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年越しと、年明けと

 10月末に出版された大江健三郎の『晩年様式集』を読み始めているのだがなかなか進まない。大江健三郎の本を手にするのが久しぶりなのに、どうやらこれまで発表された作品を前提として書かれているらしいことと、本人が「前口上として」で述べている通り、「いくつものスタイルの間を動いてのもの」であることが読みにくさに輪をかけているのだろう。
  私は読みかけの本を何年も放っておいたり、そのままにしておくのは平気な方なのだが、それでも大江健三郎がどのような言葉で文章を綴っていくのか気になっているのは、この本が「三・ 一一後」を意識しながら書かれているからだろう。
  3.11後、大江はそれまで書いていた長編小説に「興味を失った」といい、「これまでの仕方で本を読み続けることができなくなっている」という。
 そしてダンテの『神曲』から、「いま現在の、そこの状態について私らにはどんな物証もないし、知識もない。もし誰かが言葉によって告げてくれることがなければ。」に続く、つぎのような詩句を引用してみせる。

  「よっておぬしには了解できよう、未来の扉がとざされるやいなや、わしらの知識は、ことごとく死物となりはててしまうふことが。」(寿岳文章訳)

そのように指摘されてみれば、それは多くの人々が3.11後に直面した精神状況だったのではないだろうか。あたかも3.11の年に退職を迎え、第二の人生を歩み始めることになった私も同様だった。「今日」は「昨日」の延長ではない、「昨日」と同じように「明日」を迎えることは出来ない、と。
  もちろん、日々の暮らしはいやおうもなくやってくる。少なくとも自分の周囲では日常をとりもどしているかにみえる。だが、どこかで何かが切れたままになっている、自分と自分をとりまく世界がしっかりととらえられていない。
  誰かによって、「いま現在の、そこの状態」を言葉によって告げて欲しい、と願った。それは昨年、辺見庸の『瓦礫の中から言葉を』を読んだときにもした思いだった。3.11後を、どんな言葉で人々がそれを語るのか、また語り得るのか、私は私なりに注目せざるを得なかったのだ。
  辺見庸もまた、「言葉でなんとか語ろうとしても、いっかな語りえない感覚」について述べる。ああ、これだ、と思う。あったことをなかったことにすることは出来ない、あったことをきちんと受け止めるためには、それまでのありきたりの言葉を一回放棄しなくてはならない。そして、辺見庸はそれでも「<死者>ひとりびとりの沈黙にとどけるべき言葉」を発していかなくてはならないとし、あるいは原民喜の中に、石原吉郎の中に、それを探し求める。

  辺見庸を読んだとき、私は少し光がみえたと思えた。その光に大きな影を落としたのが昨年末に誕生した第二次安倍内閣である。
  3.11後の日本人の精神状況を分析して、多くの人々がうつ状態か躁状態のどちらかに陥っている、というのがあった。アベノミクスによる株価の上昇やオリンピック招致による高揚はまさに日本中を躁状態に持ち込もうとする策略であったような気がしてならない。福島原発の汚染水は「完全にブロックされている」という、世界中を驚かせた発言は、まさに象徴的であった。
  3.11を封じ込め(=ブロックし)、国民から切り離し、準戦時体制を作り上げることで「強い日本」を演出し、全能感で人々を麻痺させようとしている。
  それらは第一次安倍内閣でなしとげられなかった野望を急進的に総仕上げしようとしているというより、戦後社会の中で暗流となってどこかで生き続けてきた、挫折せる「大東亜共栄圏」の怨念が火を噴いているとしか思えないようですらあった。
  石原吉郎の「実戦経験のないことに強い劣等感を持つ少年兵」を引いて安倍首相を批判したのは山口二郎氏であったが、私には彼が小東条、小岸、小近衛にみえてならない。

  だが、3.11を切り離すことは、一度「何かから切れてしまった」私たちを放棄することに他ならない。どのように浮かれ、騒ぎ立てようと、どこかそらぞらしさ、「昨日」にも「明日」にもつながらない、浮遊する自分が発見されてしまうのではないだろうか。
  大江健三郎が「晩年」を痛切に意識しながら、「いま現在の、そこの状態」を言い当てる言葉を探す苦難に挑んでいるというなら、及ばずながら私もそのあとを追わなくてはならない。道ははるかにへだったっていようとも、である。
   ※
  そんなわけで、今年一年を振り返れば、年度当初に立てたようなまとまった読書も出来ず(これは私の読書力の不足が大きい)、思索の跡(たいしたものではないが)を整理することもかなわなかった。

  [国語・国文]でいうと、太宰治の「十二月八日」についてはどうしても書いておきたいと思っている。太平洋戦争の開戦に日本の作家たちがどう向きあったかを検証することは今日的な意義を失ってはいないと思う。太宰の「十二月八日」はいわれるような軍国主義への屈服、ましてや便乗ではないというのが私の読み方だ。
  教材論シリーズでは森鴎外「舞姫」が書けていない。3学年担当時の多忙さもあったが、鴎外については論じられるほど読んではいないという事情もある。だが、亀山郁夫がドストエフスキーを論じるのに、物語・自伝・象徴・歴史の四つの層を提起しているのをみて、「舞姫」もこれで論じられるのではないかというアイデアが浮かんできた。明治という時代にあって、日本と西洋を架けた恋愛物語は、もちろん鴎外自身の体験がベースになっており、自伝としての要素は抜き去ることが出来ない。ベルリン裏通りの古寺、サイゴンの港、積み重ねられた襁褓が象徴するものは大きいだろうし、太田豊太郎の挫折は近代日本成立期におかれた知識人の自我の分裂という歴史をみなければ評価はできまい。
  その昔に原民喜について書いたことがあり、これもアップしておきたいのだが、テキストになっていないのでずっとそのままになっている。

  と、多少大上段にかまえつつ宣言してしまうことで、自分への叱咤激励とする。日本をとりまく状況はますます深刻になっていくことは間違いないだろうから、相変わらずブツブツと何ごとかつぶやきながらになってしまうかも知れないが、私は私なりに「いま現在の、そこの状態」と向きあっていきたい。

  明日になれば「年明け」である。とやかくいいながらも「年越し」が出来る幸運を喜び、「年明け」によって新しい出発への期待を抱くというこの国の風習には素直にしたがいたい。だが、「年越し」があっての「年明け」であるのだから、それが過去と切れてしまうわけでもないし、置き去りにしてしまってよいわけでもないことは忘れないようにしたい。


by yassall | 2013-12-31 13:59 | 雑感 | Comments(0)
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