人気ブログランキング |

憲法9条を守ろう!原発から撤退しよう!

憲法改悪反対!原発撤退!これだけは巻頭から外すわけにはいかない!(その理由は口上で)
憲法9条を守ろう!原発から撤退しよう!_c0252688_16133883.jpg
 ご案内
 たいがいが趣味(夏炉冬扇?)のブログですが、ときに真面目?になって、つい一言もの申したり、語ったり(竹頭木屑?)しています。多少とも関わりのあった「学校図書館」や「高校演劇」についても応援していきたいとカテゴリを設けました。初心を忘れず、ということで「国語・国文」を起こしましたが、あまり更新できずにいます。他は、最近何してる?は「日誌」に、何か考えてる?は「雑感」に、という塩梅です。
 あ、写真をご覧になっていただけるかたは主に「風景・散歩」のカテゴリーに!

この一枚

 奄美・大島紬村にて(12月4日) G8+12-60mm 

# by yassall | 2021-12-31 23:59 | お知らせ | Trackback | Comments(0)

ハプスブルグ展

ハプスブルグ展_c0252688_16580994.jpg
 23日、折悪しく雨となったが、ハプスブルグ展を見に上野まで出かけて来た。いつもながら開催期間も終了ぎりぎりだった。
 中野京子の『ハプスブルグ家12の物語』(光文社新書)によれば一族の源流はスイスにあり、この地に起こった豪族が建てたハービヒッブルグ城(Habicht「大鷹」Burg「城砦」)からハプスブルグを名乗るようになったらしい。一族の躍進は13世紀、ルドルフ一世が選帝侯らによって神聖ローマ皇帝に推挙されてからだ。ルドルフの戴冠に異議を唱えて以来、対立を続けてきたボヘミアをマルヒフェルトの戦いで打ち破り、やがてオーストリアに本拠を移していく。家訓「戦争は他の者にまかせておくがいい、幸いなるかなオーストリアよ、汝は結婚すべし」は有名であるが、ハプスブルグが戦争と無縁だったわけではない。後年、娘マリー・アントワネットをルイ一六世に嫁がせたマリア・テレジアにしても、王位継承にあたっては周辺国の干渉を受け、オーストリア継承戦争を戦っている。
 「汝は結婚すべし」=政略結婚の最たるものはマクシミリアン一世がしかけたスペイン王家との二重結婚だろう。二重というのは息子フィリップをスペイン王女ファナと、娘マルガレーテをスペイン王子ファンと、どちらかの家系が断然したときは残された方が領地を相続するとの約束の下に結ばせたことによる。結果、スペイン王子ファンは結婚式の半年後に突然死、フィリップとファナには二男四女が授かったことでスペインはハプスブルグに渡ることになった(フィリップも9年後に突然死)。ここからハプスブルグにはオーストリア・ハプスブルグとスペイン・ハプスブルグの2系統が誕生することになった。
 いつどこの世でも王族たち(近代になってからはブルジョワたち)は美術品や文化財のコレクションにいそしむらしい。ハプスブルグ家によるコレクションは現在ウィーン美術史美術館、プラド美術館を中心に収蔵されている。どちらかというとベラスケスを宮廷画家として抱えたスペイン・ハプスブルグの方が美術的な審美眼にすぐれ、ウィーンでは美術よりも音楽に秀でていたといわれる。今回はオーストリアと日本の国交樹立150周年を記念しての開催ということでウィーン美術史美術館の収蔵品が海を越えてきたらしい。とはいえ、両家には密接な交流があったわけで、一昨年のプラド美術館展より点数は少なかったが、肖像画の交換が盛んに行われたことからベラスケスはレベルの高いものが数点来ていたし、他にもティツィアーノ、デューラー、ブリューゲルが来ていた。
 いつかウィーン美術史美術館やプラド美術館に収蔵されているというボスやブリューゲルを見られたらと思っているが、たとえばボスの「快楽の園」などは板書きの三連祭壇画でおそらくは門外不出だろう。その意味では、今回の展覧会への期待は美術的価値よりはヨーロッパ史への関心であり、今まで図版でしか見たことのない歴代の皇帝や王妃たちの肖像画を見られただけで満足だった。コレクションの中ではオッターヴィオ・ヴァンイーニ「井戸端のレベカとエリエゼル」(1626)とヴェロネーゼ「ホロフェルネスの首を持つユディト」(1580)が美しいと思った。
ハプスブルグ展_c0252688_00430246.jpg
 展覧会会場へのアプローチ、SHARPS1で。p330が不調になってからs8200をメモ帳代わりにしていたが、もしかしてスマホのカメラで間に合うのではないかと思いついた。今まではバカにして使わないでいた。まだ慣れない。最近、HUAWEIP30liteを買った。その話はまた別の機会に。

 


# by yassall | 2020-01-27 01:22 | 日誌 | Trackback | Comments(0)

今年の発句2020

アダン岩礁赤翡翠一村の奄美
蒼き浪よヒルガオの浜南島記

今年の発句2020_c0252688_00120523.jpg

 今年も年賀状に拙句をしたためた。一番目は「ア」「ン」「ショウ」の音の連なりを面白がっただけの句。だったら赤翡翠はアカショウビンとカタカナ書きをした方が良かったのだが、一行書きすると長くなり過ぎ、ハガキでは収まりが悪いので漢字にした。一村が田中一村だと気が付けば分かってくれるだろうとの甘えである。
 二番目の書き出しは最初、蒼浪(そうろう)や、とやりたかったのだが、蒼浪には老衰という意味もあるのを知って、まだ早いとあわてて変えた。南島記は柳田国男・折口信夫を意識した。黒潮に乗って海上の道を渡って来たかも知れない祖先たちへの思いを思ったのである。
 30代の初めのころ、なぜか俳句らしきものが次々と頭の中で湧いてきた。これは面白いと中村草田男や金子兜太の本を読んだり、歳時記を揃えたりしてみた。少し本格的に勉強してみるかと構えたとたんに何も生まれなくなった。
 50歳のころ、フォト五七五なるものが流行ったことがあって、なかなか面白いものだと刺激を受けた。
  炎昼の異邦人となる橋の上    板見浩史
  人生の坩堝に溶けず街寒し    森村誠一
  ファーブルを夢見る少年日の盛   中谷吉隆
 などの先達に及ぶべくもないが、真似だけでもしてみたくなったのである。今度はあまり本気にならず、遊びこそ俳句精神の粋と思い込むことにした。カメラは一年中ブラブラさせているし、昨年はこんな一枚を撮りましたと年賀状でシリーズ化するのもいいだろう、どうしても自作がならないときは名のある俳人たちの句を添えるのでいいじゃないかと開き直って続けている。
 俳誌や句集を読むのは今でも好きで、気に入った句はメモしたりしている。加藤郁乎や夏石番也のような鬼才に触れると才能の決定的な差異を思い知らされるばかりだが、それらが心の深いところに届いて来るかといえば必ずしもそうとも限らない。
 こんなことを書き始めたのはTV番組のプレバトのことを書こうと思ったからである。俳人の夏井いつきを主宰者に模擬的な句会を開き、査定をしたり添削したりする。視聴者は素人の俳句を手直しすることで見違えるように生まれ変わっていく様子に感嘆する、というしかけになっている。
 最初はよく面白おかしく番組をくみたてるものだなあと見ているうちに、夏井いつきという人の俳句への打ち込み方や普及活動への本気度を知るようになり、毎週の放映が心待ちになってしまった。
 現在トップを走るのは梅沢富美男、東国原英夫、フルポン村上らである。番組へのオファーが始まってから俳句を勉強し出したという人が多いが、
  鰯雲仰臥の子規の無重力      東国原英夫
  エルメスの騎士像翳りゆき驟雨    フルポン村上
 のように、日ごろのキャラクターからは想像できない秀句を生み出している。
 東国原英夫はつい先日の放送回でも破格ながら「湯豆腐の湯気アインシュタインの舌」のような独特のセンスをみせる。これに比べると梅沢富美男の俳句は正統派で、ときに面白みに欠ける嫌いがあるが、実は梅沢がどんな句を詠むかを私は一番の楽しみにしているのである。
  1原子炉と共に溽暑に眠る町
  2嬰児の寝息の熱し砂日傘
  3旱星ラジオは余震しらせおり
  4震禍の港あふるる笑顔初さんま 
  5廃村のポストに小鳥来て夜明け
 1については「原子炉と溽暑に眠る町の黙(もだ)」、4については「震禍(しんか)七年港に揚がる初さんま」の夏井いつきの添削がある。「と共に」では確かにゆるさがあるし、「あふるる笑顔」と書かずに復興への思いを表現すべきなのだろう。だが、発句そのものは福島出身である梅沢からしか出てこないものだろう。2、5は直接福島を詠んだ句ではないがやはり故郷への思い、嘆きなくしては詠まれない緊迫感や寂寥感が伝わってくるように思うのである。故郷にも俳句にもきちんと向き合っているところから発するように思うのである。


# by yassall | 2020-01-20 01:46 | Trackback | Comments(0)

今年の読書から2019

 多少とも集中して読めたのは次の3冊だろうか。

  カント『プロレゴメナ』岩波文庫
  御子柴善之『カント哲学の核心』NHK出版
  白井聡『国体論』集英社新書

 Tさんから定期的に開いている読書会とは別に「カントを読もう」と誘われたのは昨年のうちだった。同じ志木高校の同僚で、大学で哲学を専攻したMさんに仲間に入ってもらい、レクチャーを受けながらともかく原典にあたってみようというのがねらいだった。
 認識論でいくか、道徳論でいくかあたりから希望を出し合い、テキストが決まったのが春ころ、現役であるMさんが予定を空けやすい日程ということで、学校が夏休みになる7月下旬に2日連続で開くことになった。当日はMさんの現任校の同僚のAさんも参加した。Aさんは英語の先生で、英語版の『プロレゴメナ』を読んでいたので、何かと参考になる注釈を受けることが出来た。
 『プロレゴメナ』はカント自身による『純粋理性批判』の要約版であり解説書である。大学時代、西洋哲学の講義で初めて『純粋理性批判』を読んだとき、1ページも理解できなかった記憶がある。(それでも単位が取れたのが不思議だ。たぶん早世したMが助けてくれたのだろう。)
 石川文康の本を読んだり、柄谷行人のカント評価に接して、何となく理解できたような気がしてきたのはつい最近である。『カント哲学の核心』はその『プロレゴメナ』読解の手引き書である。原典にあたってみるといっても、解説書や手引き書で得られる理解を超えるのは難しかったというのが読書会を終えての感想である。まあ、それを言っては身も蓋もないというべきで、自分なりに理解したことを原典の中に確かめられたことには意義があったと思う。
 『純粋理性批判』の「批判」とは「論」という意味で、日本語のニュアンスに含まれる否定的な意味合いはない。それでもカントの場合、人間の「理性」の特質とその限界を明らかにしようとした点で、「理性」礼賛とは大きく異なる。
 「正-反-合」という弁証法を発見したヘーゲルには、確かに思考のダイナミズムのようなものを感じる。しかし、それでは「国家理性」のようなものが存在するかといえば、人間はその歴史に裏切られてきたと言う方が正しいように思う。カントの場合、「弁証論」とは「思弁的」といった意味合いで、思考の中では一定の筋道(論理)が成り立つが、現実として確かにそうだとは断定できないことを明証しようとしていると読み取れた。
 「批判」という意味では、認識と実体との同一視、逆に人間の理性に対するニヒリズムといった、同時代の哲学に対する根底的な批判を試みた書であることは言えるだろう。カントのカテゴリー論が今日どこまで有効であるかといった問題はさておき、ここまでは確かだと言える、ここから先は言ってはいけない、という限界を見極めようとした思考の厳密さという点で、その価値は失われていないと思った。
  ※
 白井聡の『国体論』は、定期的に開催している読書会の方でレポーターの順番が回ってきたとき、テキストにしてもらった本である。
 実はテキストの選定にはずいぶん悩んだ。戦後史というこれまで続いてきた枠組みがあり、私の関心としてはナショナリズムの起源とその行方がある。また、今日の思想状況を解き明かそうとしたとき、情報社会論あるいはマスコミ論が必要なのではないか、という勘のようなものが働いている。
 「東京裁判」と「朝鮮戦争」が日本と東アジアの戦後史を見ていく上でのキーポイントになるというアタリをつけてみたが、適当なテキストには行き当たらなかった。
 白井聡は以前に『永続敗戦論』をテキストにしたことがある。二番煎じになりそうな予感もあったのだが、ハズレもなさそうなところで選んだ。
 「対米従属」がキーワードであることは共通している。ただ、『永続敗戦論』では戦後史を一貫した構造としてとらえられていたのが、『国体論』では冷戦構造の終焉とアメリカの相対的な地位の低下の中で、日本が「対米従属」から抜け出せない現状とその異様さに焦点が当てられている。「国体」という少々エキセントリックなもの言いは措くとして、「構造」としてのみでなく、変化し、変質していく「歴史」としての解明には説得力があった。(民権よりも国権を上位に置こうとするという意味では「国体」という指摘も誤りではない。統治と権力のあり方の問題についても考えた。)
  ※
 鹿野政直『沖縄の戦後思想史』岩波現代文庫
 矢部宏治『知ってはいけない2』講談社新書

 は他の方のレポートによる読書会でテキストとなった本。以下はテキストの選定にあたって私があれこれ当たった本である。

 安田浩一『愛国という名の亡国』河出新書
 山崎雅弘『戦前回帰 大日本病の再発』朝日文庫
 堤未果・中島岳志・大澤真幸・高橋源一郎『支配の構造』SB新書
 山口二郎『民主主義は終わるのか』岩波新書

 山口二郎の『民主主義は終わるのか』は刊行が10月であったから読書会のテキストの候補にはあげられなかったが、テーマとしては連続している。山口さんはアジテーターとして優秀だなと思って来たが、(失礼な言い方になるが)学者としても優秀なのだと再認識した。同時代史としても意義がある。
  ※
 翁長雄志さんが亡くなったのは2018年のことである。沖縄はいまだに戦後日本の矛盾の集約点であり続けている。しかしまた、その諸矛盾をひとり沖縄に押し付け、自らは圏外にあるかのように錯覚しているあり方に、鋭くNONを突きつけているのも沖縄なのである。地域経済を興隆させ、基地依存からの脱却に自信を深めつつあることが背景にあるのだろう。日本全体が保守化・右傾化を強める今日、「オール沖縄」の持つ爆発力は注目に値する。「イデオロギーよりアイデンティティ」の言葉のもとに「オール沖縄」をまとめ上げていった翁長さんのことを知りたくて本を探した。

 松原耕二『反骨 翁長家三代と沖縄の今』朝日新聞出版
 翁長雄志『戦う民意』KADOKAWA
 琉球新報社『翁長雄志発言録』高文研

 保守の政治家であった翁長さんが「左右の対立を乗り越える」とする立場に立ったのは自身の病のためであったのかも知れない。「もう待てない」と基地反対の先頭に立ったのは命がけのことだったのだろう。沖縄に生まれ、沖縄に生き、沖縄に死ぬ覚悟が伝わって来る。政治家としてだけでなく、思想家として評価されるべきだと思った。
  ※
 保守の思想家ということでは中島岳志に近年注目している。あれこれ著書を検索していると、不思議に興味関心の一致する本が見つかった。

 中島岳志『アジア主義』潮文庫
 中島岳志『親鸞と日本主義』新潮選書

 親鸞についての論考では次も力作だと思った。

 森中高明『他力の哲学』河出書房新社
  ※
 今年、自分の思考を固め、深めておく必要を痛感したのは「徴用工問題」に端を発した日韓問題、あるいは東アジアという枠組みの中での韓国をどう捉えるかという問題であった。
 このブログでは9月から10月にかけて「韓国のこと」でずいぶん書き込んだし、基本的な考えは今も変わっていないので繰り返さない。在日の友人Kによれば、韓国は日本以上に「対米従属」の国なのだという。結局GSOMIAの破棄は撤回されてしまったし、年末も押し迫った31日になって前法務長官のチョ・グク氏在宅起訴のニュースが飛び込んできた。GSOMIA破棄の撤回にはアメリカの圧力があったのは間違いないだろうし、チョ・グク事案も「大統領府VS検察」というところには矮小化できない、もっと大きな韓国内の対立が背景にあるのだろうと考えている。私にはそれが流動化する東アジア情勢の中で、現状から脱却し、新しい道を模索している姿に見える。白井聡『国体論』にいう「対米従属」という「国体」にしがみつき、その改変を拒否する日本との違いを考えたい。

 吉岡吉典『日韓基本条約が置き去りにしたもの』大月書店
 山本晴太他『徴用工裁判と日韓請求権協定』現代人文社
 戸塚悦朗『「徴用工問題」とは何か?』明石書店
 岡本有佳・加藤圭木編『だれが日韓「対立」をつくったのか』大月書店

 ネット時代の弊害として、自分と同様の意見ばかりアクセスするようになるというのがある。昨今の嫌韓ムードをリードしている論調がいかなるものかを知っておく必要があるだろうと考えてはみた。韓国内でベストセラーとなり、最近になって翻訳が文藝春秋社から出た『反種族主義』は書店に出たら一冊買おうかと思っていた。確かめたい事柄もあったのだが、立ち読みしているうちにすっかりその気が失せてしまった。いやしくも「学者」を名乗る者たちによって書かれたというのは本当なのだろうか。澤田克己(毎日新聞元ソウル支局長)の「本書は政治闘争のための本」(『週刊文春』 2019.12.19号※)というところが正鵠を射ているのではないだろうか。(まあ、今は「日本でもベストセラー」に与するのは癪だが、読まずに批判も出来ないので、いつか読むことにはなるかも知れない。)
 ※https://bunshun.jp/articles/-/22058

 池畑修平『韓国内なる分断』平凡社新書

 朝鮮の抱える問題が「南北分断」だけにあるのはでなく、韓国内での「南南葛藤」にあるとする池畑修平の『韓国内なる分断』は、「葛藤」という括りでよいかどうかは別として、問題の在処を比較的公平な視点で解説しているといえると思った。
 しかし、

 宇山『韓国暴政史』扶桑新書

 になると、著者の知性に大きな疑問を感じざるを得ない。日本が韓国の独立を手助けしたとか、ロシアの侵略から守ってやったというような論はまず嫌韓本の定石として、アメリカの傀儡であった李承晩時代の済州島四・三事件、朴正煕独裁政権による人権抑圧、全斗煥によって引き起こされた光州事件などに比較的正確に触れながら、それらに抵抗した民主化闘争を「無力だった」と軽視したり、「暴政」という括りで同一視したりという乱暴さなのだ。対立と混沌の中に変化の兆しを見ようとしない、よほど歴史という観点を欠いているか、こんなふうに言っておけば騙されてくれるだろうと、読者を侮っているかのどちらかだ。
  ※
 雨宮処凛『生き地獄天国』ちくま文庫
 帚木蓬生『逃亡』新潮文庫

 その他では上記の2冊が面白かった。帚木蓬生の筆力には本当に感心させられる。自分の父親がモデルだという。小説化するにはたいへんな痛みが伴ったことだろう。一つの「始め」と「終わり」を持つ物語(ストーリー)を作り上げていくことの意味についてはいつか考えてみたい。
  ※
 一年の終わりに、今年はプライベートなことをひとつ。

今年の読書から2019_c0252688_01523657.jpg

 18年前に家を建て替えたとき、机を大きなものに替えたいと思った。探してもなかなか適当なものが見つからず、予算のこともあって新聞広告にあった通販のデスクセットを選択した。心配だったので、実物が見られるという倉庫を訪ねていったりと慎重に選んだつもりだったのだが、届いてみるとその作りの粗雑さにがっかりしたり、腹を立てたりした。それでも140×70cmというサイズや、セットのワゴン、脇付ブックシェルの収容力は予想通りだったし、デザイン的には面白さがあったので、いつか替えてやると思いながら使い続けることになった。
 退職してからはサイズの面でも見直しの必要を感じるようになり、機会をみてはあれこれ代替品を探した。模様替えも体力が残っているうち、という気持ちもあった。
 ニトリに発注したのが9月、受注生産なのか、製品が届いたのが11月である。サイズは120×55cm。抽斗の数やサイズから、かなりの量の物品の整理が必要なのは明かだったので、トコロテン式になる離れた書棚の整理を含めて、計画的に準備を進めた。届いてからは旧製品の廃棄から新製品の組み立てまで一気に進めた。

今年の読書から2019_c0252688_01524779.jpg

 上が長年使い続けて来た机の残骸である。粗大ゴミとして回収してもらうため、指定日に道路脇まで出しておいた。見る人が見ると分かると思うが、傷んだ箇所を演劇部で大道具を作っていたノウハウを活かして補修したり、解体にあたっても、取りそろえた工具を使ったりした跡がある。
 ちなみに後ろに写っているレガシーも18年乗ったが、いよいよ決意を固め、今年の12月に廃車にした。今年は他に1、2階のトイレ、浴室のシャワー、キッチンの浄水器、玄関ホールの照明なども交換した。それらはプライベートすぎるので写真をアップしたりはしない。


# by yassall | 2019-12-31 23:58 | 雑感 | Trackback | Comments(0)

2019年 今年のニューフェイス  SIGMA sdQuattro

 今年のニューフェイスは2年ぶりである。
2019年 今年のニューフェイス    SIGMA sdQuattro_c0252688_17135618.jpg
 SIGMAsdQuattroの発売は2016年であるからニューフェイスというにはいまさらの購入ということになる。購入の動機については5月にアップした「旧古河庭園でバラ」に書いた。その後、白山神社で紫陽花を撮ったり、横浜散歩に連れ出したりした。ただ、前回書いたとおり夏以降外出に消極的になったり、気軽に持ち出すには少々ガタイが大きかったりで、まだまだ使いこなすには至っていない。
 FoveonX3はアメリカのベンチャー企業であるFoveon(フォビオン)社によって開発されたイメージセンサーである。いち早くFoveonX3を採用したシグマは2002年発売のSD9以来、これまでにも様々なシリーズを発表している。いち早く、と書いたが、シグマ以外にこのセンサーを使用したデジタルカメラを私は知らない。シグマは2008年11月にFoveon社の全株式を取得して100%子会社とした。
 そのイメージセンサの独自性を一言でいえば三層構造を持つということである。一般のデジタルカメラで採用されているベイヤー方式では3原色の内の1色のみしかピクセル(画素)に取り込むことが出来ない。そこで、さまざまな種類の『デモザイク処理』を行なって、ピクセルごとの赤・緑・青の各値を補完する(演繹補完)。RGBのうち、人間は日中では緑色の光の波長に最も敏感であることから、受光素子の配列をG(2):B(1):R(1)にするなどしているという。
 これに対してFoveonX3のセンサーはシリコンを使用した三層構造になっており、その三層を利用して全てのピクセルで色情報を検知できるため、補完処理の必要がなく、原理的に偽色やモアレが発生しないのでローパスフィルターも不要となる。また、ディティールに関しても全画素で検知できるためベイヤー方式の約2倍の解像情報があるとされている。
 細かい工学的なことは理解しきれないのだが、三層構造になっているというのは銀塩フィルムと同じだということになる。実際、フィルムと同様の立体感を感じるという人もいる。
 ではFoveonX3が理想のイメージセンサーかというと、なかなかそうはならないのである。ノイズは三層のそれぞれに発生することになるので(色感度も高いということ)他のデジタルカメラ以上に影響を受けやすく、対策が難しい。高感度撮影に不向きとされる理由もここから来ているのだろう。Rの受光層が最も深い部分にあるので、他のCMOS撮像素子やCCD撮像素子と比較した場合、長波長の光ではいくつかの電子が拡散してシャープさが失われるというようなこともあるらしい。
 ※日本写真家協会による「多くの写真家を魅了するSIGMA FOVEONセンサーの特長と魅力」https://www.jps.gr.jp/foveon/に詳しい解説がある。また日本の富士フイルムも独自のセンサーを開発している。
 つまり、際だったオリジナリティを有するが、扱いが極めて困難である……というのがFOVEONに与えられた評価である。Quattroになる前にも何度となく試してみたいという誘惑にかられながら、手を出さずじまいで来たのもそのためである。だが、さまざまな作例に接しているうちに、その圧倒的な解像感と色再現についにガマンしきれなくなったということなのである。
 
2019年 今年のニューフェイス    SIGMA sdQuattro_c0252688_17140655.jpg
 レンズは17-70mm F2.8-4 DCMACROOSHSMとした。今のところ追加の予定はない。sdQuattroのクセの強さはSIGMAのSAマウントのレンズがすべて使用可能かというとそうなっていないところにも顕著である。HPをみると「sd Quattroシリーズ AF作動状況一覧」 というのがあって、レンズによって「被写体の条件によって合焦しない場合がある」とか「十分な速度と精度が得られない」とか書かれている。NikonのZマウントで、レンズメーカー(サードパーティ)製造のFマウントレンズの中にFTZを介しても作動しないのがあるというのは知っているが、自社のレンズくらいはカバーしろといいたいところだ。
 sdQuattroにはAPS-Cサイズ3,900万画素相当のsdQuattroとセンサーサイズを大型化した5,100万画素相当のsdQuattroHがあり、レンズを装着するとsdQuattroが35mm換算で1.5倍、sdQuattroHで1.3倍の焦点距離となる。sdQuattroHの方が性能が高いことになり、SIGMAは35mmF1.4DGHSMArtと24-105mmF4DGOSHSMArtを組み合わせたレンズキッドを発売しており、売れ筋にしたがっているらしい。だが、レンズとしての使い勝手はどうもピンと来ないのである。
 そこへいくと35mm換算25.5mmから105mmという画角で、かつMACRO付き(まあ、なんちゃってMACROの域かも知れないが)というのはかなりの守備範囲の広さがある。実は価格的にもまず試してみるか、というのに手が届きやすかったのである。
2019年 今年のニューフェイス    SIGMA sdQuattro_c0252688_17141623.jpg
 全体としてのフォルムもかなり独特だが、マウントがアダプターでも付けたかのように本体から前面に飛び出しているのも特徴がある。したがって、それほど大型レンズでもない17-70mm F2.8-4を装着するとこんなロングノーズのスタイリングになる。まだまだ使いこなすには至っていない、と書いたが、まだまだ諦めたわけではない。撮影条件と被写体を選ぶカメラだと思うので、また持ち出す機会を作っていきたいと考えている。
   ※
 今年は他にOLYMPUSのED12-40mmF2.8PROを買った。m43だからLUMIXでも使用可能である。12-60mmの描写に少し物足りなさを感じるようになったというのが動機だが、まだ明かな差異があるという確信にはいたっていない。これもこれからどれくらい使い込んでいくかだろう。カメラとレンズを換えればいい写真が撮れるわけではないということは分かっている。とはいえ、つまるところ道楽なのだから、あれこれ様々な撮影を楽しみたいというのも真実である。記録写真の部分はTX1あたりに担わせて、単焦点やズーム比よりは画質を優先したレンズを使う撮影スタイルに変えていきたいとも思っているのである。
 私的にはNikonのZシリーズが注目株である。どうせならZ7が欲しいと思っているが、なにせ値段が高すぎるし、レンズもまだまだ揃っていない。本体はフルサイズにしては軽量なのだろうが、レンズは相変わらずの重たさである。現有機材をすべて擲って乗り換えなどという気になるのはずっと先だろう。(たぶんそんな日は来ないだろう?)




# by yassall | 2019-12-24 20:03 | カメラ談義 | Trackback | Comments(3)

奄美大島の旅 3日目

奄美大島の旅 3日目_c0252688_00074893.jpg
 3日目の出発は9:00。早くも最終日である。この日は北部を回る。
奄美大島の旅 3日目_c0252688_13441034.jpg
 最初に立ち寄ったのは浜千鳥館、奄美大島酒造の工場見学である。元々は1日目の見学コースに入っていたが飛行機の遅れのために最終日に回った。なので朝一に相応しかったかどうかは問わない。奄美空港と名瀬の中間に位置しているからコース的には無理がない。(工場の前は池になっていた。1枚目の写真はそれが分かるように。)
奄美大島の旅 3日目_c0252688_00075908.jpg
 黒糖焼酎は1953年に日本復帰の特別措置として奄美群島だけに製造が認可された。甘い香りが特徴的だが、蒸留酒であるから糖質はゼロである。
奄美大島の旅 3日目_c0252688_00080946.jpg
 ここ奄美大島酒造では島内でも唯一100%奄美産の黒糖にこだわっているとのことだ。酒造法か何かの関係らしく米も使用するのだが、米はタイ米で水分が少なく適しているという説明だった。
奄美大島の旅 3日目_c0252688_00081932.jpg
 酒造見学には試飲と買い物がつきものである。大概の人にとってその方が楽しみだったりする。
奄美大島の旅 3日目_c0252688_14093883.jpg
 私も2品ほど買って帰った。「ご」は川の意味で左側の「やんご」は屋仁川のこと。樽で熟成された酒で島内でしか販売されていないとのことだった。右側は酒造の自信作の一つであったようなので選んだ。実は二晩とも酒は黒糖焼酎にした。お店でおすすめを聞くと「じょうご」がよく飲まれているという。こちらもこの酒造の製品。名瀬に近いというためもあるのだろうが味に間違いはなさそうである。
奄美大島の旅 3日目_c0252688_00085577.jpg
 次は大島紬の村。作業場兼観光施設として作られたようだ。
奄美大島の旅 3日目_c0252688_00090461.jpg
 大島紬といえば泥染というのが一般的な知識である。だが、その工程は単純なものではなかった。最初にシャリンバイ(車輪梅)の煎出液による染めが20回繰り返される。そこから泥染めが加わり、シャリイバイ染め80回に泥染め5回が繰り返される。そのことでシャリンバイに含まれるタンニンとカテキンが泥土の鉄塩類と反応し、不溶性の化合物を絹糸の上に造ることによって染色されるのだという。
奄美大島の旅 3日目_c0252688_00091570.jpg
 外では泥染めの実演も行われていた。近くに泥染発祥の地という案内板が立っていた。
奄美大島の旅 3日目_c0252688_00092442.jpg
 図案の設計、機織りの実演のコーナー。図案が決まると白くしたい箇所だけ木綿糸を織り込み、染め付けた後にその木綿糸だけ抜いてしまうのだという。機織りでは縦糸、横糸を合わせたとき、模様がきちんと合うように織り込んでいく。ベテランでも1日に織れる量には限度があるそうだ。
奄美大島の旅 3日目_c0252688_00093736.jpg
 山をバックにした傾斜地に建てられている施設は散歩コースとしても整備されており、なかなかの景観である。午前中の一時期だけ、少し曇りがちで、ときどき雨滴が落ちてきたのが残念だった。
奄美大島の旅 3日目_c0252688_00095146.jpg
 草花もきれいだ。奄美大島は一年中が緑で、紅葉はないのだそうだ。
奄美大島の旅 3日目_c0252688_00100286.jpg
 昨日見たのより幹の太いヒカゲヘゴも植わっていた。
奄美大島の旅 3日目_c0252688_00101877.jpg
 昼食場所のけいはんひさ倉。裂いた鶏肉や錦糸卵などの具を乗せて出し汁をかけてお茶漬けのようにして食べる。奄美名物だという。埼玉でいうと小川の忠七めしのようだと思った。
奄美大島の旅 3日目_c0252688_00103159.jpg
 その昼食場所のとなりに奄美竪琴の製造をしているという小屋があった。いかにも手作りというライブ会場も併設されている。何だか面白そうだとうろうろしていると家主である盛島貴男氏本人があらわれ、集まってきた何人かの前でお話しをしてくれたり、演奏のさわりを聞かせたりしてくれる。
 奄美竪琴は盲目の里国隆が創始者。樟脳の行商をしながら路上で弾き語りをしていたのが注目されCDが出された。盛島は1950年生まれというから私の同級生である。高校卒業後、東京で様々な職業を転々とし、奄美に帰ってからも漁師やダンプの運転手をしていた。里国隆のCDと出会うまでは音楽とは無縁だったが、その弾き語りに感銘し、里の妹を探し当てて遺品の竪琴をコピー、その後改良を重ねて自らも演奏者となった。
奄美大島の旅 3日目_c0252688_00104158.jpg
 熱心に演奏しているとなりの小屋に何竿かの竪琴が置かれていたので写真に撮らせてもらった。鼓童、里アンナ、江草啓太などに愛され、演奏されているという。本人の歌声も魅力的で、語りにもユーモアがあった。帰宅後、CDを発注した。
奄美大島の旅 3日目_c0252688_00112462.jpg
土浜展望台。展望台といっても短い階段のついたデッキがあるばかりだった。ただ、前にも書いたように海に向かっての傾斜が強いから見通しが悪いわけではない。とはいえ海岸に出た方が楽しそうだったので坂道を降りていく。何のためなのか不思議なプレハブが建っている。近くには奄美テレビ放送北大島局という2階建ての建物もあったが。
奄美大島の旅 3日目_c0252688_00113804.jpg
 ここもZR4000の方が描写がよかった。
奄美大島の旅 3日目_c0252688_00114899.jpg
 太平洋である。昨年のNHKの大河ドラマは「せごどん」であった。各地に西郷隆盛ゆかりの場所があり、ドラマの撮影地になった場所があると紹介されたが、いずれも車中だったので写真はない。プロローグで相撲をとる場面は確かこんな砂浜だった。
奄美大島の旅 3日目_c0252688_00120523.jpg
 ハマヒルガオではなくてグンバイヒルガオ。ヒルガオ科には違いないが熱帯の海浜に群生するとのこと。これはG8で。
奄美大島の旅 3日目_c0252688_00122318.jpg
 実は展望台というよりハブ屋がメインであったようだ。それほど大きな店ではなかったが、ハブショーが催されたり(私は見なかった)、ハブの革製品が販売されたりしていた。生きたハブも何匹が展示されていた。確かに頭のかたちが三角である。夜行性で、昼行性のマングースは駆除のために何の役に立たなかったばかりか、島の生態系に重大な影響を与えるに至ったというのは有名な話である。
奄美大島の旅 3日目_c0252688_00125534.jpg
 笠利崎灯台。これが最北端である。四角い灯台が特徴的である。灯台までの階段は閉鎖中とのこと。
奄美大島の旅 3日目_c0252688_00130602.jpg
 灯台前からの景色。
奄美大島の旅 3日目_c0252688_00132461.jpg
 あやまる岬に到着する。高台になっているのか、こちらの方が展望がよい。
奄美大島の旅 3日目_c0252688_00134293.jpg
 さきほどの笠利崎灯台も遠望できる。
奄美大島の旅 3日目_c0252688_00140101.jpg
 デッキが設置されており、デッキに乗るとさらに展望がよい。
奄美大島の旅 3日目_c0252688_00142101.jpg
 下は遊園地になっているようだ。
奄美大島の旅 3日目_c0252688_00144268.jpg
 景色を堪能する。
奄美大島の旅 3日目_c0252688_00164874.jpg
 シャリンバイである。これは駐車場付近で。
奄美大島の旅 3日目_c0252688_00160041.jpg
 駐車場のある敷地内に建っていたカフェ。
奄美大島の旅 3日目_c0252688_00161931.jpg
 店内はなかなかオシャレ。個人で来てこんな店で1、2時間のんびり過ごすのも悪くなさそうである。
奄美大島の旅 3日目_c0252688_00163565.jpg
 こちら側にも海岸線が広がっていたので、名残を惜しむ。
奄美大島の旅 3日目_c0252688_15530999.jpg
 すると目にも色鮮やかな鳥がそばの柵にとまった。こんなとき、得てしてカメラを向けようとすると、とたんにどこかへ飛んでいってしまうものだが、不思議なことに私が帰るまでじっとしている。何ショットか撮ることが出来た。言い忘れたが3日間同乗してくれたバスガイドさんはかなり優秀だった。モニターを見せて鳥の名前を聞くと、ハマヒヨドリだと教えてくれた。ここから空港まではものの20分ほどである。まるで見送りに来てくれたようだった。
  
 G8+12-60mm、ZR4000







# by yassall | 2019-12-21 16:07 | 風景 | Trackback | Comments(2)

奄美大島の旅 2日目

奄美大島の旅 2日目_c0252688_15471861.jpg
 2日目、出発は朝8:30。食堂は6:00に開くという。早めの朝食の後、付近を散策した。奄美大島はおおよそ鹿児島と沖縄の中間点に位置し、東は太平洋、西は東シナ海に挟まれているということになる。名瀬港は東シナ海側である。後から聞いたところではこの日は時化で漁には出ていないそうだ。
奄美大島の旅 2日目_c0252688_15364407.jpg
 名付けてみれば今回のツアーは奄美一周の旅ということになるのだろう。まずは南端の古仁屋せとうち海の駅までバスを走らせ、水中観光船せと号に乗船する。
奄美大島の旅 2日目_c0252688_15363132.jpg
 大島海峡の内だと思われるが水中観察スポットまで船で移動する。
奄美大島の旅 2日目_c0252688_15370882.jpg
 エンジンを停止させると乗客は船底に移動し、丸窓から水中を観察する。熱帯特有の色鮮やかな魚や、やたら細長い魚が泳いでいる。運が良いとウミガメやサメも姿を現すらしいが、残念ながらこの日は遭遇には至らなかった。
奄美大島の旅 2日目_c0252688_15365816.jpg
 出発前の奄美地方の天気予報は曇りのち雨。直前になって雨の確率が下がり、まあ雨に打たれなければ良しとするかぐらいに思っていた。ところが見ての通りの上天気である。旅は何といっても天気である。
奄美大島の旅 2日目_c0252688_15371874.jpg
 港に帰ってしばらく時間があったので付近を散策する。けっこう波が大きくうねっている。対岸は加計呂麻島である。
奄美大島の旅 2日目_c0252688_15421317.jpg
 島の中部まで引き返す。黒潮の森・マングローブパークに到着する。昼食もここで摂る。
奄美大島の旅 2日目_c0252688_15413860.jpg
 オプションでカヌー体験があったのだが、沖縄で経験済みだったので私はパス。地上からのマングローブ撮影を選択した。
奄美大島の旅 2日目_c0252688_15381287.jpg
 100何段だかの階段を登る展望台から撮影した。何でも山城の跡らしく、石原イシハラウエノ遺跡という案内板があった。何枚か続けてアップする。
奄美大島の旅 2日目_c0252688_15382640.jpg

奄美大島の旅 2日目_c0252688_15383936.jpg
 ここまではG8によるもの。どういうわけか、ここではZR4000の方が結果が良かったような気がしたので、同じような写真になるが続けてアップする。
奄美大島の旅 2日目_c0252688_15473403.jpg

奄美大島の旅 2日目_c0252688_15474428.jpg
 施設としてはミニゴルフ場を併設した公園になっている。人工的なきらいはあるが、公園内で見つけた奄美らしい植生をいくつかアップする。
奄美大島の旅 2日目_c0252688_15412611.jpg
奄美大島の旅 2日目_c0252688_15385606.jpg
奄美大島の旅 2日目_c0252688_15411014.jpg
奄美大島の旅 2日目_c0252688_15405873.jpg
奄美大島の旅 2日目_c0252688_15415103.jpg
奄美大島の旅 2日目_c0252688_15390751.jpg
 椿は奄美特有とはいえないが蜂がなかなか大きくて立派だったので。
奄美大島の旅 2日目_c0252688_15420267.jpg
 昼食後、バスは東シナ海側へ方向を変える。途中、宇検、田検、芦検といった地名標記があらわれる。検が何を意味しているのかは不明である。
奄美大島の旅 2日目_c0252688_15431311.jpg
 アランガチの滝を見物する。
奄美大島の旅 2日目_c0252688_15430547.jpg
 落差は30m。湯湾岳を水源とするが上流に湖のようなものがあるわけではないという。
奄美大島の旅 2日目_c0252688_15425744.jpg
 けっこう水量は多いようで付近の農地の水源となっているそうだ。観光スポットということになっているが、すぐ隣がミカン畑だったりで観光に特化した様子ではない分、好感が持てる。
奄美大島の旅 2日目_c0252688_15422540.jpg
 駐車場からも小川沿いに15分ほど歩かなければならないし、途中にはこのような民家も見える。
奄美大島の旅 2日目_c0252688_15424164.jpg
 ヒカゲヘゴ。大型木生シダで、名前の由来は日光を求めて高く高く成長するので日陰を作ってしまうということからだそうだ。
奄美大島の旅 2日目_c0252688_15432842.jpg
 長く伸びた幹の尖端は確かにシダ類であることを示すような葉が茂っている。ゼンマイを大きくしたような姿が特徴的だ。この後、あちこちで見ることになる。
奄美大島の旅 2日目_c0252688_15434838.jpg
 嶺山公園。東シナ海側へ出る。
奄美大島の旅 2日目_c0252688_15440344.jpg
 奄美大島の地形的な特徴は山がちであることだろう。絶壁からストンと海になる。道路もトンネルが多かった。完成は近年らしく、現在も新たなトンネルが掘られていた。それまでは島内の移動にも難渋したとのことだ。
奄美大島の旅 2日目_c0252688_15441987.jpg
 心なしか波が荒いような気がする。
奄美大島の旅 2日目_c0252688_15443796.jpg
 さらに北上する。建物は大浜海浜公園内の奄美海浜展示館。
奄美大島の旅 2日目_c0252688_15445006.jpg
 中へ入ると中央に吹き抜けの2階までの水槽があり、ウミガメが飼育されている。近くの浜辺が産卵場所で、海に向かえず、迷子になってしまった子亀を育てているのだそうだ。まだ6、7歳で、もう10年ほど経たないと産卵には至らないという。
奄美大島の旅 2日目_c0252688_15450610.jpg
 階段を上って2階まで行くとエサやりが出来る。エサはキャベツだった。
奄美大島の旅 2日目_c0252688_15452570.jpg
 展示館は有料でオプションだったが、それほど見るべきものはなかろうということで海岸に出てみる。日暮れも近づいてきた。
奄美大島の旅 2日目_c0252688_15453795.jpg
奄美大島の旅 2日目_c0252688_15460145.jpg
  正面の岩礁を真ん中に絵づくりをしてみる。
奄美大島の旅 2日目_c0252688_15454924.jpg
 そうこうしているうちに日没が迫ってきた。
奄美大島の旅 2日目_c0252688_02455600.jpg
 宿のある名瀬のすぐ近くまで来ていた。荷物を片付けて18:30ロビー待ち合わせで夕食に出る。Kさんと一緒なら今夜も迷うことなく居酒屋だ。せっかくなら地魚がおいしいところと、配布された情報誌でゆらい処大蔵という店をたずねる。選択は当たりだったようで(ネットでも評判がよいらしかった)、刺身もあら煮も美味だった。魚の名前を聞いたが忘れてしまった。一匹はアカダイと聞いたような気がしたが、帰宅してから調べるとどうやらアカマツという魚らしい。
 漁協と特別な契約をしているとのことで、昨日は時化で漁は中止だったということもここで聞いた。そんなときは別ルートで新鮮な魚が入手出来るらしい。まだ開店早々で他に客もいなかったこともあって、大型の魚を捌きながらいろいろ話しかけてくれた。石の採掘が趣味のKさんがせとうち海の駅で見た夜光貝の貝殻が欲しかったという話をしたら、ウチで捌いて残った貝殻がある、よければ差し上げるという話しになった。Kさんが大喜びの一段であった。(後日、グラインダーは使わず、手で磨き込んでいる最中とのことだった。)

 G8+12-60mm、ZR4000


# by yassall | 2019-12-20 03:17 | 風景 | Trackback | Comments(0)

奄美大島の旅 1日目

年の瀬も押し迫ってきた。いろいろ括りをつけて置かなければならないことが溜まっている。年末までに間に合うかどうか見通しもつかないが、まずは手つかずにいた旅行記である。
奄美大島の旅 1日目_c0252688_18012315.jpg
 12月2日から4日まで奄美大島を旅行してきた。6月に北海道を旅行した後、半月ほど入院する羽目になり、消極的になっていた。旅行どころか秋の紅葉撮影も今年はどこへも出かけていない。このまま一年を終わってしまうのも何だか寂しいなあ、と思っていたところにツアー情報が目に入った。一人旅でも良かったのだがKさんを誘ったところ、話しに乗って来てくれた。
 出発は羽田12:20。11:30に出発ロビー集合という余裕のある旅程も気に入った。北海道旅行のときは6:10集合という指示であった。天空橋に前泊したが夕食に出た帰りに雨に降られたあたりから体調を崩したような気がする。若いころなら昼ごろ出たのでは時間がもったいないと思うところだが、今となってはのんびり旅の方がぜいたくというものである。東松山在住のKさんも無理なく集合できる。
 家を出るころは小雨。たたんで仕舞えるよう折りたたみ傘で出かける。赤羽に到着すると京浜東北線に遅延があり、湘南ラインに予定を変更したり、空港では手荷物預かり所がやけに混んでいたりなどあったが、まずは順調。と思っていたら整備に手間取ったのか、40分ほど出発が遅れた。写真は奄美空港である。到着は15:30くらいだっただろうか。
奄美大島の旅 1日目_c0252688_18023367.jpg
 田中一村記念美術館は空港にほど近い奄美パークにある。奄美に行きたいと思った主たる動機はこの田中一村美術館である。1日目の立ち寄り先は実質的にここだけという予定であったから飛行機の遅れもそれほど影響しない。
奄美大島の旅 1日目_c0252688_18022021.jpg
 奄美に独特の高倉をかたどった展示室。東京時代、千葉時代、奄美時代を順を追ってたどれるように配置されている。内部は撮影禁止であるから写真はない。感想としては奄美時代があっての田中一村であるということである。一村が奄美に移住したのが50歳。いかなる磁力が一村を引きつけたのか、一村はこの地で初めて自分が描きたいものと出会ったのではないだろうか。保護のため所蔵作品は常時公開ではなく、年4回の入替で展示されているということだった。一村の奄美をもっと見たいと思った。
奄美大島の旅 1日目_c0252688_18024209.jpg
 順序が逆になったが正面に見えるのが奄美パークの中心となる建物である。観光拠点施設として建てられ、ライブや講演もできるホールや各種の展示コーナーがある。
奄美大島の旅 1日目_c0252688_18042484.jpg
 美術館の反対側に出ると広々として気持ちのよい空間がある。奥には野外ステージも設えられている。
奄美大島の旅 1日目_c0252688_18045455.jpg
 建物もなかなか凝った作りである。
奄美大島の旅 1日目_c0252688_18020537.jpg
 建設は2001年。旧奄美空港の跡地を活用して建てられたとのこと。展望台に登ると元の滑走路跡が見える。これも順序が逆になったが美術館に行く前、暗くならないうちにということで上がった。
奄美大島の旅 1日目_c0252688_18013310.jpg
 宿は名瀬市のHOTELニュー奄美である。到着したころは日もすっかり暮れていた。撮影は翌日の朝の散歩のときである。
奄美大島の旅 1日目_c0252688_18014389.jpg
 1日目の夕食会場の居酒屋。これも写真は翌朝である。経営者なのか、特別に契約しているのか、お弟子さん2人を引き連れた演奏者による島唄と手踊りの時間があって楽しませてもらった。

 G8+12-60mm、ZR4000 

# by yassall | 2019-12-18 19:05 | 風景 | Trackback | Comments(0)

光への探求  ゾーンシステム研究会第23回写真展

光への探求  ゾーンシステム研究会第23回写真展_c0252688_19194448.jpg
 11月30日、Kさんから案内をいただいて四谷の日本写真会館ポートレートギャラリーへ出かけて来た。Kさんはかなり以前からゾーンシステム研究会なる写真集団に所属していたらしい。かなり気合いの入った集団で機材は大判の銀塩カメラ、一人で撮影・現像・焼き付けまで行うというのがルールだという。月に一回例会を開き、合評会形式で腕を磨き、定期的に写真展を開催するが展示にいたるまでにはかなり厳しい銓衡がなされるらしい。Kさんも今回は1作品のみの展示だという。
 私だって写真を始めたころはモノクロから入った。ネオパンとかトライXとかを買い込んではカメラを持ち出した。モノクロ写真は世界中の写真家によって様々な技法が編み出されており、いつか自分も試してみたいと思っていた。だが、知識より先には進まなかった。記録用ならカラー写真の方が手軽だし楽しい。カメラの方も大判の世界があるのを知ってはいたが、一度だけ120フィルムを用いた中判の、しかもセミ判に手を出したことがあるだけだ。4×5のカメラを所有している人は今までもいたが、そこで縛りをかけている写真集団という存在はそれだけでも尊敬の対象である。
 ピント・露出・構図が完璧という写真ばかりではなかったようにも思うが、ともかくすべてを手動で行うわけだし、もちろんレンズも単焦点だろうし、意図した図柄と微妙なズレがあったとしても、それもまた楽しみだという世界なのだろう。被写体を選定し、構図を決め、天候を読み取り、シャッターチャンスを待つ過程に価値があるのだと思った。
光への探求  ゾーンシステム研究会第23回写真展_c0252688_19195411.jpg
 Kさんの作品。撮影地は長瀞だという。こうした構図を選んでパンフォーカスに仕上げるにはカメラの性能をよくつかんでいなくてはならない。岩肌の質感がよく出ていると思った。
光への探求  ゾーンシステム研究会第23回写真展_c0252688_19200732.jpg
 帰りはKさん、natsuさんと連れだってしんみち通りの(とはいえ四谷で飲むのは初めて)秋田料理の店で懇親を図った。酒も料理も美味く、どうも私は酔ってしまったようだ。この翌々日に奄美大島旅行に出かけた。そんなわけでアップが遅くなってしまった。奄美の写真はそのうちに。



# by yassall | 2019-12-06 20:18 | 散歩 | Trackback | Comments(2)

中島敦展

中島敦展_c0252688_16333520.jpg
 23日、明日で開催期間も終了という日になって出かけて来た。連日の雨模様の中であったが、週明けでは間に合わないのだから仕方がない。なぜ神奈川でという疑問は展示を観覧しているうちに合点した。埼玉に勤めていたせいで、つい埼玉と中島敦の関係に関心が向いていたが、東大卒業後、敦が国語と英語の教師として赴任したのは横浜高女であった。そのためか、神奈川近代文学館は中島敦に関連した資料を多数所蔵しているらしく、展示会も4回目で、内容はたいへん充実していた。横浜高女時代の写真や校友誌なども展示されていた。
 中島敦は漢学者の家系に生まれた。その一族には以前から関心があった。叔父の比多吉は外語大で中国語を学び、幼帝溥儀につかえ、後に満州国創設にもかかわった人物であるとのことだ。他にも中国語・モンゴル語を学び、中国大陸に渡り、国士のような生活を送った人物もあるらしい。「斗南先生」のモデルである伯父の中島端(号が斗南)は癇癪持ちで「やかまの伯父」とよばれていたが、たいへんな秀才で漢詩漢文を能くしたという。残された色紙につぎのような一首が揮毫されている。
  「あがかばね野にな埋みそ黒潮のさかまく潮の底になげうて」
気性の荒々しさが伝わって来るような短歌である。端は政治に関心が深く、大陸問題に傾倒していたという。死したのち、遺骨は本当に熊野灘に散骨されたらしく、「斗南先生」には「大東亜戦争が始まり、ハワイ海戦や馬来マレー沖海戦の報を聞いた時も、三造の先づ思つたのは、此の伯父のことであつた。十余年前、鬼雄となつて我に寇あだなすものを禦ぐべく熊野灘の底深く沈んだ此の伯父の遺骨のことであつた。鯱さかまたか何かに成つて敵の軍艦を喰つてやるぞ、といつた意味の和歌が、確か、遺筆として与へられた」という一節がある。
 日本の統治下にあった朝鮮や南島での生活体験があり、支配される側の人々に接した敦には、こうした大アジア主義とも異なり、複雑な感情があったらしいことも分かった。「巡査の居る風景」などにみえる。今回の展示会で監修をつとめたのは池澤夏樹で、副題の「魅せられた旅人の短い生涯」は池澤の発案らしい。敦の人生と文学をよく言い当てていると思った。こうした文学展をみるともう一度勉強し直して見ようかと(このときばかりは)思ったりするのである。

中島敦展_c0252688_16334846.jpg
 神奈川近代文学館は港の見える丘公園を突っ切っていった場所にある。以前は何でもなかったのに、昨年だったか、寺山修司展に出かけたときはフランス山を上る階段をやけにつらく感じた。別ルートはないものかとHPを見たら、みなとみらい線の終点、元町・中華街駅の6番出口に向かうとエレベータでアメリカ山公園に出られることが分かった。地図上では少し遠回りになるが、外国人墓地のわき道を抜けていくと、海が見える丘公園の展望台の真向かいの入口に出られる。ロケーションもなかなかよい。夜にはアメリカ山公園はイルミネーションでライトアップされていた。


# by yassall | 2019-11-24 17:51 | 日誌 | Trackback | Comments(0)