志賀直哉の「正直さ」
一 太宰・志賀論争 志賀直哉が亡くなった一九七一年、私は大学二年生であった。そのときの私の正直な感想は「ああ、志賀直哉ってまだ生きていたんだ。」であった。 私が大学でついた鳥居邦朗先生は太宰治の研究者だった。その鳥居先生に、「太宰も志賀くらい長生きしたら円熟を見たかも知れませんね。」といったら、ふだんあまり感情的になることのない先生がやや冷笑ぎみに、「円熟?志賀くらいの円熟なら太宰はとっくに達成していたさ。」とのお答えになったのを今でも覚えている。きっと先生は太宰が『如是我聞』で志賀に噛みついた反逆のこころを引き継いでいらしたのだろう。 あるいはまた、志賀直哉=「小説の神様」などという文壇的通説をうのみにしてはいけない、通説なんてものは、ときには頭から疑ってかかるくらいの構えが大切なのだと、暗に戒めて下さったのかも知れない。 つまるところ志賀直哉は私には縁のない作家、近代日本文学史から落とすことは出来ないが、しかしそれ以上でも以下でもない文学者の一人であった。 その志賀直哉と再会することになったのは、授業で『城の崎にて』を取り上げることになってからのことである。 二 「気分」の作家 いや、学生時代に一度だけ、志賀直哉が分かったと思えた時期があった。 それは『十一月三日午後の事』という小品を読んだときであった。それは、あるとき軍事演習がおこなわれ、たまたま疲労困憊して道に倒れている兵隊を見た「自分」が「不快な気分」に襲われる、といった内容の身辺雑記風の作品であった。 大正が終わり、昭和になると、時代はいっきに戦時体制へと変わっていく。しかし、戦時体制というのは一朝一夕には出来上がらない。戦争への準備は、じわじわと長い時間をかけ、気がついたときは国民をがんじがらめにしているといったようになされるのではないだろうか。 志賀が『十一月三日午後の事』を発表したのは一九一九年(※)、桐生悠々が『関東防空大演習を嗤ふ』を書いて信濃毎日新聞の退社を余儀なくされるのは一九三三年である。言論封殺はたちまちの内にやって来た。 戦前のことであるから、軍事演習などということはありふれたことだった、といってしまえばそれまでである。しかし、志賀の「不快な気分」はいち早く戦争の足音を感じ取ったところに発生したように私には思えたのである。 そのような先見性を志賀は持ち合わせている。そのことは認めてもよい。今から考えれば、何とも偉そうに私はそう考えた。志賀は真偽、善悪、美醜を断じ分けていく強固な自我意識を所持している。 ただし、それは自分の「気分」、つまりは直感に対する絶対の信頼から来ている。志賀の自我の強さとは、不快なものを不快といってのける強さ、嫌なものは嫌だと排してはばからない強さなのだ。だから第二次世界大戦中も沈黙を守り抜くことが出来た。私は戦後の作品もいくつか読んだが、自分の「気分」を書いていくという手法では少しも変化がないことに驚かされた。 しかし、自分の「気分」への絶対の自信というのは、状況の変化、時代の風に対する鈍感さの裏返しではないのか。 志賀より遅れてきた文学者たちは、否応もなく時代の荒波に翻弄されていった。しかし、どのような人間も己れが生きた時代から自由ではあり得ない。だとすれば、いったいどちらがより自分の生に忠実であったといえるのだろうか。私はそんなことを考えていたのである。 (※一九一九年はベルサイユ条約が締結された年。第一次世界大戦後の「平和」がいかに危ういものであったかが分かる。) 三 『城の崎にて』の気分 『城の崎にて』を読み返しても、私は私の志賀直哉の読み方を変更する必要を、最初は感じなかった。ここでも志賀は、ただ自分の「気分」「気持ち」を語っているだけであり、「いい気持ち」か「嫌な気持ち」かを述べることに終始しているかにみえる。 いや、たぶん大きく間違ってはいまい。実際、いもりの好き嫌いの件(くだ)りなどに接すると、おいおいいい加減にしてくれよ、というような気分になってしまう。 だが、子細にみていくと、少々勝手が違うような気がしてきた。自分の「気分」を唯一の手がかりにしていこうとしているのは同じなのだが、志賀特有の「自信」が感じられないのだ。というより、一度その「気分」を否定して、その深層にあるものを探究しようとしているように読めるのである。 「実は自分もそういうふうに危うかった出来事を感じたかった。そんな気もした。」 と志賀は書く。しかし、その「そんな気」は直ちに否定され、その「気分」に収まりきれない自分が発見されていく。 ここで、「そういうふう」が指すものは、次の部分である。 「自分は死ぬはずだったのを助かった、何か が自分を殺さなかった、自分にはしなければ ならぬ仕事があるのだ。」 教室で、ここでいう「何か」とは何だろうか、という発問をすると、「神!」という答が返ってくる。 志賀直哉は十七歳の年から七年間、内村鑑三の門下にあった。私は志賀とキリスト教との関係については不勉強であるが、おそらく生徒の答は間違ってはいまい。 一人一人の命は「神」が与えたものであり、「神」の行為に無意味なものはひとつもなく、従ってどのような人の人生も、それぞれの使命(ミッション)を負った、意味あるものなのだ、というのが近代ヒューマニズムの根底をなしているとすれば、若き志賀直哉が心惹かれていったことは想像に難くない。 しかし、実際に「死ぬはずだったのを助かった」体験が、そのような思想に自分を導きはしなかったことに、どうやら志賀はとまどいを感じているように私には思える。 四 志賀直哉の「正直さ」 志賀は死を「静寂」の中に見いだし、「親しみ」を感じている。 「生」きていることの喜びよりも、「死」の静かさに引きつけられていく心理をどう解釈したらよいのだろうか。「死」=安らかな眠りへのあこがれだろうか、蓋棺事定の安心だろうか。 いずれにしても、それらは「ねずみ」の最期に立ち会ってしまったことで打ち破られる。 それを志賀は、「寂しい嫌な気持ち」と表現する。志賀には、しばしば好悪の気分が善悪の判断となる。 ただ、このときは「嫌な気持ち」を遠ざけるのではなく、「あれが本当なのだ」としてその気分を自分に引き受けようとする。 それは、「死の恐怖には襲われなかった」としながら、「フェータルな傷じゃないそうだ。」と告げられて「急に元気づいた。」という告白として表現されている。生ある限り、生き続けようとすることが命あるものの自然な姿であるのだ。 私が志賀の「正直さ」を感じるのは、その後に、「フェータルなものだともし聞いたら自分はどうだったろう。」と問い、「で、またそれが今来たらどうか」と問い直しているところである。 「死」の恐怖と立ち向かうにはそれ相当のエネルギーが必要だろう。事故に遭遇した当座は危機回避の本能によって対応できたとして、それがもう一度再現されたらどうするか、あるいはまた一度は生命には別状ないとされた診断が覆って「致命傷」と宣告されるようなことがあったら、人は一人の人間としてそれに立ち向かう精神力を保持し得るだろうか。 それはいかにも回答が不可能な問いである。しかし、現在の自分の「気分」に安住するのではなく、あえて不可能を問いかけて見るところに志賀直哉の誠実があると私は思うようになったのである。 五 「あるがまま」という解答 椎名麟三がプロテスタントの洗礼を受けたとき、「ああ、これで自分は死にたくない、死にたくないといって死んでいくことが出来る」と言った、というようなことを遠藤周作が書いていた。 志賀直哉は「死に到達する前のああいう動騒は恐ろしい」と書いた。「ああいう苦しみ」は分かるとして、「動騒」とは何を指しているのか。それは死に直面して取り乱してしまうこと、それがあの「ねずみ」のように滑稽にみえてしまうこと、自我の統一性を失うことで、人間としての尊厳を失ってしまうことへの恐れであったのだろうか。 死の「静寂」と生の「動騒」というジレンマを志賀はどのように解決しようとしたのか。 「またそれが今来たらどうかと思ってみて、 なおかつ、あまり変わらない自分であろうと 思うと「あるがまま」で、気分で願うところ が、そう実際すぐには影響しないものに相違 ない、しかも両方が本当で、影響した場合は、 それでよく、しない場合でも、それでいいの だと思った。それはしかたのないことだ。」 この、難解というより難物といった方がよいと思われる一節も、志賀が自らに問うた問題の困難さを思えば許容もできよう。 志賀が出したひとまずの解答は、「あるがまま」(平たくいうと「なるようにしかならない」)=自然を、「しかたがない」=諦観して受容することだった、と読み取ることができそうだ。 そしてそれは、先のような意味でのキリスト教的世界観=生の必然性という思想と対置されるものであるように思われる。 六 固有の死 「あるがまま」の自然の受容、という姿勢をひとまずの解答といったのは、これに続く「いもり」の死をめぐる記述の中での落ち着きの悪さからである。 以前は、そのようには感じていなかった。生死を分かつ「偶然」性に「生き物の寂しさ」を見いだし、「それは両極ではなかった」という記述は、「自然の受容」という視点の延長で読める気がしたし、授業でも生徒にはそのような説明をして終わりにして来たような気がする。 最近になって感じ始めた落ち着きの悪さというのは、終末部の「足の踏む感覚も視覚を離れて、いかにも不確かだった。」をどう解釈するかに端を発している。 「足の踏む感覚」が「不確か」だというのは、志賀が到達し得たと思われた「静寂」の境地に、実は根をおろすことが出来てはいない、かえって諦観と受容から遠く、「無明」の混迷のただ中にあるということではないのか。 今回『城の崎にて』を読み直して気づいたことがある。それは、このとき志賀が「一人きり」であることだ。見知らぬ土地にただ一人であることで、志賀は他との関係性を排除した地点に立った、観察者の眼を獲得するにいたった。 ハイデガーは、「死は必ず自分の固有の死であって誰とも交換できない。」と述べた。 (と、分かったふうをして紹介したが、実は私は『存在と時間』を読破できてはいない。私のハイデガー理解は、かつては松浪信三郎、今は教室で配布した『哲学入門』の竹田青嗣らあたりの解題によっている。) 死の「隠蔽」が、単純な「死」からの逃避ではなく、共同体の作り出したイメージ(例えば「宗教」)の中にそれを解消しようとすることであるとすれば、志賀がキリスト教的な世界観の中にも、東洋的な諦観の世界にも安住できなかったことは、志賀が向き合ったものが「固有の死」であることの証しではないだろうか。 人間にとって、死はつねに「不意の死」であり、その不条理はただ「一人」が引き受けざるを得ないものなのだった。 「知らず知らず遠い先のことにしていた」死を、「本当にいつか知れない」という自覚のもとに見つめ、掘り下げて行った。その先に見えたものは「不確か」だった。それは、作品としては破綻であったかも知れないが、文学者としての敗北ではなかった、と考えようと思う。 それはいかにも不可能な問いだった。しかし、宗教でも思想でもその他の人文科学でもなく、文学とはそもそも「たった一人」でしかあり得ない人間の探究への要求から始まるものなのだ。 私はそこに志賀直哉の「正直さ」と作家魂を見たい、と今は思う。 補論 人間はなぜ「死」を遠い先のこととして考えるか。『城の崎にて』をどう読むかを離れて、この問題を考えて見たかった。 たぶん、 ①死は怖いから、死について考えることから逃避したいから。 という答は間違っていないし、そこを出発点として押さえれば、配布したプリントにあったラ・ロシュフコーの「太陽と死は直視することはできない」の引用に始まる、 ②人間は自分の死の可能性に直面できず、それをみなで(共同で)隠蔽しようとするから。 という件りもそれほど理解は困難でないように思う。 ところで今回、まったく別の解答もあり得るかも知れないと考えた。それは、この作品に入る前に読んだ内山節の『時間の自由』による。それは、 ③人間は「今」という時間を生きているから。「私たちは不思議なことに、人間には寿命があることを知っているのに、傍らでは、永遠の生を得ているとでもいうような感覚を抱いている」から。 というものである。とすれば、人間が死を「遠い」ものとして日常を送っていることを、「頽落」などといって非難するのはまったく当たらないことになるだろう。 「この中に自分は絶対死なないと思っている人間が一人二人はいるだろう。」と教室で何人かをからかってみたが、けっこう本気だった。 こんなふうに脱線ばかりしているから、桜井現代文は「何が要点だか、さっぱり分からん。」という不評を受けることになるのだろう。日々、反省はしているのである。 [注]最初にプリントを配布したとき、椎名麟三のキリスト教入信について「カソリック」としてしまいましたが、その後再読してみると「プロテスタント」の誤りでした。訂正いたしました。
by yassall
| 2011-03-04 13:01
| 国語・国文
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