人気ブログランキング |
<< つい一言  2013.1018~ 10.13原発ゼロ★統一行動 >>

『きずな』と『流星ひとつ』  藤圭子ふたたび

 二冊は同じ日に書店に並ぶことになったが、出版にいたるまでにはにそれぞれに経緯がある。『きずな』は1999年に旧版がある。作詞家石坂まさをの自伝として書かれたが、「藤圭子と私」というサブタイトルをつけ復刊された。
 『流星ひとつ』はもっと古く、1979年に引退を表明した藤圭子へのインタビューをもとにした本である。ただし、翌年には原稿は完成していたが、出版はされなかった。沢木耕太郎はその理由について、藤圭子が復帰する可能性に配慮したこと、会話だけで長編ノンフィクションを書ききるという「方法」意識が先行し、藤圭子を「描き切れていない」と判断したからだとしている。
 もちろん、二冊は藤圭子の死を契機に緊急に出版されたのである。石坂まさをは今年3月に亡くなっているので本人の意志ではない。沢木耕太郎には30年間の封印をといてよいと考えた何かがあったのだろう。

 二冊はたがいに参照しあったとは考えられず、それだけに微妙な異同があるのが興味深い。たとえば、デビュー曲である「新宿の女」の歌詞はみずの稔と石坂まさをの共作ということになっているが、『きずな』では名古屋でみずのの詞を見せられた石坂が、「みずのさん、この詞の"バカだな"の部分を使わせてもらえないかな」と頼みこみ、残りの部分は帰りの新幹線の中で書き上げたことになっている。
 一方、『流星ひとつ』では、石坂が手を入れたのは「灯りをともして吹き消した あなたは気まぐれ夜の風」となっていた最初の二行を「私が男になれたなら 私は女を捨てないわ」としたところだけだという。
 ただし、このことに関していえば、沢木耕太郎は「比べてみると、沢ノ井(石坂の本名)さんの詞の方が力が感じられる」といい、藤圭子も二曲目の「女のブルース」については「初めてこの歌詞をみたときは…震えた」と言っているから、石坂の才能を疑ってはいないことが分かる。

 それよりも、私が関心を持ったのは、藤圭子は石坂のことを「よくわかんないんだけど、この人は(あたしと)似ているな、っていう感じはあった」といい、石坂もまた藤圭子を「似たもの同士」であるとし、次のように書いている点だ。

  「かつて、純子(藤圭子の本名)と私は同じ時代を闘った"戦友"だった。
  昭和四十三年の秋に出会ってから、阿部純子は歌手「藤圭子」となり、私は藤圭子を育てるために、澤ノ井龍二という名を「石坂まさを」に変えた。
  そして、私たちが闘った相手は、ともに"母親"という存在だった。」

 そして結末部では次のような予言を書きとめるのである。

  「純子の母・澄子がわが子を歌手にしようとその半生を生きてきたように、アメリカに渡った純子は、今度は自分の娘にその夢を託している。
  だが、純子が自らの母との相克を断ち切ったように、彼女の娘もまた"母"という存在に背を向ける時が必ず来るはずである。なぜなら、それが母と子の持つ宿命だからだ。」

 母と「闘った」といい、「相克」といっても、両者とも母親との対立があったというのではなく、過剰な期待を息子・娘によせる母と、それに全身全霊をもって応えようとする子どもという関係、といった方があたっている。
 むしろ確執はそれぞれの父親とにあった。その有り様は暴君というのに近いのだろう。石坂の父親は事業に成功した後、八人の愛人を持ち、死去した後も子どもをもうけた二番目の愛人に事業を継がせるという、正妻をないがしろにして顧みない人物であったらしい。石坂はその正妻であった女性を母として成長したのであるが、あろうことか、子どもがいなかった母に他の愛人が産んだ子どもを育てさせた、その子どもが自分だったという出生の秘密を知るにいたるのである。
 石坂は母が存命のあいだ、ついに面と向かっては事実を確かめ得なかったと回想しているが、その母は石坂ひとりに希望をたくし、いわば父に捨てられた石坂もまた、荒涼とした青春を過ごしながらもその母の期待を一身にになうことになったのである。
 そうしてみると、さきほどの

  私が男になれたなら
  私は女を捨てないわ

 という歌詞も、その直接性をこえた迫真性を有する理由も理解できる。それは母の悲しみであったかも知れないのである。

 
 藤圭子の場合は、父親は生活破綻者というのに近いのではないだろうか。「この人は兵隊にとられて上官に殴られてばかりいておかしくなった」というエピソードは両書に出てくる。流しの浪曲師というから、だんだん上演の機会もなくなっていったのだろうが、働かず、朝からパチンコに興じては家族に暴力をふるったらしい。
 沢木耕太郎からは「何かに怯えているようなところがある」と指摘され、自分でもいつも「オドオド」しながら生きている(いた)と藤圭子は告白している。父親から受けた理由なき暴力は心の爪痕としていつまでも残っていったことだろう。

 こうしてみると、作詞家「石坂まさを」と、歌手「藤圭子」とは、まことに希有にして必然の出会いであったのかも知れない。上記の二曲に続いて「圭子の夢は夜ひらく」「命預けます」が一年余の間に発表され、またたく間に一世を風靡するにいたった。
 沢木耕太郎は次のように書くのである。

  「藤圭子という素材を得て、持っているものが一気にバッと爆発したんだね、石坂まさを、こと澤ノ井さんも。わずかその一年のあいだにね。」

 そして藤圭子も、「藤圭子は〈夢は夜ひらく〉を歌っていなければ、もっともっと歌手としての可能性があった」という説があることを紹介され、

  「それは違うね。そういう言い方は意味がないね。…歌手として、やっぱり、歌った方がよかったんだよ。」

 と答えるのである。
 そして、それはその通りであるに違いない。あの一年があったからこそ、藤圭子は鮮烈な印象をもって人々の「胸の奥をさわり」、流星となって消えて行ってしまった後も、心のどこかを疼かせ続けているのである。

 さきほどの石坂の「彼女の娘もまた"母"という存在に背を向ける時が必ず来る」という予言についてふれる。
 娘・宇多田ヒカルと母・藤圭子との間に確執が生じたことがあったのは事実のようである。藤圭子が家族からの孤立感を深めていたという直接的なきっかけになっていたかも知れない。
 石坂の文章には、「純子が自らの母との相克を断ち切った」ともあったが、それも事実のようだ。だが、藤圭子の場合、そのことが却って彼女自身を苦しめていたということは十分に考えられる。
 両親が離婚した後、藤圭子は「阿部」姓ではなく、離婚後の母の姓である「竹山」を名のっている(『流星ひとつ』に出てくる)。両親の離婚は藤圭子の支持するところであったらしい。その上で彼女は母親の杖となって生きる決意を固めていたのである。その重さがいつしか爆発したのではないか。

 藤圭子が投身自殺をとげた後、マスコミでは本名「阿部純子」と報じられたが、それは二重の意味で誤りである。「竹山純子」から「阿部」姓に戻ったことはないこと、次の宇多田ヒカルのHPによれば、本名「宇多田純子」が正しいことから。そのことを指摘して、この問題の答としよう。

  「一連の記事で母の本名が誤って報道されていました。阿部純子ではなく、宇多田純子です。父と離婚後も、母は旧姓の阿部ではなく宇多田姓を名乗ることを希望し、籍も父の籍においたままでした。夫婦だとか夫婦ではないなんてこと以上に深い絆で結ばれた二人でした。亡くなる直前まで、母は娘である私だけでなく、父とも連絡を取り合っていました。父は、母が最後まで頼っていた数少ない人間の一人です。
  それらの事実をふまえた上で新宿警察署は、母の遺体の本人確認と引き取りを父が行うべきと判断したものと思われます。」

 HPでは、「私も藤圭子のファンでした。今も、この先もずっとファンであり続けます。」としめくくられている。このことばに偽りがないのであろうことは、2010年に発表された「嵐の女神」の歌詞を読んで、信じてよいと思うのである。

   「嵐の女神」

  嵐の女神 あなたには敵わない

  心の隙間を埋めてくれるものを 
  探して 何度も遠回りしたよ

  たくさんの愛を受けて育ったこと 
  どうしてぼくらは忘れてしまうの

  嵐の後の風はあなたの香り 

  嵐の通り道歩いて帰ろう
  忙しき世界の片隅 

  受け入れることが愛なら
  「許し」ってなに? きっと… 

  与えられるものじゃなく、与えるもの
  どうして私は待ってばかりいたんだろう 

  お母さんに会いたい

  分かり合えるのも生きていればこそ 
  今なら言えるよ ほんとのありがとう

  こんなに青い空は見たことがない 

  私を迎えに行こう お帰りなさい
  小さなベッドでおやすみ


 沢木耕太郎『流星ひとつ』新潮社(2013.10.10)
 石坂まさを『きずな 藤圭子と私』文藝春秋(2013.10.10)
by yassall | 2013-10-17 02:02 | | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : https://sakurago.exblog.jp/tb/20845985
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
<< つい一言  2013.1018~ 10.13原発ゼロ★統一行動 >>