1 「「明治の精神」への殉死は口実に過ぎない。乃木将軍が殉死したのに便乗し、個人的な理由で死ぬのである。」(島田雅彦『漱石を書く』) 島田雅彦のような読み手がそういうのだから、おとなしく従っていてもいいとも思うのだが、やはりどうも気にかかるところである。といいながら、さしたる勉強もせずに来たが、少しきっかけのようなものがつかめたような気がしたので、覚え書きとして書いてみたい。 最初に、問題となる箇所を本文で確かめておこう。 「すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。其時私は明治の精神が天皇に始まつて天皇に終つたやうな気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、其後に生き残つてゐるのは必竟時勢遅れだといふ感じが烈しく私の胸を打ちました。私は明白さまに妻にさう云ひました。妻は笑つて取り合ひませんでしたが、何を思つたものか、突然私に、では殉死でもしたら可からうと調戯ひました。」(下五十五) ただし、この時点では「私の答も無論笑談に過ぎなかつた」とあり、ただ「何だか古い不要な言葉に新しい意義を盛り得たやうな心持ちがした」と続けている。 「私は新聞で乃木大将の死ぬ前に書き残して行つたものを読みました。西南戦争の時敵に旗を奪られて以来、申し訳に死なう死なうと思つて、つい今日迄生きてゐたといふ意味の句を見た時、私は思はず指を折つて、乃木さんが死ぬ覚悟をしながら生きながらへて来た年月を勘定して見ました。(中略)乃木さんは此三十五年の間、死なう死なうと思つて、死ぬ機会を待つてゐたらしいのです。私はさういふ人に取つて、生きてゐた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、何方が苦しいだらうと考へました。 自分の解釈に都合のよいところだけを抜き書きする誤りを避けるため、少々長めに引用した。 2 「(行幸能にて)皇后陛下皇太子殿下喫烟せらる。而して我等は禁烟なり。(中略)若し自身喫烟を差支なしと思はゞ臣民にも同等の自由を許さるべし。」(1912、明45.6.10) これらをみるに、一般的な親愛の感情までも否定する必要はないものの、その神格化を否定し、「臣民」に「同等の自由」があるべきだとする漱石を、「明治の精神に殉死する」の件をもって尊皇主義者の仲間に加えることには無理があるように思われる。 1889(明22)年に制定された「大日本帝国憲法」は第1条で天皇の統治権を規定し、「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」(3条)としたが、天皇の絶対不可侵の度合を強めていくのは1910年(明43)の大逆事件のころからではないだろうか。その大逆事件で死刑となった幸徳秋水が草稿を書いたという直訴状をもって田中正造が直訴事件を引き起こしたのは1901年であるが、田中はそのことで罰を受けることはなかったのである。 「彼はエゴイズムと愛の不可能性という宿痾に悩む孤独な近代人として生きなければならなかったが、明治天皇と乃木大将の殉死という二大事件のあとで、彼は突然、いわゆる「明治の精神」が彼の内部で全く死に絶えてはいなかったことを悟らねばならなかった。(中略)彼の一部が、おそらくは小説の主人公のかたちで、「明治の精神」に殉じられることを知ったのである。」(江藤淳『明治の一知識人』) 桶谷秀昭はこのような江藤の「文章の主旨」におおむね「同意」するとしながら、「江藤淳のこの漱石像はかなり鷗外的ではないかという印象を受ける」といい、漱石は「古い「明治の精神」」を「明治の時代の終焉とともに背後に押し遣ったにちがいない」としている(桶谷秀昭『夏目漱石論』)。 「大正の文化を支配した普遍主義が、西洋市民社会の日本社会への内面化であるという幻想を知識階級に抱かせたときから、明治近代国家が帝国主義国家に変質し、まずアジアの中で急速に孤立の度を深めていったのは、皮肉な運命といわねばならない。」(桶谷秀昭『夏目漱石論』) 桶谷が続けてこのように書くとき、ますますその思いは強まる。幸徳秋水らの大逆事件が引き起こされた1910年は韓国併合の年であり、日本帝国主義がアジアの植民地支配を本格化していく年でもあるからである。 3 その意味では、漱石もまた明治人であったということは可能だろう。若き日、正岡子規に宛てた手紙には「文壇に立て赤幟を万世に翻さんと欲せば」、「洋文学の隊長とならん」、「愛国心ある小生」、「狭くいえば国の為め大きくいえば天下の為め」といった、友人相手のややおどけた口調でありながらも、気負いに満ちたことばが散見される。「何をして好いか」少しも見当がつかないながら、「私は此世に生まれた以上何かしなければならん」という悶々とした思いをかかえていたことを後年に告白もしている(「私の個人主義」1914、大3)。 「三四郎」(1908)では、熊本の高等学校を卒業し、帝国大学に進学をきめた小川三四郎が上京の途次で広田先生と同じ列車に乗り合わせ、日露戦争後の世情について次のような会話をかわす。 「「然し是からは日本も段々発展するでせう」と弁護した。するとかの男は、すましたもので、「亡びるね」と云った。」 また、大逆事件の翌年に行われた講演「現代日本の開化」(1911)では、日本の「開化」(=近代化)は「外発的」であるとして、「日露戦争以降、世界の一等国の仲間入りをした」かのような世相を批判した。 「漱石を官命によって洋行させた明治国家は、漱石が神経衰弱をつのらせ発狂の噂まで滞英邦人間に立てられたほど悪戦苦闘に貢献せんとした国家とは決定的にずれていたことである。」(桶谷秀昭『夏目漱石論』) 桶谷もまたこのように書くのである。 4 「最も強く明治の影響を受けた私どもが、其後に生き残つてゐるのは必竟時勢遅れだといふ感じが烈しく私の胸を打ちました。」 漱石を反近代主義者とみなすことは適当ではない。実際に現前することになった明治国家に対して肯定的でなかったとしても、漱石もまた日本的近代の探究のために「悪戦苦闘」した一人であることには間違いなく、「最も強く明治の影響を受けた」ことの真実は揺らがない。漱石の文明批評の鋭さとその未来までも見通した射程の長さをみるならば、むしろその可能性も不可能性も含めて、最も深く近代日本の進路を探っていったのが漱石であったと言って言い過ぎではない。 「維新の革命と同時に生まれた余から見ると、明治の歴史は即ち余の歴史である。」(「マードック先生の日本歴史」1911、明44) 修善寺の大患の翌年、漱石がこのように書いたのは明治天皇崩御の一年前のことである。 最後の問題は、「時勢遅れ」とはどのような感情であるか、である。明治とともに生きたという自覚にある者が、その終わりにあたって自らの引き際を感じ取ったということなのか。それはなぜか。漱石が思い描いたところの日本近代と、あるいはついに思い描き切れなかった日本近代と、日露戦争後に現前した明治日本との乖離への絶望感なのか、はたまた重大な健康不安をかかえるに至った漱石自身の、己が人生のある内での達成への断念なのか。 伊豆利彦は民主文学の立場に立った研究者であり、その漱石論も拠って立つところは鮮明なのであるが、次のような一節をみるならば、決して自らの見地に引き寄せ過ぎているとは言えないのである。 「私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけようとしているのです。私の鼓動が停まった時、あなたの胸に新しい命が宿る事が出来るなら満足です。」(下二) 「明治の精神に殉死する」こととは、ひとつの時代の終焉にあたって、燃焼し尽くそうとするものの中から次世代に受け渡すべきものを拾い出そうととすることであった。「こゝろ」の執筆と同時期になされた講演「私の個人主義」を読んでみると、それが間違ってはいないことを確信するのである。 5 「私もKの歩いた路を同じやうに辿つてゐるのだといふ予覚が、折々風のやうに私の胸を横過り始めたからです。」(下五十三) 「K」における「理想と現実の衝突」の問題についてはここではふれない。ただ、「K」もまた新しい時代の哲学の探究者であったとだけ述べておきたい。「先生」が「Kが私のやうにたつた一人で淋しくつて仕方がなくなった」というとき、その淋しさとは次のようなものである。 「自由と独立と己とに充ちた現代に生まれた我々は、其犠牲としてみんな此淋しみを味はわなくてはならないでせう」(下十四) しかし、「自由と独立と己」とは、漱石が到達したところの「自己本位」の思想の生み出すものではないだろうか。それでは「自由と独立と己」と引き換えに失われたもの、それは「天」であったり、「自然」であったりするのかも知れないが、それらを惜しみ、「淋しみ」としてこだわり続けているところに「時勢遅れ」という自己認識があったのだろうか。 「小説『心』は、心は心を欺くという主題を描いていた。先生は「私は私自身さへ信用してゐないのです」と〈私〉に語っていた。これは完全な「自己」否定を意味する。「自己本位」の崩壊が、これほどまでに明白に語られているのである。そして「自己本位」の否定は、とりもなおさず「私」の否定にほかならない。先生の「私」は完全に否定されている。これが「則天去私」の「去私」に当たることは、明らかであろう。」(今西順吉『「心」の秘密』) 今西順吉は仏教者の立場からの漱石の研究者である。インド哲学に関する豊富な知見を駆使し、「識」から作品世界を解明していくさまは「こゝろ」という題名の意味を改めて考えさせられ、多くの示唆に富むものである。しかしながら、反近代主義とは異なるとはいえ、「こゝろ」執筆時、漱石はすでに「自己本位」の思想を否定するに至っていたという説には疑問がある。時期を同じくする「私の個人主義」で「自己本位」の思想を強調したのは、ロンドン留学時代の自分を語ったものであり、学習院の学生相手のものであったからだとか、新しい思想が十分に構築されていなかったからだというのにも無理があると思われる。 ※夏目漱石の「こゝろ」については、以前に「『こころ』断章」を書きました。上はその補論として書いたものです。言葉足らずのところを補う意味で、あわせてお読みいただければ幸いです。 《参考文献》 島田雅彦『漱石を書く』岩波新書(1933) ※今西順吉『「心」の秘密』については、引用部分については否定的な見解を述べましたが、漱石と禅宗とのかかわりはもちろん、「こゝろ」には「先生」と浄土真宗、「K」と日蓮宗など、宗教的見地からの解明が待たれている問題も残されていると思われます。明治期の仏教革新運動が「K」に影を落としているという他の研究者の指摘もあります。その意味で、決してないがしろには出来ない書物であることをくり返しておきたいと思います。
by yassall
| 2014-05-12 11:43
| 国語・国文
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