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つい一言 2014.4

 原発の維持を宣言した新エネルギー計画では序文から「原発事故への反省」の文言を削除、一部に造反議員が出たものの原発輸出が衆院で承認、どこが「限定」かわからない集団的自衛権の行使への策動、武器輸出解禁、憲法改悪に道を開く国民投票法改正に反対は共産・社民だけ、小学校の教科書に全社が「尖閣・竹島」明記、教育の政治支配をますます強める教育委員会「改革」、実際には1割程度しか福祉予算に回っていない消費税増税……ああ、4月に入ってつい一言が一言で済みそうもない。
 まあ、安倍首相は「この国の形を変える」と明言しているのだし、4月からはその動きが加速することは予想できていたことだ。それにしてもこれに歯止めをかけたり、抵抗できる勢力が弱体すぎる。取り返しがつかなくなる前に、国民は判断を人任せにしない覚悟をしなくてはならない。(4月5日)
 ※原発輸出に関しては興味深い議論があった。輸出先の原発で発生した核廃棄物を日本が引き取るかどうかという問題だ。ブーメランや、「天につばする者」のことわざを思い出した。
 ※その後、政府発表の段階では序文に「原発事故への反省」が復活したとのことだ。だが、与党間でも自民党内の混迷があったり、公明党には直前まで知らされなかったり、ともかく発表を急ごうとした事情がありありとしている。

 下村文科相が「村山談話は閣議決定の上で発表された」と述べ、3月26日の「閣議決定されたものではない」から「政府の統一的な見解」に当たらないとした国会答弁を訂正したとのことだ。(河野談話については当時の石原元官房副長官が4月2日の国会で「閣議決定したものではないが、内閣全体の気持ちを代弁したものだ」と述べている。)
 しぶしぶにしても理性のかけらくらいは残っていたのかと思いきや、今度は「教育勅語」礼賛発言が飛び出した。「活用の仕方が間違っていたのであって内容はよい」そうだ。「勅」とは天皇の命令のこと。天皇の命令(という名目)で教育のあり方が定められていたこと一点をとっても、民主主義社会においては否定されなくてはならない。それにしても、ことばが軽すぎやしないか。(4月9日)

 昨年9月、高速増殖炉もんじゅで「点検漏れの機器の点検を終えた」と虚偽の報告をしていた問題(ああ、ややこしい)で、1万4千点の点検放置の他に、新たに9点の放置が見つかったそうだ。(原子力規制委員会が3月の保安検査で発見。)
 トンネル事故も、エレベーター事故も、点検漏れや点検ミスが事故を防止できなかった原因だ。2012年の笹子トンネル事故では、構造的に目視による以上の点検が不可能であったのがそのままにされていたことが後に発覚した。
 だが、もんじゅの場合は点検が済んでいないのに「点検済み」としたのであって、その無責任ぶりはとうてい信じがたい。トンネル事故やエレベーター事故も悲惨であったが、もしもんじゅで事故が発生すればその比ではない。現代科学技術の最先端にいるはずの人たちであるはずなのに、そんなことも分からなくなっているのだろうか。
 権力に守られ、権力に支配されると、科学技術者としての「責任」もどこかへ行ってしまうのだろう。人間である限り、点検漏れや点検ミス、つじつま合わせと事なかれ主義による虚偽が防げないのであれば、核に手を染めるべきではない。(4月11日)

 沖縄県・竹富町教委が、教科書の独自採択に向けて地区協議会から離脱する方向で検討を始めたとのことだ。9日に成立した「改正」教科書無償措置法では、地区協議会が選定した同一の教科書採択を義務付ける一方、採択地区の範囲をこれまでの「市郡」単位から「市町村」単位に細分化した。このため地区協議会から離脱すれば、独自に教科書採択ができると判断したとある。
 いやあ、こういうたたかい方、尊敬しちゃうな。一歩もゆずらないかと思えば柔軟なかわし技。文科省はあわてて不服審査の申し立てをしない竹富町を批判しているが、採択地区を決める権限は都道府県教委にあるとのことだからあとは沖縄県がどう出るかだ。しばらくは目が離せない。(4月12日)

 土佐電鉄(高知市)が、毎年5月3日の憲法記念日前後に走らせてきた路面電車「平和憲法号」「憲法9条号」の運行を今年から中止することを決めた。(東京新聞、毎日新聞)
 これまで市民団体の負担で、車体に「守ろう9条・25条を!!」などのメッセージが描かれ、護憲を訴えてきたということだ。知ったのは初めてだが、さすが自由民権運動発祥の地と感心したり、残念に思ったりだ。
 「意見広告であり、公共交通機関に相応しくないのでは」という乗客から抗議を受けて中止を決めたという。どんな「乗客」たちや「市民」であるか、およそ想像がつくというものだが、「政治問題化」を恐れて数件の電話やメールで中止を判断してしまうというのも気概がない。護憲団体の集会に会場を貸さなかったり、後援を拒否したりする自治体も出て来た。民主主義の危機だとは感じないのだろうか?(4月16日)

 大阪市生野区の市立中学校で教務主任などの校内人事を決める際に教員間で選挙を行うとする規定が設けられていた問題を受け、下村文部科学相が16日の衆院文部科学委員会で、「他の都道府県でも問題(がある)か、事情を聴取する必要がある」と述べ、全国調査をする考えを示した。(読売新聞)

 ……いやあ、毎日嫌なことが起こるなあ。遠藤敬衆院議員(日本維新の会)の質問から始まったというが、維新の会は大阪府議会でも「学校で選挙をしながら人事を決めることがあっていいのか」と質問したのに対し、府教委委員長は「投票の扱いについて、校長が責任を持って管理することが前提」と答弁し、校長が最終決定をすれば問題ないとの見方を示したという一幕もあったという。

 確かに学校管理規則では「校長は年度当初に校務分掌を定め…」云々となっている県がほとんどであると思う。しかし、人事には県の教育委員会が定める人事(校長・教頭・教員の配置など)と、各校でその実情にあわせて定めればよい人事(学年担任や校務分掌)とがあり、規則に「校長は」とあるのは各学校で定め、「年度当初」に県に報告すればよいという意味なのである。
 では各学校ではどのように担任や分掌を定めるのがよいのか。「適材適所」とよくいわれるが、本人の意欲・適性・能力が活かされ、それが校内の各学年や分掌組織にバランス良く配置されることが望ましいのは誰がやっても同じことである。

 学校に「校内委員会」(分掌委員会)が設置されていることも問題視されているようだが、教職員から希望調査をとったり整理したりの事務作業、教科や新任・ベテランのバランスをはかったり、継続性や刷新への配慮をしたり、その過程で本人の意向を確認するための相談をしたりなどの調整作業を一人の人間が行うのは限界がある。何らかの委員会組織を作って事務・調整にあたっているのはどこの学校でもやっていることだ。(ついでにいうと、その組織にはたいがい教頭が入っているから管理職を度外視しているという批判はあたらない)。

 「校内民主主義に名を借りて」などと非難のことばを浴びせているが、民主主義のどこが悪いのか。人は公平・公正に扱われていると実感できることが大切だ。そのためには調整の各段階での公開も必要になるだろうし、実際そうしたルールを定めているのも各学校での知恵なのである。
 選挙のことも云々されているが、まさか人気投票で決めているわけでもあるまいし、各学年や分掌組織の中で誰がチーフ(主任)となるかといったとき、その学年や分掌の仲間から支持されてなった方がはるかに仕事はやりやすいのだ。そして、そのようにして組織が回った方が最高責任者たる校長によっても望ましいはずなのである。

 それを建て前ばかりを振り回して、「校長」一人がいっさいを秘密裏にとりしきるのが「別の組織が介在すると校長の責任ある執行を妨げる事態が起こる危険性」を回避することになるとでもいうのだろうか。本当に現場を知らない、硬直した、打撃主義的な論法だ。

 ああ、それにしても 「いまだにこういうことが行われているというのは本当に驚いた」(下村文相)というのも白々しい。よくぞ質問してくれたとばかりに、「全国調査」に踏み切るとは! バカ正直な答が返ってくると思っているのかどうかはともかく、これでまた学校現場は萎縮し、お上の動向に戦々恐々とし、事なかれ主義がすすんでいくのだろうな……。(4月18日)








by yassall | 2014-04-01 12:18 | つい一言 | Trackback | Comments(0)
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