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不将不迎応而不蔵

 「応じて蔵せず」は『荘子』にある。といっても、私が知ったのは宇野哲人の色紙によってである。「降りかかる火の粉は払わねばならぬ」の例えの通り、人生で出合うさまざまな出来事にはそのつど対処していかなければならない。場合によっては対応というより、応戦しなければならないときもある。それが「応」であるが、「蔵」してはならないとは、いつまでも気に病んだり、ストレスをため込んだりしてはならない、という意味である。
 宇野哲人はもっとくだけて、「クヨクヨするな」という意味だと解説しているが、「一日の労苦は一日にして足れり」(『聖書』)とある通り、その日の気苦労を翌日まで持ち越すなどというのは愚の骨頂であろうし、「雨が降ればいつも土砂降り」(英のことわざ)は好事と災厄は問わないそうだが、確かに難題はつぎつぎ起こって来るのだから、いつまでも一事にかまけてはいられない。
 そこで、何かとめげそうになるときは「応而不蔵」とまじないのように唱えているのだが、それも適切に「応」じることが出来る能力があってのはなしだから、なかなか気分はいつも泰然自若というわけにはいかない。
 さて、その前段の「不将不迎」は「おくらず、むかえず」と読むのだが、宇野哲人はこれも「クヨクヨするな」という意味であり、とくに「不迎」は「取り越し苦労をするな」という意味だと解説している。
 漢和辞典を引くと、「将」には「送る」という意味があり、「将迎」で送り迎えという熟語になる。そこで「おくらず」と読むのだが、なんだか分かったような分からないような気分でいた。長いことそのままでいたのだが、ある人にこの言葉を紹介したのをきっかけに少し考えてみた。
 まず、「不将」と「不迎」は対句になっているのではないかということ。「迎」には待ち受ける、未来を推し量るという意味があるから、確かに宇野哲人のいう通り、「取り越し苦労」という意味になる。すると「将」はその対義語であるということが考えられ、もともと「率いる」という意味があるところから、相手を「待ち受ける」のではなく、こちらから先手を打って出るというような意味になるのではないだろうか。
 昨今の世情からつい連想がそこへ行ってしまうのだが、政府がさかんに口にすることばに「抑止力」がある。「備えあれば憂いなし」というが、どうも政府の説明による「抑止力」はこの「備え」というのと同じ意味であるかのように聞こえる。つまり、「抑止力」である戦力を高めておくことで、かえって「憂い」たる戦争を遠ざけることができる、というように。
 だが、「備え」一般を否定しないまでも、「抑止力」とはつまるところ戦争準備なのであり、それは常にエスカレートしていく傾向をかかえている。おそらく、政府が「仮想敵国」としているのは中国であるだろうが、最近その中国で「古くなった」人工衛星をミサイルで撃ち落とす実験に成功したという。これは世界を震撼させるのに値する重大事である。ハイテク化された現代にあって軍事衛星は戦略上の要であるはずだが、開戦と同時に軍事衛星が撃ち落とされてしまえば、もう手も足も出せなくなってしまうからだ。おそらく、アメリカはもう対抗策についての研究をはじめているだろうが、「抑止力」をエスカレートさせていけば、限りなく「先制攻撃」(先手必勝!)症候群に近づいていかざるを得ないのである。
 話をもとに戻す。「不将」と「不迎」は対句なのではないかと書いたが、もしかすると順接しているのかも知れない。未来の「災厄」を予想し、これに先んじて事を起こそうとすると、かえって「災厄」を迎え入れてしまうことになりかねないぞ、と。
 以上は考えたといっても、勘をたよりに漢和辞典を引いてみただけのことで、まったくの当てずっぽうである。

 
 「将」の旧字「將」のつくりにある「月」は肉月。「几」の上に肉を供え、戦勝を祈願したところから、将軍の意味になった。
 「応」の旧字「應」は人が胸に鷹をかかえた形から「鷹狩り」を意味する字。鷹狩りは神意を問う占いであったことから、最初に「応」=こたえたのは神であったことになる。
 漢字の起源が呪術にあったという白川静の学説を裏付けるような例だが、やはり「将」は能動的、「応」は受動的というような感覚がある。


by yassall | 2014-07-26 12:04 | 雑感 | Comments(0)
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