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今日の「読書指導」と学校図書館(試論)

今日の「読書指導」と学校図書館

1.はじめに
 読書指導は,利用指導と並んで,学校図書館教育の二本柱とされてきた。戦後の学校図書館教育の指針を示したとされる『学校図書館基準』に次のような定義がある。

「学校図書館はまた指導機関である。問題解決のために図書館を有効に利用する方法を会得させ,読書指導によって読書の習慣づけ・生活化を教え,図書館利用を通して社会的・民主的生活態度を経験させる。」/(『学校図書館基準』1959年)

 児童・生徒に学習者としての主体を置き,自学能力の育成を重視する新しい教育思想から,戦後の学校図書館への要求と運動が起こった。
 『基準』が,まず「学校図書館は奉仕機関である」と述べ,その後に「また指導機関である」と定義し,「指導」の内容を生徒(学習者)自らの「問題解決」のための図書館の利用法とし,読書指導を「習慣づけ・生活化」と限定したところに,戦後学校図書館教育の面目がある。学校図書館は・朝鮮戦争以後の教育の民主化の逆コースの後にも,教科書中心主義・偏差値一辺倒の教育とは異なる教育のあり方をめざす拠点のひとつとなってきた。
 読書指導も,戦前型の思想善導・国民教化の観点からではなく,児童・生徒の豊かな人格形成をめざすものとして理論化され,一定の実践が蓄積されてきた。
 ところで,近年この読書指導に対する見直しの議論が高まっている。ここでは,そうした議論の特徴点がどこにあるのか,今日もし新しい「読書指導論」を打ち立てる必要がせまられているとしたら,問題をどのように整理しておいたらよいか,について考察したい。

2.何が問題になっているか(Ⅰ)
 学校図書館にとって,なぜ「読書」が今日的なテーマであるのか。「読書指導」のあり方が問い直されようとしているきっかけは二つ,ないしは三つ,あるように思われる。
 これまで読書指導というと,どうしても「人間形成のための読書」という教育的側面の強いものであった。そのとらえ方は,むしろ子どもの知的・心的発達の「手段としての」読書だった。

 「人間形成のために読書する態度・知識・枝術・能力・興味・習慣等の形成・開発の指導」/(滑川道夫「読書指導とは何か」『現代読書指導事典』1967年)
 「マスメディアの一つであり,また活字に組まれた文化財の一つとしての書物を,自らの思想と行動を形成していくための,学校や家庭での指導」/(勝田守一編『岩波小辞典・教育』1956年)


 などの定義にそれは示されている。
 そうした教育的見地からではなく,子どもの持っ個別的な読書権の立場から読書をとらえ直そうとするのが一つであり,「自由で楽しい読書」がそのキー・ワードである。

 「『自由で楽しい読書』のためのいろんな活動(中略)…,図書館の機能が資料提供であるということで,資料提供に徹して生徒の読みたいものを提供していったとき,いろいろ見えてくるものがある。」/(高橋恵美子『図書館よ,ひらけ!』1990年)

 こうした問題提起と実践が現在少なくない学校図書館でなされ,学校図書館を児童・生徒の生活に密着化させる上で一定の成果をあげつつある。図書館にどんな本を備えるかという資料組織において,教材という視点から選定がなされるのか,純粋に子どもの興味・関心・欲求から選定かなされるのか,といった問題にもかかわる提起である。

3.何が問題になっているか(Ⅱ)
 もう一つは,「主体的に学習する能力の育成」と定義される利用指導との二本柱とされながら,読書指導(それも,ややもすると押しつけ的読書感想文指導)=図書館教育でこと足れり,あるいは手いっぱいという現状への指摘である。

 「学校図書館といえば読書指導であり,読書感想文であった。読書指導も,必ずしも日常的に開館し機能している図書館を必要としない集団読書指導が主流であった。(中略)学校図書館に『人』がいなかったため,(中略),学校図書館は主として国語科の教師によって運営されてきた。
 読書感想文コンクールは,そのような事情を背景に生じたものであるだろう。読書感想文の審査は,まず読んだ本を正確に読みとっているか,読解力を見次に,その感想を的確に表現しているか,作文能力をみるものであった。その意味では,あくまで国語科的発想だったのである。」/(同前)

 これもまた学校図書館の現状と,これをなおざりにしてきた教育行政に対する鋭い批判であり,学校図書館における専門職員の配置,そして子どもの学習権の立場に立った教育改革の課題に至る,重い提起である。
 そして,以上の二点の,主として学校図書館のあり方に関わる問題とは別に,今日「読書」を問題として取りあげるとき,より本質的で根源的な問題として,現代の青少年をとりまく読書状況がある。

 「塾通い,習い事・スポーツクラブなどが子どもの自由な時間をうばっていることがあります。(中略)比較的本の好きだった子どもも,ゆっくり読書を楽しむゆとりをもちにくくさせられている状況が一般化しています。」/(広瀬恒子『子どもの読書 いまこれから』1992年)

 つまり,子どもの生育歴の中での「読書」の位置,高校生にとっての生活と「読書」との関連が変化してしまっているのではないか,前提としてよいスタートラインが変わってしまっているのではないか,という問題である。

4.「考える読書」は全否定されたか
 人間にとって,あるいは文化の中で,読書が果たす機能およびその占める位置は,その歴史的発展の各段階において変化するのではないか,という仮説を立ててみたい。
 伝統志向型の社会においては,読書は,その書かれてあるところのものを,そのままそっくり自分の中に取り入れることが目的とされる。論語の素読などを例とすることができるだろう。いわば,過去からの読書である。
 今日の「読書論」の一方の傾向として「情報処理の技術としての読書」がある。情報化社会にあって重視されるのは,情報処理の手段としての読書である。書物は,その書かれてあるとおりのところに価値があるのではなく,新しい情報生産のための素材(データ・知識・情報)としてのみ価値を有するとされる。こちらは,未来からの読書ということになるだろうか。(※)
(※もっとも,例に引いた論語にしてから,「学ンデ思ハザレバ,則チ岡シ。思ヒテ学バザレバ,則チ殆シ。」と述べているくらいであるから,こうした転移は通時的におこるのではなく,共時的な現象であるというべきかも知れない。)
 さて,伝統志向型の社会から脱した近代社会において中心的価値を有するものは,伝統ではなく,内省能力と自我意識をもった個人である。そこで,読書は,個人の内面化を支える位置を占めることになる。
 ここで「人格形成としての読書」としての「考える読書」を検証してみよう。戦後の「読書指導」論の到達である「考える読書」とは,言葉・思想を自分の中に取り入れるだけではなく,これを内面化し,自我意識を形成するための方法であり,理念であったと思う。先の問題提起を真撃に受けとめつつも,とりわけ自我の形成期にあたる青少年にとって「考える読書」はいまだその意義を失ってはいないと思われるし,同様の理由から「情報処理の技術としての読書」論にも批判的にならざるを得ない。

5.「読書指導」のこれから-「問題」の整理の試み
 「指導」ということばにすべての問題の根源があるのだろうか,と考えてしまうことがある。「読書指導」といわれると,教師の側では,なにどとかを指導しなくてはならない気がしてくる。子どもの読書権を大切に考える人々は,「指導」ということばに押しつけのにおいを感じとってしまう,というふうに…。
 「読書指導」の用語が包含している概念を明確にする努力が必要なのではないか。読書指導にたずさわろうとするものも,これを批判しようとするものも,実はそこのところを疎かにしてきてしまったように思う。
 読書が個別的な営みであるというのは,読書が個々の人格形成に関わるという理由をもってしてまさにそのとおりである。しかし,読書は個人にあっては学習過程(※)だが,同時に社会過程でもあるという側面をもつことを見逃してはならない。読書において個人が出会うものは,それがどのようなレベルにあるにせよ,言語によって記録された文化財なのである。
(※ここでいう学習とは,目的としての学習のみでなく,結果としての学習を含む。)
 また,読書活動は読書能力によって支えられるが,それは知覚・理解・感受・同化・補強・批判・活用に分析されよう。これらの能力がなんの訓練もなく獲得されるとは考えられない。そうかといって,感受(感動)や批判精神の獲得が注入によっておこなわれるはずはあり得ないし,またそうあってはならないと思う。
 読書は,読み手(読者)と読書材(図書資料),および両者の結び付きとしての読書過程があってはじめて成立する。読書過程の全容を明らかにするには,欲求・動機づけ,あるいは読書材へのアクセスにはじまる見取り図が必要となろう。読書指導といっても,それは読み方指導である場合もあれば,読み物指導である場合もあり,読者指導である場合もあろう。
 指導は集団的になされる場合もあれば,個別的である場合もあり,ディスカッションという形態を取ることもあるだろう。系統的・計画的な指導と,児童・生徒を主体とした日常的な学習活動の中での個別的・偶発的・側面的援助が複合されて効果を発揮することもあるのではないだろうか。教室で図書館利用の動機づけがなされ,図書館で読書指導・案内がなされるというスタイルがあり得てよいのではないか,と考える。
 読書指導がどうあるべきで,何をすべきで,何をしてはいけないか,どういう場面で行われるべきかなど,今後の研究と実践に残された課題は多い。求められているのは「今」をこえる力である。今日の「読書指導」をめぐる論争を真に実りあるものとするためにも,まず原点に立ち返ってみる必要があるのではないだろうか。それはいかにして私たちが豊かな読書生活を獲得するかの課題である。

1993.11
by yassall | 2011-03-30 12:38 | 学校図書館 | Trackback | Comments(0)
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