤退していた。」ことが判明し、「その後、放射線量は急上昇しており、事故対応が不十分になった可能性がある。東電はこの命令違反による現場離脱を3年以上伏せてきた。」とあるのを読んで、ふとその沈没事故のことを連想した。
 福島第一で待機命令を無視して所員達が撤退したのは誰よりも原子炉が危険な状態にあることを知っていたからではないか? その上で、緊急に自治体や住民に避難勧告をすべきところをまっさきに自分たちが逃げ出してしまったとしたら、まったく同じ構図だということにならないだろうか?

 公開された「吉田調書」を詳しく読んでみなければ分からないが、過誤であったのは「待機命令違反」という部分で、吉田所長の「福島第一の近辺に退避して次の指示を待て」との指示が所員に伝わりきれなかったこと、吉田所長自身は第二原発に待避したこと自体は評価していたことが正確らしい。
 私は私が書いたことについては責任を負っているし、誤りがあれば訂正しなければならない。だが、「待避」を指示したのは原子炉が危険な状態にあるという認識に立っていたことは事実であるだろうし、その後の責任が東電本社にあったのか政府にあったのはともかく、正しく国民に知らされていたかどうかの問題があったことは動かない(SPEEDIの問題も重大である)。
 また、地震も、津波も、原発事故も同時に発生しているという状況下で、第1次的に対処にあたるべき人々のあいだで指示命令系統が正しく伝わるのだろうかという事例としても見逃すわけにはいかない。
 何にしても、情報というのは「諸刃の剣」であって、取り扱いには細心の注意が必要であるということ、「過ちては改むるに憚ること勿れ」は体面に優先される鉄則であることを再認識する必要がある。
 「吉田(清治)証言」についていえば、90年代には朝日もその信憑性を疑問視していたらしいのだが、記事の撤回にはいたらなかった。その結果として、「従軍慰安婦問題」そのものがなかったかのような宣伝に利することになれば、まさにタライの水といっしょに赤児を流す結果になる。
 今日は自戒をこめて書いた。(9月12日)

 昨日の予報通り、原子力規制委員会は九州電力川内原発1、2号機について、安全対策の主要部分が新規制基準を満たすとする「審査書」を正式決定し、法に基づく設計変更の許可を出した。
 今後、認可手続きと地元の同意手続きが必要となるが、再稼働に向けた主要な審査を正式に終えたことになる。
 だが、巨大噴火の影響を受ける可能性は「十分低い」とする審査書に対して、火山学者による検討会では根本的な疑問が出されているという。
 火山学者は「噴火の時期や規模を予想するのは極めて困難、無理」だとの意見を述べているのだというが、問題はそれだけにとどまらない。もし仮に予想が出来たとしても、噴火までの期間に核燃料を取り出し、安全な場所に移動が可能なのか、という問題である。
 もし、「ベース電源」という位置づけのもとに再稼働したとしたら、そのような「予想」があっても運転を停止するかどうかさえ怪しいものだと思っている。
  ※
 昨日、改造内閣における女性閣僚のことを話題にしたが、高市早苗、稲田朋美氏等が極右団体「国家社会主義日本労働党」代表の男性とツーショットで撮った写真が同団体のHPに掲載されていたことが指摘された。HPにはナチス・ドイツの「カギ十字」やこれに似たマークが数多く掲載されているという。当該と写真は現在は削除されているとのこと。(9月10日)

 内閣改造以来、安倍政権に対する支持率が上がっているという。その要因に女性閣僚の登用があるといい、女性層での支持率が上がっているのだそうだ。
 だが、山谷えり子、、高市早苗、有村治子、稲田朋美といった顔ぶれを見て、同じ女性であるからといって、これらの人々が女性の見方であると考えるのは早計ではないだろうか?
 LITERAが『母乳強制、DV擁護、中絶禁止…安倍内閣・女性閣僚の「反女性」発言集』という標題で彼女たちの発言をまとめている。
   http://lite-ra.com/2014/09/post-444.html
 総務大臣になった高市氏は「福島原発事故で亡くなった人はいない」「国会デモも規制すべき」などの発言で物議をかもした人物(いずれも短期間のうちに撤回という発言の軽さも問題)だが、女性の社会進出に対しても「女性だからという理由で優遇されるのはおかしい」などと水を差すような発言をしてはばからない。
 閣僚ではないが、高市氏に代わって自民党の政調会長に就任した稲田朋美氏にいたっては、「DVという言葉が不当に独り歩きすれば、家族の崩壊を招きかねない」と、家父長制の復活どころか、DVの容認としか受け取れない発言をしているという。
  ※
 川内原発の審査書について、明日にも原子力規制委員会は決定を行うという。このままでは、本当に「亡国」の一歩手前だ。(9月9日)

 昨日の「東京新聞」で、全国の国立大学86校のうち約9割にあたる76校で、計77人の文科省出身者が理事や副学長、事務局長などの幹部として在籍していることが報じられた。事実上の「天下り」を通じ、国立大の運営に文科省の意向が反映されている恐れがあるとしている。
 官僚の特権化という問題だけではない。東京都で都立高校に対する管理が強まった背景には、都庁で過剰になった中間管理職候補者の行き場に高校の事務室を充てたことがある、と聞いたことがある。
 大学内部には、文科省とパイプがつながることで、予算獲得に利点があるなどという意見もあるという。大きな間違いではないのか。国立大学を法人化し、予算をしめつけておいて、人的なコネクションで増額をちらつかせる。だが、「ノーマネー・ノーコントロール」のはずがない。
 国家権力による教育支配はいよいよ大学にまで及ぼうとしている。学問の自由、国家権力からの教育の相対的な独立に対する攻撃は、やがては国民に対する支配の強化につながる問題としてとらえなければならない。(9月2日)



by yassall | 2014-09-01 10:36 | つい一言 | Trackback | Comments(0)
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