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長谷川三千子『神やぶれたまはず』

 1
 読んでみようと思った動機から書く。日本会議のメンバーであることは知っていたが、個人としての信条はともかく、NHKの経営委員となってからの言動には否定的にならざるを得ない。だが、丸山真男流にいうならば「イデオロギー暴露」ではなく「内在批判」のためにはその著作を読んでみる必要があるだろうと考えたことがひとつ。さらに、本書でとりあげられた折口信夫、橋川文三、桶谷秀昭、太宰治、伊東静雄、磯田光一、吉本隆明、三島由紀夫という人びとが、私自身もある時期において引き寄せられたり、少なくとも強い関心の延長にあったからである。以前にも書いたが、同じ著者の『日本語の哲学へ』は今も好著であると思っている。同じような明晰さと切れ味をもってこれらの作家や評論家を論じたらどのようであるのか、若干の期待もあった。
  ※
 初発の読後感を書く。これは評論ではなく、「神学」の書であると思った。プラトンが『国家』で述べたという「詩人追放論」を思い出した。橋川文三からの孫引きなのだが、カッシーラーによれば「プラトンが戦い否定するのは、詩それ自体ではなく、詩のもっている神話を作る機能」なのだそうだ。まさに、本書では新たな「神話」が作られようとしている。そして、美学と政治とが混同されていく危険を思った。
  ※
 たとえば、筆者は「大東亜戦争は…他の手段をもってする政治などではなく、ある絶対的な戦争」であったとする。(別な箇所では「普通の戦争」といういいかたもしているのだが。)これはもちろん「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」としたクラウゼヴィッツの『戦争論』を踏まえている。だが、日中戦争・太平洋戦争が日本資本主義の国内的矛盾の対外的解消のために引き起こされ、あらゆる外交的手段の行き詰まりの果てに破局への道を踏み出していったことは、多少とも歴史を学んだ者には自明のことではないだろうか。

 2
 一国の歴史には「その意味を知ることが、その国の歴史全体を理解すること」になるような「特別の瞬間」がある、というのは理解できるような気がする。
 筆者は「昭和二十年八月十五日」以来、日本は一種の「麻痺状態」にあり、「歩みを止めている」という。だから、「"戦後"が終わらない」のだとする。
 8.15を境に、近代日本史が戦前と戦後に分かれ、私たちが生きる時代を「戦後社会」といい続けるのは、それだけ重大な日であったことは確かだ。
 ただ今日、「戦後社会」を日本が民主主義社会として生まれ変わった社会としてのみとらえていいのか、という問いは厳然として残っているように考える。それは戦後的価値の一切、とりわけ民主主義の価値を否定することとは限らない。むしろ、民主主義がどこまで本物として(日本の風土に根ざしたものとして)育っているのかの問いでもあると思う。
 少し先回りをした。筆者は次のような引用によって「特別な瞬間」の存在を例証しようとしている。

 「(終戦の詔書の)御放送の直後の、あのシーンとした国民の心の一瞬」「国民の心というものが紛れもなくあの一点に凝集された」(河上徹太郎)
 「多くの日本人がおそはれた”茫然自失”といはれる瞬間」「言葉にならぬある絶対的な瞬間」(桶谷秀昭)


 なかでも、太宰治が「トカトントン」で、「つめたい風が吹いて来て、さうして私のからだが自然に地の底へ沈んで行くやうに感じました」と、桶谷秀昭の「垂直に天にむかひ地に潜行する運動」との類似に注目し、水平的な時間の流れとは異なった、垂直的な「歴史意識」を見いだそうとしている点は立場の違いをこえて説得力を感じる。
 8.15が戦前・戦後の結節点であり、そのどちらかを無化する(なかったことにする)ことは出来ないという視点は、そのどちらの価値観に立つかは別の問題として重要だろう。
 詳しくは述べないが大澤真幸『不可能性の時代』や吉田司『王道楽土の戦争』も、戦前的な価値の否定を急ぐあまり、その検証を怠ったため、かえって地下水脈のように戦前がそのまま生き残ってしまっていることを指摘している。
 戦後の「繁栄」があったとすれば、その「繁栄」の恩恵を享受する者はつねに戦争で死んでいった者たちへの「後ろめたさ」から逃れられないように。
 だが、戦前を「なかったこと」に出来ないのと同じように、戦後および戦後を生きた日本人も無化することはできまい。それを「麻痺状態」として切って捨てることはかなわないのである。
 大宰は「トカトントン」で、

 「悲壮も厳粛も一瞬のうちに消え、私は憑きものから離れたやうに、きょろりとなり、なんともどうにも白々しい気持ち」

 を告白する。
 この「白々しい気持ち」という虚脱感からどのようにして立ち直るかが、戦後の日本人の最初の課題であったことは確かだろう。また、急激に変化しようとする価値観へのとまどいや違和感を読み取ることも間違ってはいないだろう。だが、同時に「憑きものから離れたやう」と書かれている点も無視することはできない。少なくとも、もう一度「憑きもの」に憑かれることが失われた自己を回復することにはならないはずだ。

 3
 本書が「神学」論的な様相をあからさまにしていくのは三島由紀夫を論ずるあたりからであるが、その前段では大宰の「トカトントン」からの次のような引用がある。

 「死なうと思ひました。死ぬのが本当だ、と思ひました。」

 それは桶谷秀昭の次のような特異ともいえる二分法とも連関していよう。

 「八月十五日からこの半月のあひだに、詔書を奉じ、国体護持を信じて生の方へ歩き出した多くの日本人と、すべてがをはったと思ひ生命を絶った日本人との結節点を象徴してゐる」

 では、二・二六事件を題材とする三島由紀夫の「英霊の聲」はどこに結びついていくのか。能を構成的な道標としながら作品を読み解いていく手際については端折るとして、三島の「怒り」はまた「神の死の怖ろしい殘酷な実感」であり、それは二・二六から八・一五を通底するものだというのである。
 三島もそうであったといわれるが、吉本隆明も「私は徹底的に戦争を継続すべきだという激しい考えを抱いていた」という。三島の場合、それは神とともに死ぬことによる「神人対晤」の「至福」の瞬間への希求であり、天皇の「人間宣言」はその裏切りであったというのである。
 それは、伊東静雄を論じた箇所では、「死を奪われ、「生の宣告」を受けてしまった者の目にうつる、世界の異様な姿」とも言い換えられ、「旧約聖書」で神に息子を生贄として差し出すように命ぜられたアブラハムを描いた「イサク奉献」について次のように述べることで補強される。

 「自らの死を神に与えようとしてゐる者にむかつては、神は中止命令をだしてはならない」

 ただし、筆者は三島と同様に天皇を批判しているかといえばそうではなく、西洋の神が「死ねない」神であるのに対し、天皇は「死ねる」神であり、「自分はどうなってもよい」という決意に裏打ちされた「終戦の詔書」によって、「天皇の「死」と国民の「死」とは、ホロコーストのたきぎの上に並んで横たはってゐた」として掬い取ってしまうのである。
 現人神とは、「現身でありながら、それと同時に、神々の遠い子孫としての神格をそなへてゐる」存在であり、「人間宣言」の後も変わらないとする。戦後、折口信夫が「神やぶれたまふ」として、神道の世界宗教化をめざして「新しい神学」を打ち立てようとしたのも空しい努力であったことになる。

  4
 筆者のいう「絶対的」な戦争という意味は、日本人の誰もが自らの「死」と直面せざるを得なかったという意味ではないのだろうか。
 吉本隆明がまだ学生であったころ、大学に宮本顕治・鈴木茂三郎の他、児玉誉士夫がやってきて講演したという。児玉は「米軍が日本に侵攻してきた時に日本人はみな死んでいて焦土にひゅうひゅう風が吹き渡っているのを見たら連中はどう思っただろう」と発言し、それを聞いて吉本は「ああいいことを言うなあ」と感心したというエピソードが紹介されている。
 吉本はさらに、「家族のためにも祖国のためにも死ねないな」と徹底的に考えた結論として、「天皇のため、生き神さんのため」なら死ねると考えたという。
 国民がみな死んでしまう戦争、国土が焦土と化してしまう戦争が目的化(結果としてではなく)してしまうなら、戦争としては自己矛盾をきたしてしまうことになる。祖国や国益を守るという目的を突き抜けてしまう戦争が成り立つとすれば、確かに「神学」としての戦争でしかあり得ないだろう。
 橋川文三が、ナチスが「我々は闘わねばならぬ」であったなら、日本の若者にとっては「我々は死なねばならぬ」であったと、どこかで書いていた。召集され、戦地へとやられる兵士の、諦観とも美意識とも入り混じった心情としてなら理解できる。
 だが、それは戦争の実態とは遠くかけ離れているのではないだろうか。児玉誉士夫がどのような顔をして大学生の前で講演したのかは知らないが、私たちの知る児玉誉士夫とは、戦時中は海軍の委託の下で物資調達にたずさわりながら資金を蓄え、戦後はその資金(自由党への資金提供は150億円とも)をもって政財界の黒幕として暗躍し、1976年のロッキード事件に際して突如として表の世界にあらわれた人物である。死の間際には「自分はCIAの対日工作員であった」と告白したともいわれている。そのどこに「神学」や「美学」があるというのか。

  5
 述べたいことは初発の感想の通りである。「神学」や「美学」に心引かれないこともない。それらが日本人の精神構造に深く根付いているものであるならば、きちんと検証していくことは必要だろう。だが、それらを「政治」の場にもちこむことの危険にこそ警鐘を鳴らしておかなければならない。
  ※
 最初に書いたように、私としては「内在批判」を試みたつもりであるが、本書を読んいで苦しかったことに、牽強付会とまではいわないまでも、他者の言説を自分に引き寄せ過ぎているように思われてならなかったことがある。
 8.15が「特別な瞬間」であったという例証のひとつとして、

 「あたかも世界終末をまちうけるかのような、不思議な静かさ」

 という橋川文三からの引用があるが、筆者も書き添えているように、橋川の郷里である広島に原爆が投下された後の1週間の心境を述べたものであることがもっと強調されていいだろうし、おなじエッセイの最後には、終戦を知らされたとき、「ながいながい病床にあった老人の死を見守るときのように、いわれない涙が流れた。」と書き、「今夜から、私の部屋に灯をともすことができるのかという、異様なとまどいの思いとであった。」(「敗戦前後」『日本浪曼派批判序説』所収)とも書いているのである。
 これは、筆者が「安堵感」と「挫折感」とは本来「表裏一体」をなし得ないとして批判した磯田光一の、

 「一種の安堵感と挫折感とが、これまた表裏一体をなして人びとの心を領有していた」

 の生活感としての「安堵感」と共通してはいないだろうか。
  ※
 伊東静雄を論じた文章では次のような日記の一節が引用されている。

 「太陽の光は少しもかはらず、透明に強く田と畑の面と木々とを照し、白い雲は静かに浮かび、家々からは炊煙がのぼつてゐる。それなのに、戦は敗れたのだ。何の異変もおこらないのが信ぜられない。」

 しかし、これをもって伊東静雄が自らの「死を奪われ」たことに絶望し、何らかの「異変」を待望したと考えることは、次のような作品と接する限り、まったく当たらないと思うのである。伊東静雄の目はもっと透明で、自然や人間の営みに対する愛情と、そして静かな断念にみたされている。


   夏の終り


  夜来の颱風にひとりはぐれた白い雲が
  気のとほくなるほど澄みに澄んだ
  かぐはしい大気の空をながれていく
  太陽の燃えかがやく野の景観に
  それがおほきく落とす静かな翳は
  ……さよなら……さやうなら……
  ……さよなら……さやうなら……
  いちいちさう頷く眼差しのやうに
  一筋ひかる街道をよこぎり
  あざやかな暗緑の水田の面を移り
  ちひさく動く行人をおひ越して
  しづかにしづかに村落の屋根屋根や
  樹上にかげり
  ……さよなら……さやうなら……
  ……さよなら……さやうなら……
  ずつとこの会釈をつづけながら
  やがて優しくわが視野から遠ざかる


 
長谷川三千子『神やぶれたまはず』中央公論社(2013)


by yassall | 2014-03-21 14:02 | | Trackback | Comments(0)
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