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木村朗子『震災後文学論』

 震災文学と震災後文学とは明らかに異なる。8.15後の文学が戦後文学であるように、3.11後の文学を震災後文学と呼ぶことには当為性がある。一冊の書物の題名であることを越えて、どこまで一般化するかは不明だが、著者によらなくともいつか誰かによって命名されなくてはならなかった。

 著者は、「問題は、地震でも津波でもない原発事故と放射能汚染にあるのだ」といい、川上弘美「神様2011」がその見通しを最初に示したという。
 地震や津波の被害に限定したとして、東北が復興を遂げられるかどうかについては、私は一抹の疑問をいだいている。少なくとも「元通りになる」という意味ではそれはあり得ないだろうと思っている。町のすがた、産業のあり方、人びとの暮らし方は変わっていかざるを得ないだろう。農業ひとつをとっても、田畑という基盤を失い、後継者が不在であれば、これを「元に戻す」ことが可能であるかどうか、あるいはまた適切であるかどうか。
 戦後の高度経済成長の中で急速に進んだ都市化、および都市への一極集中化の中で、その補完と下支えの役割を担ってきた(いわば都市によって収奪されてきた)「地方」は疲弊し、産業にしろ、人口そのものにしろ、再生産の力を衰えさせている。はからずも3.11はその限界領域の存在を浮き彫りにする結果となった。その意味でも3.11は戦後史といわず日本近代史のエポックとなった。
 ただ、いつの時代にもそうであったように、その土地に暮らす人びとがいて、新しい町のあり方、生活基盤のあり方、共同体のあり方の未来図を描きながら人びとの営みが生まれ、「新しい始まり」を持とうとするならば、いつかは復興はあるだろう。

 だが、原発事故と放射能汚染はそれらとは明らかに異質だ。なぜなら、それは二重の意味で「一過的」であり得ない。放射能汚染は数十年、数百年にわたって持続する。「元通り」に住民たちがそこに居住できるようになることを目指せない、というより目指してはならないのである。
 さらに、日本だけでもなお50基の原発が大量の核燃料をかかえたまま現存している。あまつさえ、新「エネルギー計画」のもと、再稼働への準備が着々とすすめられようとしている。3.11は「一過的」に起こってしまった事件ではなく、未来に起こりえる事件なのである。
 その前と後とは同じではない、それ以前と以後とを同一視してはならず、もしそれを「なかったこと」にしようと企むものがあったら、直ちにその意図を挫いてやらなくてはならない。今までとは異なる時代、新しい世界の中で生きざるを得なくなったのだとすれば、文学もまた変わらざるを得ない。震災後文学という著者の提案に私は賛同する。

 著者の専門は日本古典文学であり、日本文学に関する国際的な研究者の交流の場から、著者の問題意識というより危機感が生まれたようだ。
 本書の第一章に「物語ることの倫理」が置かれるのだが、それは「海外の文学の現場では、日本で起こっていることに敏感だったし、なによりそうしたなかで現れる表現を受け入れる準備が整っていた。」とし、震災後の文学の動向についての質問をよく受けたという。ところが、「それとまったく対照的に日本ではこうした議論が受け入れられているようには思えなかった。こんなときに尻馬にのって何かをいうのは軽薄だと尤もらしくたしなめる人もあった。」というのである。
 その一例として2012年上半期の芥川賞の最終候補作となったいとうせいこう『想像ラジオ』について、高橋のぶ子が「今回の候補作中、もっとも大きな小説だったと、選考委員として私も、蛮勇をふるっていいたい」と述べたということが紹介されている。他の選考委員が、「いとうせいこうともあろう者が、このような安易なヒューマニズムに走るのはどうだろうか」とも述べたという中で、「蛮勇」をふるわなければ支持できないほど孤立した意見であったというのだ。
 それは、いとうせいこう自身による次のような談話とも呼応しているかも知れない。

 
  「この小説の第二章に「当事者でないものは語るべきではないのか」っていう論争があるんだけど、まさにあの論争の通り、この小説自体に対して当事者のことを考えて書けよと言われたら僕はもう何も言えないんです。」

 だが、「当事者」であるかどうかを倫理問題としてとらえ、かつ収斂させようとすることは正しいといえるだろうか。それが「尻馬」に乗ろうとしただけなのか、「安易なヒューマニズム」で終わってしまっているかどうかは、作品そのものの価値によるのではないのだろうか。

 本書の指摘によってハッとさせられたことがあった。私たちはよく、「唯一の被爆国日本」といういいかたをする。しかし、ヒロシマ・ナガサキ・ビキニにフクシマが加わったとき、すでにヒバクシャと呼ばれる人びとは世界中に存在していることに気づかなくてはならないのである。それはウラン採掘場、核兵器の実験場とされた地域、原発事故を引き起こした地域に居住している、あるいは何らかの作業のために立ち入った人たちであり、さらには劣化ウラン弾が投下された国の人たちも含まなければならないであろう。
 本書では、オーストラリア北部のアポリジニ、ミラール族の人びとが「自分たちの土地から産出されるウランの取引先のひとつが、東京電力だった。となれば、福島第一原発の事故は私たちにも責任の一端があることになる」という趣旨の手紙を国連事務総長宛に出したことが紹介されている。
 私たちは、自分が「当事者」でないことでストイックであろうとすることより、自分もまた「当事者」であるという意識を呼び覚まされることによってこそ「倫理」的である得るのではないだろうか。

 そして、新しい何かが始まるはずだ、社会のあり方、人びとの生き方、産業も、教育も、そして文学も変革されていかなければならないし、そうなるはずだと確信した人は少数ではなかったのではないだろうか。
 筆者は、「はじめは短編小説が多かったが、読んですぐに、何かがはじまっているという感じを受けた。それは次第に、新しい文学が興っているという確信になっていった。」という。そして、「二年が経ち、長編小説がでるようになって、震災後文学という一つのまとまりとなって見渡せる準備が整ったと感じた。」といい、本書を刊行しようとした動機を次のように語るのである。

  「津島祐子『ヤマネコ・ドーム』、辺見庸『青い花』を読んだときに、ここで一度区切りをつけて日本文学を研究する者として「震災後文学論」をまとめておかなければならないと感じたのである。」

 筆者は、「最も本質的なところで腑におちるかたちでわからせてくれるような深いことば。決して裏切ることのないことば。最も信頼できることば。それが文学のことばなのだ。」とし、「まだまだ読むべき小説がたくさんある。そう考えるだけで世界はまだ信頼に足るものだと思えるのである。」ということばで本書を結んでいる。
 そこには3.11後の新しい希望の語り方がある。

 以前に取り上げた小森陽一『死者の声、生者の言葉』と同じような問題意識によって書かれた書物であるが、3.11後に書かれた作品に限定(一部に前史的な作品も含む)し、より網羅的に震災後文学の見取り図を描こうとしている点ですぐれている。労作だと思う。私はこの後、藤井貞和『水素よ、炉心露出の詩』大月書店を読んでいる。


木村朗子『震災後文学論』青土社(2013)


by yassall | 2014-04-13 18:21 | | Trackback | Comments(0)
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