人気ブログランキング |
<< はっぴぃはっぴぃドリーミングv... 3月の散歩 >>

小森陽一『死者の声、生者の言葉』

 「文学で問う原発の日本」が副題である。筆者小森陽一は九条の会の事務局長として知られているが、講演を聞いてみると、裏方というよりは仕掛け人である。元来は国文学者であるこの人らしい本書も、目配りのきいた現状分析のもとに、明確な意図をもって書かれ、出版されたのだと思った。
 藤井貞和の文章にふれながら、「福島県内」で「ますます」「進行」の度合を高めている「深刻な言葉のタブー」を指摘する。

  悲しみや恐怖の記憶につながる感情の喚起は、現時点での自己の無力さを強く浮かびあがらせる。言葉を排除しようとする人びとはそこを見たくないのだ。

 「解決のしようのない放射能災害や、風評被害や、内部被曝のおそれが拡散」するなかで、深い共感なしに、それを批判することはできない。
 だが、問題はそれをいいことに、福島原発事故にもっとも重い責任を持ち、対策に力を尽さなければならない立場にあるものたちが、人びとの記憶から遠ざけ、風化させてしまおうと企んでいることだ。
 私が読みとった「意図」とは、「フクシマ」の記憶を風化させない言葉をどのように語り継ぎ、構築していくかの探究である。

  「三・一一」後の、すべての「災厄」に「立ち向かい」続ける言葉を、どのように生み出すことができるか。私たちは言葉による表現の実践を続けなければならない。そのためにも光る表現に出会わなければならない。


 このように書く筆者は、「想定外」やら「完全にコントロールされている」などの虚偽の言葉に対抗するために、「言葉とその意味に対する厳密な、徹底して論理的であることによって倫理的ともなる姿勢」が必要なのであり、「悪夢をはるかにこえた現実」に立ち向かうには「詩と文学の言葉に支えられた想像力が不可欠」だというのである。

 本書でとりあげられた詩人や作家(あるいは文学者以外の人)たちは、若松丈太郎、和合亮一、藤井貞和、金時鐘、みちのく赤鬼人、高橋源一郎、大江健三郎、大石又七、川上弘美、井上ひさし、宮沢賢治、高木仁三郎、夏目漱石、いとうせいこう、林京子、加賀乙彦である。(他にもいたかも知れない。)
 3.11後に書かれた作品や文章とは限らない。あたかも未来を予見していたかのようであったり、新しい「光」を放つものとして再発見された表現も含んでいる。
 なかでも、3.11直後に書きかえが行われた川上弘美の「神様2011」や、宮沢賢治の「グスコーブドリの伝記」から科学と宗教と文学を問うた論考などに力が入っていた。
 夏目漱石の「現代日本の開化」では、通常は「内発的」であった西洋の開化と「外発的」であった日本の開化を比較し、日本的近代の問題点を解明した評論として読まれるのだが、筆者は別に「積極的」開化と「消極的」開化との対比があり、4回の連続講演会を一貫したテーマとしての文明批評があったのだという。それは全面的な人間能力の発展をめざした「積極的」開化に対し、「効率」をめざした「不精者」の発想による「消極的」開化の違いであるとし、つぎのように書くのである。

  人間にとっての「労働」は対象としての自然に目的意識的に働きかけ、変化させ、生産を行う、こうした生産労働を通じて人間としての能力を高めていく。しかし資本主義体制下においては、「労働」が「他人本位」の、他人のための物を生産することになり、本来の「労働」の在り方を喪失してしまうことになる、という考え方に漱石も立っていたのである。

 漱石の「自己本位」の思想をもう一度見直す必要にせまられるような見地であると思った。

  「死者と共にこの国を作り直していくしかないのに、まるで何もなかったように事態にフタをしていく僕らはなんなんだ。この国はどうなっちゃったんだ」
  ……
  「亡くなった人はこの世にいない。すぐに忘れて自分の人生を生きるべきだ。まったくそうだ。いつまでもとらわれていたら生き残った人の時間も奪われてしまう。でも本当にそれだけが正しい道だろうか。亡くなった人の声に時間を傾けて悲しんで悼んで、同時に少しずつ前に歩くんじゃないのか。死者と共に」

 筆者は最終章「死者との対話を持続するために」で、いとうせいこうの「想像ラジオ」からこのように引用する。
 そこに、林京子の「長い時間をかけた人間の経験」、大江健三郎の「取り返しのつかないものを、取り返す」と共通するものを見いだそうとする。

  不定性の確立とは、
  なまなかの希望に対してはもとより、
  いかなる絶望にも同調せぬことだ……
  (略)
  小さなものらに、老人は答えない。
  私は生き直すことができない。しかし
  私らは生き直すことができる。

 『晩年様式集』に再録された大江自身の詩の一節である。大江は「自分は遠からずいなくなるが、しかも人間は生き直すことができると確信する感じ」とインタビューで説明しているという。
 筆者は絶望(のみ)を語ろうとしているのではない。どのようにしたら希望を語り得るのかを探究しているのだと思った。

 ※本の紹介のしかたが一面的になった。「論理」と「倫理」との結合を提起していた通り、背景としての戦後社会と原発、九条と安保体制との関連についてもきちんとした分析がなされ、押さえるべきが押さえられていると思った。

 ※前回紹介した長谷川三千子『神やぶれたまはず』は本書を書店で探していて、偶然同じ書棚にあったのを手にしたのだった。順序が逆になってしまった。遠回りをしたものである。

小森陽一『死者の声、生者の言葉』新日本出版社(2014) 


by yassall | 2014-03-25 18:01 | | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : https://sakurago.exblog.jp/tb/21889007
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
<< はっぴぃはっぴぃドリーミングv... 3月の散歩 >>