『山月記』小論
李徴の青春性・その野望と挫折 一 「狂」と「狷」 『山月記』を作品として成立させている根底にあるものは文体の力、つきつめていけば漢字の力ではないだろうか。 どこまでが『人虎伝』で、どこからが『山月記』かは問わぬとして、この漢文体なくしてこの格調、この悲劇性は表現され得なかったに違いない。 李徴の人物像を読み解く鍵を「狂」と「狷」としてみよう。李徴は「性、狷介」にして、「狂疾」によって異物となり果てたという。「狂」は自らの枠を外れて広がっていく力、「狷」は自らを枠に閉じ籠め、堅守しようとする力である。 容易に人と相容れない狷介さと、自ら恃むところ厚く、死後百年に名を残そうとする(今生を生きるに満足せず!)李徴は、まさに「狂」と「狷」という二つのベクトルによって突き動かされていく。自らの「狷」に従って人との交わりを絶ち、自らの「狂」に従ってひたすら詩作にふける。 しかし、狂おしくも過剰なまでの情動は、李徴の制御し得るところではなく、李徴本人を溢れ出ては空転し、やがては破滅の淵へと導く。 それでは「狂」と「狷」とは、己の人生を狂わせるまでに凶暴で、取るに足りない、人間性として否定すべき性格の偏りなのだろうか。 孔子は「狂」と「狷」をどうみていたのだろうか。『論語』には次のようにある。 「子曰く、中行を得て之に與せずんば、必ずや狂狷か。狂者は進みて取り、狷者は為さざる所有るなり。」(「子路」) (孔子言う、わしは中道を行いうる人を得て、これと事をともにしたいと思うが、中庸の徳を備え得た人物は、なかなか得られないとすれば、わしはやむなく狂者・狷者を得て、これと事をともにしたい。狂者は進んで善を行おうとする気魄があり、狷者は断固として不善をなさぬという節操があるからである。) /(『新釈漢文大系「論語」』明治書院) 中庸を理想とする孔子は、しかし「狂狷」を愛しもしていた。それは孔子の深い人間理解と愛情から発しているように思われる。 「狷」は偏屈にして不本意な生を拒否しようとする潔癖であり、「狂」は放埒にして自らの極限にまでも登りつめようとする生の衝動である。 『山月記』は人間の性としての「狂狷」に対する愛おしみから始まっている。そう思ったとき、私は『山月記』が読めたと思ったのである。 二 「懼れ」と「嘆き」 「憤悶」と「慙恚」に苦しむ李徴は己の運命と出会う。「闇の中からしきりに自分を招く」声を追って走り出した李徴は虎への変身をとげる。 人間であったとき、李徴は「怏々として」楽しまなかったという。「怏」とは頭を押さえつけられて憂鬱なさまである。 「何か身体じゅうに力が充ち満ちたような」感覚は、しかし、抑圧された自我が何かのきっかけで解放されていく、その躍動感にどこか似てはいないだろうか。 孤高にして誇り高く、人を近づけない強烈な自我を持て余しているかの李徴の化身として、虎はいかにもふさわしい。 だが、むろん李徴は虎に昇華したのではなかった。李徴の「懼れ」とは、己が出会った運命が、あまねく生きとし生けるものたちに背負わされた「さだめ」であることの、痛烈な発見であったのである。 「わからぬ。全く何事も我々にはわからぬ。 理由もわからずに押しつけられたものをおとなしく受け取って、理由もわからずにいきてゆくのが、我々生き物のさだめだ。」 と李徴が語ったとき、人虎譚の怪異を超えて、誰しもが人間存在の真理の一面を言い当てられたような思いになりはしなかっただろうか。 「好事魔多し」ということわざがある。順調に事が運びそうなときに、思いがけず障害物が発生する、の意であるが、例えば人生の働き盛りに不意の病に襲われたりしたとき、私たちは人生の不条理を嘆いたりする。 だが、そもそも自分が生きている時代も土地も、自分が選んで生まれ出てきたわけではない。だとすれば、人間存在の不条理性とは、何も不当な運命に立ち至ったときばかりでなく、この世に生を受けた瞬間から始まるものなのだ。 そして、李徴はただそのようにして、人間の真実と出会ったことに止まったのではない。 かつて実存主義者たちは、人間はそのように世界に「投げ出された」存在である、しかし、だからこそ、人間は未来に向かって自己を「投企」していく存在なのだ、とした。 人間はその不条理を抱えつつ、一回限りの生を生きるしかないのだという真理を通して、李徴は己の「嘆き」と出会うのである。 三 「慟哭」と「咆哮」 李徴の「嘆き」とはもちろん「胸を灼かれるような悔い」に他ならない。李徴は己の「臆病な自尊心」を悔い、「尊大な羞恥心」を悔いる。 しかし、私は「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」の中に李徴の人格的な欠陥をみようとは思わない。むしろ、鼻持ちならぬ自尊心の固まりのようであったかの李徴の内心に、感じやすく、傷つきやすい、詩人の魂が潜んでいたことをみたいと思う。 李徴は「俗悪な大官」の前に膝を屈することを潔しとしなかった。俗世の立身出世、そのための権謀うずまく官僚社会を嫌い、故山に帰臥しようとする李徴に、超俗に生きようとする志操をみることは出来ないだろうか。 もちろん、自分の詩集が「長安風流人士の机の上に置かれているさま」を夢に見る李徴に、ある種の野心とエリート意識がなかったとはいえない。しかし、そこに名声に対する欲望をだけみようとすることは、却って解釈する側の通俗性を露呈することになるだろう。虎となり果ててまでも、「一部なりとも後代に伝えないでは、死んでも死にきれない」ほどの執着は、単なる功名心からは生まれようもない。 だが、「人間であったとき、おれの傷つきやすい内心をだれも理解してくれなかった」と告白する李徴は、その志と野望を貫徹するにはあまりにも繊細であり過ぎた。 李徴のいう「卑怯な危惧」や「刻苦をいとう怠惰」を誰が責めることができるというのだろうか。この卑怯者め!この怠け者め!は李徴が己を責め苛む声ではあり得ても、他からの断罪ではあり得まい。 それは、もう取り返しようもない、失われた己の人生に対する愛惜の念から発するものには違いあるまい。しかしそれは、己一人を恃み、自らの運命に立ち向かった者のみに許された嘆きの言葉であった。 李徴の嘆きはその存在の深部から発する「慟哭」となり、李徴の怒りはその存在を揺るがす「咆哮」となった。 四 アイロニー アイロニー(irony)はシュレーゲルを中心とするドイツロマン派の用語であった(ドイツ語読みではイロニーとなる)。 私が大学時代に選択したゼミは日本浪曼派をとりあげたものだった。今にして思えば、なぜあんな厄介なものに手を染めてしまったのかとの思いが残るが、日本浪曼派はドイツロマン派にもっとも強く影響されたとされているから、アイロニーとは何かについてもよく考えた。 しかし、正直に告白すれば、「一方で対象に没入しつつ、他方でそれに距離をとって皮肉に見ることにより、自我をあらゆる制約から解放する態度」などとあっても、少しも理解できなかった。 私がアイロニーという言葉を多少とも理解できたと思ったのは、つい最近のことである。それは、村上春樹の『海辺のカフカ』を読んでいたときのことである。 「人が運命を選ぶのではなく、運命が人を選ぶ。それがギリシャ悲劇の根本にある世界観だ。そしてその悲劇性は アリストテレスが定義していることだけど 皮肉なことに当事者の欠点によってというよりは、むしろ美点を梃子にしてもたらされる。」 「人はその欠点によってではなく、その美質によってより大きな悲劇の中にひきずりこまれていく。」 「オイディプス王の場合、怠惰とか愚鈍さによってではなく、その勇敢さと正直さによってまさに彼の悲劇名もたらされる。そこに不可避的にアイロニーが生まれる。」 「しかしながらアイロニーが人を深め、大きくする。それがより高い次元の救いへの入口になる。そこに普遍的な希望を見いだすこともできる。」(村上春樹『海辺のカフカ』より) このアイロニーを『山月記』のキーワードとすることは可能か。 李徴は「才の非凡」なるが故に、賤吏に甘んじ得ず、詩人を志した。孤高であったが故に、師につき、詩友と交わることが出来なかった。人一倍傷つきやすく、繊細な心の持ち主であったから、破滅への道を歩まざるを得なかった。そして果敢にも己の運命に立ち向かったからこそ、そのたたかいに挫折したとき、虎となり果てた。 アイロニーは、しかし、『山月記』一編を読み解く鍵であるばかりではあるまい。アイロニーでしか描くことが出来ない人間の運命、その運命に翻弄される人間存在のありさま、希望と落胆、痛恨と歓喜、そしてその一瞬の生命の輝き…。文学の存在理由とはまさしくその一点に尽きるのではないだろうか。 五 已矣乎(やんぬるかな) 「已んぬるかな 形を宇内に寓すること復た幾時ぞ」 (陶淵明『帰去来辞』) 『山月記』は青春文学である、というのが近年になって私がたどり着いた境地である。 若い頃はもっぱら「人間存在の不条理性」がキーワードだった。人間存在の不安定さ、そこに生じる不安…。それらを指摘すれば『山月記』の読解は終わりだった。 しかし、そんなことはむしろごく当然のことであって、何もことさらに指摘するまでもないと思うようになったとき、私はそのような読み方ではまったく不足していることを思い知った。 人間はたった一度きりの人生を生きる、そしてその人生はいつ断ち切られるものであるかも分からない(形を宇内に寓すること復た幾時ぞ!)。だとすれば、「人間の価値は何を為したかではなく、何を為そうとしたかである」といったある作家の警句は、誰しもが座右としなくてはならない言葉ではないのか。 李徴は己の野望に生きようとした。それが挫折に終わったとしても、どうして李徴の生が無価値であったといえよう。 「人々はもはや、事の奇異を忘れ、粛然として、この詩人の薄幸を嘆じた。」 古代ギリシャ悲劇の脇役達は、実は観客に代わって悲劇の英雄を讃え、その不運を悲しむものであるという。この一節はそれに通じてはいまいか。 『山月記』は、天才にあこがれ、己の命を燃焼し尽くすものを求めて止まなかった李徴を讃え、その青春の終わりを愛惜するために描かれたのだと思うのである。 六 李徴の家族 李徴は自己中心主義者であったのだろうか。彼は、「妻子の衣食のためについに節を屈して」詩人の道を断念し、自らの狂気が「妻子を苦しめ」たことを痛切に後悔し、旧友との別れに当たって「我が妻子」の身の上を哀願する。 「飢え凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業のほうを気にかけているような 男だから、こんな獣に身を堕とすのだ。」 私は、このような逆説をまともに受け取っていては、小説はとうてい読めないものと思っている。(作者自身が「自嘲的な調子」でと断っているではないか!) 文学は倫理学ではない。倫理学が「人はかくあるべし」を述べるならば、文学は「人はかくあるしかなかった」を描くのである。 文学を道徳的解釈から解き放ってみれば、むしろ李徴は不器用にも己が妻子を愛し、その行く末を案ずる心優しき一面を持ち合わせていたと知れるのである。 そして、そのように読み取ったとき、初めて李徴の苦しみが人間の苦悩であり、李徴が求めて止まなかったものが人間の希望であることが理解できるのである。 「人間は人間の働きをしてみて、初めて人間 の苦悩を知る。」(サン=テグジュペリ) のだから。
by yassall
| 2011-03-03 12:58
| 国語・国文
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