『山月記』再び
---「語り」そして「共感」 三年前、「山月記」を授業でをとりあげるのもこれで最後というとき、私は「『山月記』小論」を書きました。それは、私にとっての「山月記」読解の集大成のつもりでした。 私はプリントをその年に担当した生徒たちと、たまたまその年に職場を共にすることになった国語科を中心とする何人かの先生方に配布しました。そして、それはそれきりでよいと思ったのです。 それが今回、はからずも教壇に復帰する機会を得て、私は補論を試みようと思い立ちました。 * 前回はアイロニーをキーワードに小論を試みました。今回のキーワードは「語り」と「共感」です。ハイデガーは言語について次のように述べています。 「言語の実存論的・存在論的基礎は語りである。」(『存在と時間』) ハイデガーと言えば「世界内存在」ですが、世界の「内」に住まうということは、世界の内で、他の人々と「共」にある(=存在)ということであり、人間がそのような「共存在」であることで初めて「語り」が可能になるというのです。「世界内存在」は決して単独者ではありません。現れ出た「場」の「内」にある「内存在」であると同時に、「共存在」であることで言語は成立しているのです。「うう、寒い!」と発話したとき、それはただの一人言ではなく、そばに人がいるいないにかかわらず、誰かに共感を求めているのです。 * 「山月記」では、袁傪との思いがけない再会から李徴の「語り」が始まります。 授業では「袁傪の役割は何だろうか」という発問をしました。 小説の中で袁傪は、ときに李徴に対する批評家であり、詩の伝録と残された家族の庇護を約束することで李徴の心残りを解消する役目を担うのですが、全体としてみれば、ほとんどの場面で一方的な聞き手として終始しています。(李徴に対するささやかな批評ですら、直接的な言葉として発せられることはありません。) それでは袁傪は、あたかもボイスレコーダーの前に据え付けられたマイクのごとき存在であるのか、といえば、決してそうではないと思うのです。 「虎は、あわや袁傪に躍りかかるかと見えたが、たちまち身を翻して、もとの草むらに隠れた。草むらの中から人間の声で「危ないところだった。」と繰り返しつぶやくのが聞こえた。」 袁傪に襲いかかろうとした瞬間に、李徴の心の中で「人間」が目覚めます。袁傪はまず、李徴に自らが「共存在」であることの自覚を激しく促す役割を果たしているのです。そして、それまで誰にも語られることのなかった李徴の「物語」が始まります。 * 対立と葛藤は物語の必須の要素です。「山月記」にも、栄光と挫折、野心と処世、才知と天運、熱狂と沈着、矜恃と慚愧、人間性と獣性といった対立が幾重にも折り重ねられ、読む者をその世界に引き込んでいきます。 そして、それまで「狂悖」の振る舞いに隠されて来た李徴の「傷つきやすい内心」が明かされることで、これもまた物語の成立のための必須要素である、クライマックスを迎えます。 「虎は、すでに白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮したかと思うと、また、もとの草むらに躍り入って、再びその姿を見なかった。」 この後、李徴はどうしたのでしょうか。その後も虎となって獲物を捕らえては裂き喰らい、また旅人に襲いかかっては殺戮を繰り返したのでしょうか。私にはそうは思えません。そのような想像を巡らすことは困難です。 物語が完結するということはどういうことか。李徴の苦悩もここに完結し、永遠の安息を迎えたのでなければならない。私はそう思うのです。 * 人間はなぜ「物語」を語るのでしょうか。柳田邦男はユングの所説を引きながら、次のように述べています。 「科学者は、因果律という狭い枠組みの中で、出来事の総合関係を見るのに対し、ユングは出来事を全体論的(ホリスティック)に見ようとした。そういう遊具の発想を象徴的に示すのは、コンステレーション(星座)という見方である。天にきらめく無数の星は、ただ見ているだけでは何の意味も持たないが、古代人はいくつかの星をつないで、双子座やオリオン座や獅子座などを描いて、物語を創り、一つ一つの星に意味を持たせた。ユングは、それと同じように、人間が人生において出会う様々な出来事を、それぞれに意味あることとしてつなぎ合わせ、その人なりの物語を創るという方法で、精神的に葛藤を起こしている人の心の中を整理して治療に役立てた。」(「『死の医学』への日記」) ユングのややもすると神秘的・神話的な方法が、今日の精神医学にどの程度通用しているのかは知りません。 ただ、文学とは何か、という問いに対するひとつの回答たり得ているのではないか、と思い、私はこの一節をノートに書き写しておいたのでした。 李徴の人生は狂わされた人生、あちこちと衝突しては、躓(つまず)き、挫折し、暴走の果てに破滅していった人生、一言でいえば無意味に終わってしまった人生でした。 李徴の「語り」はその李徴の人生にもう一度意味を見いだし、「物語」という秩序を与えたのです。もちろん、それは悲劇という「物語」においてですが…。 「人々はもはや、事の奇異を忘れ、粛然として、この詩人の薄幸を嘆じた。」 前のときも引用したこの一節を新たな目で見いだしたとき、私は本当に身震いするような思いにとらわれたのでした。それは、あたかも一幕の古代劇を目の当たりにしているような思いでした。 * もう一度「共存在」の問題に立ち返ってみましょう。 「語り」とは決して人から人へ「伝わる」ということのみに止まるのではない、というのがここでの趣旨です。 「語り」が「共存在」という場面で行われるのであれば、そこには必ず「共感」が伴っているはずだ、と私は考えたのです。 「嗤ってくれ。詩人になりそこなって虎になった哀れな男を。(袁傪は昔の青年李徴の自嘲癖を思い出しながら、哀しく聞いていた。)」 李徴の身をよじるほどの哀切な訴えの奥に、袁傪は悲しい自嘲癖を感じ取ります。 袁傪は、もしかすると李徴自身も気づかなかった、隠された心の窓を開けることの出来る存在であったのかも知れません。そしてそのとき、袁傪自身もまた奥深いところで李徴の嘆きに共振しているのです。 なぜ袁傪との再会から李徴の「語り」が始まるのか、それは袁傪こそが李徴に共鳴し「共感」し得る存在であったからではないのか、ということなのです。そして、袁傪との永遠の別れをもって、「物語」も結末を迎えるのです。 * 文学とは何か、文学とはこのように魂を激しく共鳴させるもの、そして文学を読む力とはまさしく「共感」する力である…。この認識が、今回私が「山月記」の再論を試みた動機です。 「山月記」は青春文学である、と前に書きました。青春時代のまっただ中にある諸君の心を「山月記」は揺さぶるはずだし、そうあって欲しいと私は思っています。 人間はただ一度の人生を生きるもの、その人生の入口に初めて立った者たちに、「山月記」は人間の運命をかいま見させ、なおかつ、その運命に立ち向かう勇気を奮い起こさせる文学なのです。「よし、ならば私も生きてやるぞ。」と。 * (もしや将来、自分が絶望の淵に立つことがあっても、きっとこの小説が救いになってくれるぞ、と。) 補論の補足 (1)ハイデガーの『存在と時間』という書物の存在を知ったのは、私が高校生のころでした。 それ以来、ずっと気になっているのですが、とても私の歯の立つしろものではありませんでした。ですから私のハイデガー理解はほぼ様々な人々による解説書によっています。 そして、それらの解説書が「内存在」の本質的契機としてあげているのが、①情状性、②了解、③語りの三つです。 このうち、「情状性」についてほんの少し分かりかけたというのも、今回の教壇への復帰がきっかけでした。それは西研の「考える楽しみ」を再読したことによるものでした。(結局、私は途中出場でしたので、授業で「考える楽しみ」をとりあげることはなかったのですが。) さて、西研は「考える」ことの出発点について次のように書いています。 「人が物事を深く考え始めるのは、多くは『不安』からだ。それまでの生き方が息苦しく感 じられてきて、しだいに何を信じてよいかわからなくなったりしたときのように。」 竹田青嗣は「情状性」は「気分」と読み替えてよいと言っています。(『ハイデガー入門』)そうするとぐっと分かりやすくなってきます。 つまり、私たちが何かの拍子に、ある「気分」に襲われる。それは、そわそわ感や、いらいら感だったりする。ときには空しさや嘆きのような感情と共にあるかも知れない。… そんなときは、私たちは自分をとりまく世界や、あるいは自分自身に対して何らかの違和感を感じます。そして、違和感とは、その対象に対して感じられる距離感でもあります。 私は、きっとこの距離感こそが対象を対象化することを可能にする(対象が自分自身であれば、即自存在を離れて、対自存在であることを可能にする)条件をもたらすものであるように思うのです。 ※ここは対象化という方法によるのではなく、瞬時に・全体をとらえる・直観という方法によっている、とみるべきかも知れません。しかし、直観のおとずれは瞬間であったとしても、やはりそれは「現存在」の場面で、平たくいえば「経験」を離れては成り立ち得ないものであると考えますし、また直観が得られた後も、観察され、検証されていかざるを得ないものであると考えます。 西研はそうした「自分の中の感覚」、「自分の内側から聞こえてきた問いかけ」に耳を澄ますことからしか出発することは出来ず、それを脇に置いて答えを見つけようとしてはならないと述べています。 西研はニーチェ研究から始まった人だそうで、ハイデガーと直接結びつくかどうかは分かりませんが、私はなぜハイデガーが「気分」の問題から哲学を始めようとしたのか、その理由が分かったような気がしました。 また、ハイデガーは自らは「私は実存主義者ではない」としたそうですが、後年、実存主義者たちがその哲学的起源をハイデガーに求めようとした理由も分かったように思ったのです。 最初の出発点を、人間の「理性」にではなく、「気分」に置こうというのは、「現」(今ここに・現れて・存在している)に生きている実存から問題を考えようとする態度に他ならないからです。 (2)ハイデガーには難問があります。それはハイデガーがナチスへの加担者であったという事実です。その汚点を越えた哲学的業績があるのだという立場に立つ人と、その両者は思想的に固く結びついているのだという立場に立つ人との論争は、いまだに決着がついていないようなのです。 それゆえ、私自身がこうしてハイデガーを教室にもちこむことに、実はためらいを持っています。 しかし、そうした問題点の存在をきちんと指摘した上で、それもまた、これからの思索を深めていくための材料としていきたいと思うのです。 最近、ヨーロッパでは極左と極右の台頭が著しいといわれています。私からすると左の方は極左と呼ぶほどのものではないのですが、右の方は明らかにネオ・ナチズムとしての傾向をもち、また暴力的な要素も強まっているように見えます。 時代閉塞の状況下では、こうした傾向は世界のどこででも、つまり日本においても出現する可能性があります。 このとき誰もが、私たち自身もが、ナチズムにとらえられ、その加担者となる危険性を有していることを、私たちは学び、そして警戒しなくてはならないと思います。 (3) 最後に。人間にとって「物語」るとは何か、について考えて来ました。人間は「物語」によって自分の人生に意味を与える存在なのだ、と。だが、矛盾を覚悟するなら、少なくともそんなに簡単には、自分を「物語」にしてはならないのだ、と私は言わなくてはならないのです。 「山月記」にもどれば、李徴にもまた、誰からも理解されない「傷つきやすい内心」を抱えて沈黙を守り続けた半生がありました。 「自己」は語るに値するのか否か、その問いの前に立ったときの緊張感なくして、ただ冗漫に自己を語ることがあったら、(もう一度ハイデガーの言葉を借りるなら)、それもまた「頽落(たいらく)」でしかないと思うのです。私はあるときからそのように考えて来ました。 2012.6
by yassall
| 2011-03-02 12:54
| 国語・国文
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Comments(2)
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yassall at 2013-01-21 15:17
この「『山月記』再び」のみ退職後に書いたものですが、文中で引用した『日本語の哲学へ』の著者である長谷川三千子氏が日本会議の代表委員であることを後に知りました。私と日本会議では思想的な立場を大きく異にしており、また氏が他で発言なさっていることにも明らかに疑問があり、そのままでよいか悩みましたが、改稿することなく掲載しました。この著書については今もって好著であると思っています。なお、氏は野上弥生子の孫にあたることも後に知りました。
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yassall at 2014-09-07 15:24
長谷川氏について前述のようなコメントをしましたが、最近の日本会議のメンバー、特に国会議員である人々の発言はとうてい容認しがたいものがあります。長谷川氏の著書に対する敬意はかわらないものの、自分の文章に引用することに違和を感じ、下記部分を削除しました。
ずいぶん難しい言い方ですが、この部分について長谷川三千子は次のように解説しています。 「これは単に、話す相手がいなければ語ることができない、といった単純な話ではない。そもそも花を「花」と言い、鳥を「鳥」と言う。そんな風にして言葉を発することが可能であること自体が、『共存在』という在り方に支えられている、ということなのである。」 (『日本語の哲学へ』)
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