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谷川雁「母」

 永田町から有楽町線に乗って家路につこうとすると、乗り合わせた車両の正面の座席で何か一人言をいいながらしきりに涙をぬぐっている老婦人がいた。ときに泣き笑いのようにみえながら、ふっと真顔になったりもするのだが、しばらくするとまた表情がくしゃくしゃとなり、池袋に到着するまでそのままだった。
 あまり視線を注ぎ続けても申し訳ないと思いながら、泣き声がするたびに見るともなく見ているうちに、谷川雁の「母」を思い出したのだった。
 家に帰って詩集を引っ張り出してみると、記憶とは少々異なっていた。だいたい題名からして違っていたのである。

 この詩でいうと、「くすんだ赤旗をひろげて行った/息子」というのが詩人本人(あるいはその同志)であるならば、「老婆」はたった一つの希望であった息子を労働運動だか革命運動に奪われたその「母」ということになる。
 だが、その「母」なるものは炭鉱での労働にあけくれ、労働苦・生活苦を額に刻んできた労働者階級の象徴的存在なのであり、実は「息子」もその嘆きを革命エネルギーとして汲み取っているのである。
 (詩人本人と書いたが、もちろん谷川雁はオルグとして炭鉱労働者の間で活動したことがあるということであって、自身が炭鉱労働者の息子であったというような事実はない。)

 そんな解釈が成り立つかどうかは別として、この詩を書いた頃の谷川雁自身は決して「老い」の側にいたのではなかったし、この詩を読んだ頃の私もまた年若い青年時代を生きていたのだった。
 しかし、突然記憶の中によみがえり、そして今、目の前にある詩は、まったく異なった相貌をもって立ち現れた。
 人間にとって「老い」は誰にとっても抗いなく、しかも思いがけない急ぎ足でやってくる。衰え、すでに多くのものが失われ、思いがけない不運や不幸に見舞われても、これを乗り越える力がもう備わっていないことを思い知らされたとき、人間にはただ嘆き悲しむことしか残されていないのだろう。
 そのように残酷で、真裸な世界が現前している、と思ったのだ。そしてそこには、避けがたい運命に直面したとき、身を投げ出すようにして嘆くしかない人間の真実がある。


    母

  老婆よ 老婆よ
  おまえはあまりに深く泣いたので

  老婆よ 老婆よ
  おまえのなみだは見えないのに

  さびれた鉱山の岩間の奥
  こよいあんなに火の粉がおちるのだ

  くらい煙突のあなからさみだれは
  飢えたかまどの石をぬらし

  どぶの蒸気が
  古い地獄のうつし絵をはう

  くすんだ赤旗をひろげて行った
  息子はもうおまえを抱かないのだから

  老婆よ 老婆よ
  おまえが暗い夜をほしがるのは

  老婆よ 老婆よ
  おまえのさみだれがふるからだ

   (たにかわがん,1923-1995)


by yassall | 2014-03-10 15:47 | 詩・詩人 | Comments(0)
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