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埼玉県高校図書館フェスティバルによせて

  6月2日、埼玉県高校図書館フェスティバル・ファイナルが、さいたま市コミュニティセンターを会場に開催された。
  この催しは埼玉の高校図書館に勤める学校司書の有志によって、学校司書の存在とその果たしている役割についての認知を高めよう、そのことで10数年間にわたって滞っていた司書採用試験の再開の機運を起こそうと、3年前にはじまった。
 そして、昨年ついに重かった扉が開き、埼玉では司書採用試験が実施された(今年度も引き続き実施される)。ファイナルと銘打った今年の会はたいへん盛り上がったものになったし、第1回目でもシンポジウムの進行役を仰せつかるなど、多少とも手伝いをさせて頂いて来た身として、喜びを共にすることが出来た。
 今回、活動報告「ともに創る学校図書館」と全体交流の司会をつとめながら感じたこと、考えたことがあるのでまとめてみたい。

 活動報告の一本目は「司書の使い方-『現代社会新聞』をつくる授業」。発表者は飯能高校の安道教諭と阿部司書である。
 新聞作成要領についてのガイダンスの後、図書館に集本された資料をみながら各自のテーマを決める、資料を用いてテーマについて調べ、4つの記事に自分のことばでまとめ、レイアウトを考えながら手書きで新聞を完成させる。自宅でのインターネットの活用は禁止していないが、学校では図書館の資料を用いることが原則である。手書きであることも相まっていわゆるコピペは通用しない。以上がとりくみのあらましで、図書館を使った授業あるいは図書館の授業利用の実践である。

 学校図書館法では、学校図書館を「学校の教育課程の展開に寄与するとともに、児童又は生徒の健全な教養を育成することを目的として設けられる学校の設備」と定義している。
 「教育課程の展開」とは、簡単にいえばカリキュラムに沿って授業を行うこと、すなわち「寄与」とは授業支援ということになる。
 だが近年、学校教育の場で学校図書館に期待されていることは、たとえば補助教材を提供するとか、発展学習のための参考資料を準備するといった範囲を越えているように思われる。それは何かといわれれば、答は安道教諭の「このとりくみには暗記ではない別の学力が求められるのです」ということばに集約される。
 学力としての記憶力を一面的に否定するのではもちろんない。様々な知識・情報がすぐに参照できるような状態で蓄積されていることは大切だし、その蓄積に立ってはじめてクリエイティブな知的生産もあり得る。だが、いわばテストのための暗記、一問に対応する一答としての知識、テストが終わったら直ちに忘れ去られていく(学力剥離!)「学力」には何ほどの価値も見いだせない時代が到来しているのだ。
 1998年、文科省に設置された学校図書館の充実等に関する調査研究協力者会議は「主体的な学習活動を支え、心のオアシスとなる学校図書館」という提言を出している。
 自らテーマを決定し、目標を達成するまでの見通しを立て、学校図書館の機能を活用しつつ、資料を噛み砕き、情報を取り出し、精査し、自分のことばでまとめていく(知的生産)ことこそが「主体的な学習活動」であり、それらは学力観の変更や教育方法の変革を迫るものなのである。

 二本目の発表は「秩父地区読書会で得たもの」。発表者は生徒の立場で読書会に参加し、また地区読書会では実行委員長をつとめた経験を持つ秩父高校の卒業生(現大学生)と、長年秩父地区の読書会と歩みを共にしてきた田島司書である。
 秩父地区の読書会には長い伝統があり、その伝統を背景にして全校読書会や4校合同読書会のとりくみがある。これまでも全県的な財産としてその経験を学んできたが、今回初めて生徒であった立場からの発表であり、得がたい実践報告となった。
 さて、さきほどの調査研究協力者会議の提言にもどれば、「主体的な学習」といい、「心のオアシス」といい、現代の教育をめぐる文科省サイドからの危機意識の表われであるだろう。
 それは現代に生きる子どもたちの心の渇き、荒廃、わけても他とのつながりを断たれたところの心の孤独である。(携帯で、メールで、いつも誰かにつながっていないと不安でいられないという現象自体が満たされない孤独感の表れである。)
 想像力は他者とつながる力であるし、文学を読む力とは共感の力であるから、そうした心の荒廃を克服するものとして読書に期待があつまるのは当然であるかも知れない。
 だが、読書を情操教育としてのみとらえるのは一面的であろう。一冊の書物は単なる個々バラバラな情報の集積体ではない。いってみれば一個の世界観であり体系である。一冊の書物と向き合うこととは、そうした世界観や体系とぶつかり合うことであり、その格闘を通して自己の再編成が迫られるのである。このあたりの仕組みについてはさらに深く学問的に解明されていく必要がある。
 発表の主題である読書会についても、決して読書への動機づけのような単純なとらえ方がなされてはならないだろう。
 管見では、近代以前の読書が音読であるのに対し、近代の読書は黙読が基本である。これはどちらがすぐれているかという問題とは無関係である。音読が伝統につながるのに対し、黙読は自己の内側からの声を聞くことによって内面を形成する。その意味でも近代は個人の時代なのである。
 読書会=集団読書は、その内面が自己の中に閉ざされてしまうのを掬い出す。他者(の読みや意見)との出会いとは、その他者にとって他者である自己の再発見である。そして、その出会いは自己をそのままにとどめては置かないだろう。否定は次の肯定を生み出す。読書会による読書の本質はいわば弁証法である。
 こうした読書会が各学校で成立しがたくなっていること、そこにこそ現代がかかえている問題の根源があるし、また克服への課題があるように思われる。

 司会をしながらこのようなことを滔々とまくし立てるわけにもいかないわけだが、またそのような任にあたらなければこのような想念が湧き起こることもまたなかったわけなのだ。

(個人名をあげた方々についてはご本人の了承を得ています。)
by yassall | 2013-06-13 00:55 | 学校図書館 | Trackback | Comments(0)
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