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葬式仏教

 葬式仏教というと日本仏教の堕落の源のようにいわれているし、実際お寺から「当山でない宗派によって葬儀を行った場合、納骨をお断りする場合があります」などと書かれた寺報が来たりすると、ああこれが檀家制度というやつか、と恐れ入ってしまったりする。だが、その認識を改めなければならないかも知れない、と近ごろ考えるようになった。
 柳田国男は「仏法が日本国民の生活に及ぼした恩沢が、もし唯一あったとするならば、それは我々に死者を愛することを教へた点である」(『北国の春』)と述べたとのことである。日本の原信仰によれば死は穢れであり、神道はこれを扱いきれなかった。その死者たちの弔いを引き受けたところから仏教が日本で広まっていったと、そういえばどこかで読んだことがある。
 しかしながら、日本に仏教が伝来してきた当初からそうだったというのではなく、天皇から得度を受け、国家的な祈祷に携わった官僧たちは、長く死穢をきらう傾向にあったらしい。南都六宗は今でも檀家のための墓地をもたず、葬儀もあげないとのことだ。
 それがいつ頃から変化していくかというと、平安末期から鎌倉時代にかけてのことであるらしい。それは末法思想や浄土教の流行という仏教史上の理由ももちろんあるのだろうが、そればかりではないようだ。
 『方丈記』に養和の飢饉に際して、大量の餓死者のために、仁和寺の隆暁法印が死者を見つけるたびにその額に「阿」の字を書いて歩いた、という記事がある。

「仁和寺に、慈尊院の大藏卿隆曉法印といふ人、かくしつゝ、かずしらず死ぬることをかなしみて、ひじりをあまたかたらひつゝ、その死首の見ゆるごとに、額に阿字を書きて、縁をむすばしむるわざをなむせられける。」

 そして、その人数を知ろうとして2か月間にわたって数えたところ、「すべて四萬二千三百あまり」に達したということだ。
 平安末期から鎌倉時代にかけてといえば、地震や大風、日照りといった天災のみならず、戦乱にあけくれた時代であり、それにともなって人々は膨大な死者に直面させられることになっただろう。その死屍累々たる光景を前にして、仏教者たちになにがしかの行動への自覚が生まれていったのではないだろうか。
 仁和寺は真言宗、天皇家につながる門跡寺院であるが、そうした自覚を行動に移していったのは多くは遁世僧と呼ばれる人たちであったのだろう。
 遁世僧とは、出自が問われ、出世が目的化し、いわば第二の俗世界になってしまった官僧の世界から離脱し、黒染めの袈裟を纏って仏道修行に努めようとした私僧のことである。鎌倉仏教といえば、法然、親鸞、栄西、道元、日蓮、一遍といった名前が浮かぶのであるが、そうした新仏教のみならず、律僧や五山派禅寺といった旧仏教の改革派も大きな影響力を有していたとのことである。
 そのように考えると、葬式仏教こそ日本仏教の革命であり、仏教が民衆の救済に向き合おうとしたところで開かれた扉であり、それはもちろん死者を弔うだけでなく、絶望のうちに生きる生者たちと共に救済の光を見いだそうとする模索であったに違いない。

〈参考文献〉
松尾剛次『葬式仏教の誕生』平凡社新書
池上彰『池上彰と考える、仏教って何ですか?』飛鳥新社
辺見庸『瓦礫の中から言葉を』NHK出版新書
堀田善衛『方丈記私記』
by yassall | 2012-12-23 13:33 | 雑感 | Trackback | Comments(0)
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