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つい一言 2017.9

 明日にはどんな言い方をするのかは知らないが、「国難突破解散」には空恐ろしさをおぼえた。戦争前夜の「国家総動員」を連想させられた。まさにファシズム(全体主義)は国民の不安と動揺に乗じて生まれてくる。これで自民党が勝利することがあったら、今度こそ日本の民主主義は死ぬ。
 民進党の代表選挙で前原氏が勝ったころから暗雲がたちこめてきた。一度、4党による「野党共闘」にもどるきざしもあったが、今日の希望の党の発足で民進党はいっきに腰砕けになってしまったようだ。
 希望の党の政策発表は来週であるという。あれほど「政策の一致」にこだわっていた民進党であるのに、「希望者は希望の党から立候補させる」とか「合流を模索する」とか対応が早すぎませんか、と突っ込みたくなる。まあ、情報は事前につかんでいたということかも知れないが、「民進党は終わった」と思った人は少なくないのではないだろうか。
 二大政党制は日本では実現しないし、政界再編は自民党が分裂しない限りあり得ないと思って居る。ただ、保守とリベラルがきちんと分離されれば、(それぞれの政党が複数であったとしても連立は可能なのだから)、国民にとって選択を問う体制は築かれるだろう。
 「野党共闘」は市民運動と結びつきながら、やっとここまで積み上げられてきたものだ。民進党の中にも中道からリベラルに近い人たちはいるはずだ。たとえ少数でもその立場でとどまろうという人たちで立て直しをはかり、旗幟を鮮明にしてもらいたい。そのために、これまで内部で足を引っ張ってきた人たちには早々に立ち去ってもらおうではないか。
 「1対1」は実現しないかも知れない。しかし、「1対1対1」を必要以上に恐れるなといいたい。そのうちの「1+1」は保守の分裂なのだから。
 最後に、小池百合子氏の「改革保守」についても一言。私は戦前に戦争体制を押し進めていった岸信介らが「革新」官僚と呼ばれたことを想起した。多少とも期待するという人々は「改革」の中味をよく見てから判断しよう。(9月27日)

 1923(大正12)年の関東大震災直後、折口信夫は帰宅途中にいわゆる自警団に呼び止められ、発音が特異であったため朝鮮人と間違われ、あやうく命を奪われそうになった。後年、その体験を次のように記している。

 大正12年の地震の時、9月4日の夕方ここ(増上寺山門)を通つて、私は下谷・根津の方へむかつた。自警団と称する団体の人々が、刀を抜きそばめて私をとり囲んだ。その表情を忘れない。戦争の時にも思ひ出した。戦争の後にも思ひ出した。平らかな生を楽しむ国びとだと思つてゐたが、一旦事があると、あんなにすさみ切つてしまふ。あの時代に値(あ)つて以来といふものは、此国の、わが心ひく優れた顔の女子達を見ても、心をゆるして思ふやうな事が出来なくなつてしまつた。(折口信夫による自歌自註。『日本近代文学大系 46巻 折口信夫集』)

  おん身らは 誰をころしたと思ふ。
   かの尊い 御名において─。
   おそろしい呪文だ。
   万歳 ばんざあい
(初出では)
  おん身らは、誰を殺したと思ふ
   陛下のみ名においてー。
   おそろしい咒文だ。
   陛下万歳 ばあんざあい


 9月1日、墨田区の横網町公園で、関東大震災時に虐殺された朝鮮人犠牲者の追悼式典が、市民団体によって開催された。小池百合子都知事は、例年知事が出していた朝鮮人犠牲者への追悼文を拒絶、さらに墨田区の山本亨区長も追悼文を断った。
 小池氏は「民族差別という観点というよりは、災害の被害、さまざまな被害によって亡くなられた方々に対しての慰霊をしていくべき」と拒否の理由を記者会見で説明した。「自然災害と民族差別による被害とを混同してよいのか?」という追及を受けながら、のらりくらりとインタビューをかわし持論は撤回しなかった。
 そんな中、同じ横網町公園で、朝鮮人犠牲者追悼碑の前で行われた追悼式典のほんの10数メートルの地点で、“虐殺否定論”に立つ在特会系市民団体「そよ風」が仕切る集会が行われたという。
 集会は30人ほどの規模であったらしい。大量の警察官が動員され、関係者以外の立ち入りを制限するという中での開催だった。その様子は集会を取材した写真からも知れる。
 集会名は「真実はここにある!関東大震災石原町犠牲者慰霊祭」とあるが、「慰霊祭」とは名目にすぎず、「六千人虐殺は本当か! 日本人の名誉を守ろう!」いう看板を掲げて朝鮮人虐殺を否定し、毎年開かれてきた追悼式典に対抗しようという集会であることは明らかである。
 ゆゆしきは在特会などヘイト運動界隈でおなじみの顔ぶれだけでなく、現役の墨田区議会議員・大瀬康介氏までも参加し、スピーチをおこなったというのである。
 同氏に対する後の取材では、「朝鮮人暴動は流言飛語ではなく事実です」と主張しているという。つまり、デマにまどわされた「虐殺」ではなく、「正当防衛」だという論理?である。
 さすがに多数の朝鮮人殺害の事実までは否定できなかったというところだろうが、「あったこと」を「なかったこと」にするために、「なかったこと」を「あったこと」にしてしまおうというのは反知性主義・歴史修正主義のきわまった形態である。
 しかし、そのことによって「日本人の名誉」を守ったことになるのだろうか? むしろ「恥」をさらしたことになるのではないだろうか? 
 どのような民族、国家にも「負」の歴史はある。その「負」の歴史を真正面から受け止めてこそ、民族の尊厳は守られるのではないだろうか? そうでなければ、きっと同じ歴史を繰り返すことになる。(9月5日)
 http://lite-ra.com/2017/09/post-3426.html
  ※
 久しぶりの「つい一言」である。やはり黙っていてはいけない、と思った。それにしても安倍晋三にせよ、小池百合子にせよ、トップに立つ者の姿勢によって、こんなにも歴史修正主義者や排外主義者の跋扈を許してしまうものなのか? 「平らかな生を楽しむ国びと」の伝統はどこへ行った。



# by yassall | 2017-09-27 20:21 | つい一言 | Comments(0)

2017秋の高校演劇②西部A地区秋季発表会

 9月23・24日、西部A地区秋季発表会へ出かけて来た。どんなに頼まれても、古巣であるこの地区の審査員だけは引き受けまいと思ってきた。審査とはかかわりのない目で芝居をみたいと思っているからだ。
 とはいえ、やはり秋は秋なりの緊張感のある発表会となった。もちろん、各校もコンクールだけを目当てに芝居づくりをしているわけではないだろうが、それぞれに特色を出しつつ、高みをめざしていこうという意欲が伝わってきた。
 長い夏休みを芝居づくりについやして来たことだろうから、見せていただいた礼儀として感想を書いてみたい。芝居の出来不出来ということとは関係なく、書きたいことが次々と浮かんでくる芝居とそうはならない芝居とがあるから、長短に差が出てしまうのはご容赦願いたい。

和光国際高校「たりたの疾風」萩原康節・作
 顧問のHさんとは長いつきあいになった。ご自分でも武道をたしなんでいらしたから、その経験をいかして殺陣をとりこんだ作品が多かった。和国に異動して来られてからは初めてだと記憶している(昨年も柔道部ものではあったが)が、Hさんの作品の中では一番の出来だと思った。
 それは題材とその扱いの面白さによるところが大きい。その題材とは明治28年に創設された大日本武徳会の大会に参加し、のちに薙刀術範士の称号を受けた園部たりたの生涯である。実在の人物であるから一個の人間として人物像が浮き彫りにされ、あるいは制約され、対立軸を浮き立たせるために「作られた」人間像になってしまうという弊をまぬがれることができた。
 ネットで知れる範囲のことだが、園部たりたは明治3年仙台藩馬廻役日下陽三郎の六女として生まれた(明治3年は会津戦争後であるから仙台藩が藩として存続していたといっていいか、どうかは不明)。撃剣興業に参加しながら薙刀術をまなび、18歳で印可状を受け、秀雄と名のることを許された。劇はたりた18歳のころから数年間を描く。(劇はたりたと渡辺昇との試合がクライマックスであるが、実際にたりたと渡辺昇が大演武会で試合をおこなったのはたりた29歳とあるから、かなり作者による創作の手が加わっているのは確かだろう)。
 こうした芝居が劇として成立するかどうかはその武具のとりまわし、稽古における型や演武の迫真性だろう。稽古風景を最初に見せて、そのキレのよさで客を引きつけたし、とくにたりた役の生徒のさわやかさが伝わる演技で、嫌な味わいが混ざり込むのを退けた。稽古用の棒薙刀をきちんと袋に収めているところなどにもきめ細かい作り込みがうかがえた。
 だが、私がもっとも引かれたのは師範役に位置づけられた中澤琴乃の人物像である。たりたと同じ仙台藩の出身で西南戦争時には抜刀隊にも加わったという設定になっている。たりたより年長であるから戦闘に加わったかどうかは別として会津戦争も記憶にあったに違いない。二度の戦乱の経験者である中澤は、日清戦争を前にして渡辺が戦意高揚のために全国の陸軍の基地を巡回興行させようとするのを必死に拒否しようとした、というのである。
 大日本武徳会の創設には二面性があったのだろう。国民の戦意高揚、敢闘精神の涵養に役立つという富国強兵政策との合致から財団法人として認可された、という一面はもちろんあっただろうし、また近代戦においてほとんど価値を失った古武術の伝統を守りたい、とする武道家たちの切なる願いもあったことだろう。劇中では「武術の近代化」ということばで表現される。中澤は薙刀の「近代化」をめざしたということになっていた。
 ※薙刀は南北朝以降はほとんど実戦では使われなくなった武器であるから、伝統やたしなみという側面が特に強かっただろう。
 ※武術の近代化という面でもっとも成功した例は講道館柔道だろう。
 また、劇は女性の地位向上という主題も秘めていた。先ほども書いたように武道家としてのたりたは実際には秀雄を名のっていたようである。それを「もう女子は足りた」から名づけたというたりたという名をあえて残しているところからも知れる。
 脚本としての作り込みに荒っぽさがあったことは否めない。劇中で何度か「追い込まれたときこそ前に出る。逃げ場がなくなってから逃げたら負けなんだ」という、たりたのモットーだったらしい科白が使われていた。このことばなども、単に試合に臨んだときの心得、あるいは勝利へのこだわりとだけ受け取られていたらもったいない。逆境に抗う力、自らの運命を自らの力で切りひらく固い決意のことばとして伝わるようになっていたら、と思った。
 日清戦争前夜という重い問題を提起しながらそのままになってしまったことの消化不良感はその通りだと思う(実際には国民の多くは戦勝ムードに湧いたというのが本当のところだろう。だが、そこには多大の犠牲があったはずだ。中澤の「また人が死ぬんですね」という述懐はもっと光ってよいと思った)。
 中澤のその後の消息として、満州に渡ったそうだ、という点についても考えるところは多々あるが、ここでは触れない。ただ、いろいろな人々がいろいろな動機と目的をもって大陸へと渡っていったのだろうとだけいっておく。小説上のことだが、五味川純平『人間の條件』の梶だって戦争に疑問を持ち、兵役から免除されようと満鉄職員になったことになっている。
  ※
 たりたの曾孫だという大志は狂言回しに徹底した方が成功したのではないか? ただ、合気道をやっていたという大志に、もし仮に多少とも作者の影が投影されていたとするなら、(年上らしい口の利き方をさせてもらうなら)もっと自信を持てよ、そうすれば人の批判ももっと素直に、余裕をもって受け入れられるはず、そのことでさらに成長できるはずと言いたい。
  ※
 のっけから長文になった。本当はHさんに読んで欲しいがHさんは私のブログは読んでいないだろう。つまりは自分のために書いておきたかったと言うことだ。
  ※
 さて、この調子だといつまでたってもアップできそうもないので、少々スピードアップ。冒頭に書いたように芝居の出来不出来、印象に残った残らないとは別なのでご容赦!

細田学園高校「ぼくんち」廣井直子・作
 公園にいつも集まって来る5人の仲良しの子どもたち。ママゴト遊びや隠れん坊で取り残され、泣き出した弟と兄との葛藤などを通じて、各家庭の内情や子どもたちが抱いている心の不満などがあきらかになるというお芝居。
 いきなり鬼婆退治という場面で始まるからドッキリさせられるが、昔風の嫁いびりの姑のいる家庭だったら、心を痛めている子どもたちがいることも想像できる。まあ、「本当に殴っちゃだめなんだよ。」と戒めているところにかわいげがある。
 春の「七人の部長」と比較すると「作ろう」「見せよう」が優先していない分、演技は素直で好感がもてる。ただ、今度は芝居はこびが坦々としてしまって、子どもたちの心の動きがみえず、芝居の展開を見失ってしまう場面が多かった。あれ、あの兄はどうして急にすねだしたのだろう?と、首をかしげてしまうのだった。それは役者自身の心がきちんと動いていないとき、つまりなぜその科白が出てくるのか理解できていないことが多いのだ。
 舞台装置の黒ボックスは審査員の指摘があったとおり。とはいえ、舞台装置はトータルな世界観、といいながら、私も芝居の都合を優先させてしまったことは多々ある。だが、とくに具象(滑り台やジャングルジム)と抽象とを混合させる場合には細心の注意が必要だ。
 顧問のEさんには次世代のホープとして皆期待している。がんばろう!

新座総合技術高校「アメリカンに謎解きを。」NSG演劇部・作
 新総ワンダーランドというところだね。以前にも、このゆるい感じがかえって魅力なのかも知れない、と書いたことがある。今回もなかなかのスタイルの持ち主が金髪とピンヒールといういでたちで登場、観客を煙に巻いた。
 ただ、その意味でいうと服飾科、デザイン科をかかえる新総としては、まだまだビジュアルのパンチ度が弱かった。新総の独自路線をつらぬくのか、それとも本格的にドラマづくりをめざすのか、選択のときではないだろうか?
 春にせっかく「海がはじまる」で開いた新境地を追求してもらいたいという気持ちが残る。見ていると、いつも一定の部員数は確保できているのだから。

朝霞西高校「スナフキンの手紙」鴻上尚史・作
 料理しがいのある芝居だ(劇中にフライパンを持った後藤田が登場するから、というわけではないが)。
 朝霞でも春季発表会で1度(その頃は私はまだ志木にいたが)、新1年生のアトリエ公演で1度とりくんだことがある。その頃は春は特に時間制限はもうけていなかったから90分くらいにはなっていたと記憶しているし、アトリエはそもそもエンドレスである。だから60分芝居におさめるのはかなり苦労があったのではないか、と推察する。
 ただ、今回の朝西の芝居についていえば、かえって無駄をそぎ落とした、テンポのよいしまった芝居になっていたのではないだろうか? 幕開け早々から高速で舞台を駆け回る役者たちの動きで観客を演劇空間に引きこんでいく。
 キャンディー追跡の場面に突然サラリーマンが登場するシーンがある。昔、生徒が欲しいというのでドンデンを作ったが、朝西は大黒の前に置かれた黒ボックスにダークスーツをきた山室が後ろ向きに座っているというスタンバイの仕方で処理していた。その方がスピード感も出るし、十分成立していたと思う。
 さて、「理想の60年代」「内戦の70年代」「流血の80年代」(詳しくは忘れたが)という時代認識が示されたあと、「希望の90年代」が提起される。では自殺衝動も乗り越え、どのように「希望の90年代」に飛躍するのか? 「閉ざされた扉」という閉塞状況を打破するのか?
 もし、不満があるとすれば、サイコダイブしたあと到達した新世界で、面々にはもっと新鮮な自己と世界との出会い感が欲しかった。そうでなかければ新しい出発もあり得ないのだから。

朝霞高校「りんごの木の下で」カメオカマミ・作
 緞帳が開いて、ああ、よくここまで和室の一部屋を作り込んだな、というのが第一印象だった。あとから見せてもらうと畳の敷き方や柱の造作など、けっして丁寧ではないのだけれど、客席からは十分観賞に耐えるものだった。
 階段のつけ方には指摘があった。前の私の家でも2階はあとで建て増ししたこともあり、(居間ではなかったが)畳の部屋に階段がつくことになった(その部屋は納戸のようになった)。居間だと風の吹き込みが心配は心配だが、許容範囲かとも思う。だが、縁側の位置は約束事をしっかり決めておいて欲しかった。外にいた長女を室内に呼び戻したとき、縁側があるとされた面とは違う面から入ってきた。おい、そこは壁でTVが置いてあったはずだろう、と突っ込みたくなった。もう夜だし、遅れて玄関から戻ってきた長女が皆が空けておいた席につくことで全員がそろった、ということでよかったのではないだろうか?
 台本は審査員が二人とも評価なさっていたが私には無理すじに思われた。いくら寝起きが悪くても親にカッターを投げつける娘がいて、その親子関係や家族関係からこのようなストーリーが展開していくだろうか、と首をかしげた。その次女が父親にしかけたいたずらの始末がどうなったかも霧散ししてしまったし、フィアンセがもうすぐ訪ねてくるという直前になって美容院にでかけるという設定も、長女が居合わせないことによるドタバタのためのご都合と思われてしかたがない。
 それでも客席に一定の笑いが生まれたのは脚本の力というより演技の力だった、と何人かの方からはお褒めのことばをいただいた。まあ、こちらももっと作り込めるとは思ったが(と相変わらず朝霞には厳しめにいっておく)。

新座高校「お葬式」亀尾佳宏・作
 この演目については「女の子が抜けだして来たのは「知らない人が大勢集まって」「みな嘘泣きしている」のにいたたまれなかったからではないだろうか? 幼いために人の死を理解できないでいる、というのではなく、大好きだった祖父の死を受け入れられないでいるからではないだろうか?」というようなことを以前に書き、また「お葬式ごっこ」はその儀礼としての葬式をいったん無化し、真に人の死を悼み、弔うことの意味をもう一度問い直すということだったのではないか、とも書いたことがある。
 実はそのような考え方をするようになったのは、以前に同じ新座高校がとりくんだ「お葬式」を見てからなのだ。ところがその後、他の学校が上演した「お葬式」を見ると、どうも違っているような気がしてならなくなった。
 今回、新座高校の芝居を見て、その理由が分かったような気がした。今回の「お葬式」はその後に見た「お葬式」と同じなのだ。つまり、こちらの方が脚本そのままで、その意味でいったら前回見た「お葬式」だって脚本に忠実だったのには違いないのだが、生徒たちの演技がどこかで私の想像力と思考回路を刺激してくれたのだった。
 丁寧に芝居を作っていたし、演じていた。だが、そうするとやはり子どもの芝居になってしまう。それもかなり無理すじの子どもだったということになってしまう。(ああ、また亀尾氏の脚本を否定するような言い方になってしまった。)

新座柳瀬高校「Lonely my Sweet Rose」サン・テグジュペリ・作 稲葉智己・脚色
 2014年の秋に初演されている。その時、私は「感心したのは俳優たちのセリフの美しさだ。本当に美しい詩の朗読を聞かされているような酩酊感があった。」と書いた。
 台本はほぼ変わっていないのだという。しかし、私には一段と作品としての完成度が増したように思えた。役者の力量、ということではないと思う。前回も役者のレベルは相当に高かった。
 演出は変わったところがある。前回、王子は円錐形の台の中で蛇に咬まれて消えていったと記憶している。しかけはほぼ同じだが、今回はセンターで蛇にからまれ、暗転ののち、円錐形の台の中で現れる。あまり詳しく書いてしまうといけないのかも知れないが、バラが現れる場所も違った。
 エンディングの変更で芝居にドラマチックさが生まれたと感じたが、それ以上の変化があった。それは飛行士である。飛行士の受けの演技がみごとだったのだ。ほぼ王子の独白で進行していく芝居が受けの演技のおかげできちんと会話として成立していったのだ。飛行士がしだいに王子のことばに引きこまれ、その存在を「飼い慣らし」「飼い慣らされ」ていく様がみてとれたのだ。
 そのことについては照明効果も有効だった。飛行士の目に光をあたえ、表情に陰影をもたらした。だから、王子が消えたあとで飛行士が「王子様!」と嘆きの声をあげることの必然性も伝わった(ただし、声はもう少し抑え気味で悲しみが表現されていた方がよかった)。
 中央の台上の長身の地理学者も存在感があり、声も美声だった。バラ役の女子は確かはじめての女性役だったが、どこか投げやりな感じをよく醸し出していた。ヘビ役、キツネ役もきちんと役どころを果たしていたと思う。
  ※
 この地区段階での中央発表会への推薦のための候補校については、もう一つの地区の発表会がこれからであり、途中経過なので聞きはしたが公表および論評は差し控える。ただ、2日間を通して全部の上演を見せてもらった身として結果は順当であったと思う、とだけ言っておきたい。
  ※
 さて、今回は最後にnatsuさんとの交遊記のようなことを書いておきたい(きっと、何を勝手な!と怒られることだと思うが)。
 natsuさんが所沢から新座北(新座柳瀬の前身)に異動してきたのは私が志木に転勤になった1年後のことではなかっただろうか?
 最初のうち、私は演劇部には熱心でなかった。まったくの初心者で指導らしきことも出来なかった。新しい学校に定着するためにはまず学年にしっかりとりくもう、と思っていたし、実は学校図書館関係でも全国大会の開催をひかえていた。
 ところが異動3年目の夏、その全国大会準備の疲れもあったのか、私は大きな病気をして半年ほど休職し、学年も外れることになった。復帰後の冬、地区の顧問会議があった。次年度の常任委員が志木に回って来る番だったらしいのだが、立教のTさんが気を回してくれ、順番の変更を提案してくれた。そのとき、「ああ、いいよ」と気楽に引き受けてくれたのがnatsuさんだったのだ。
 その時までにも何度か顔を合わせているはずだったのだが、natsuさんという人物をはっきりと意識したのは初めてだった。それ以来の交遊のはじまりだった。
 その後、私の方は手術後の痛みや不具合からもそろそろと回復し、学年を外してもらったものの、もう少し生徒と関わり合いたいなと思い始めていた。演劇部には新入部員がなく、もと所属していた学年の3年生が3人ばかりいるだけだった。そこへ入試の面接で演劇部への入部を希望していた生徒と掃除監督で出会ったのである。その生徒は入学後、すぐには演劇部には入部しなかった。「あれ、君は演劇部に入部したいと言っていた子ではなかったっけ?」とたずねると、今でもやってみたいとは思っているという。そこで「一人じゃできないから誰かつれておいで」といったら、程なくして中学の同級生だという生徒と一緒にやってきたのだ。
 一方で常任委員を外してもらうという配慮をしてもらいながら、一方で顧問生活の続行(実質は開始)をはかるという。矛盾しているようだが、演劇部顧問としての人生も、西部Aとのかかわりもこうしてはじまった。
 それ以前は知らないが、西部Aの地区としての立て直しの時期であったようで、その中心になったのがnatsuさんだった。それも幸い?したのか、私としてはすでに出来上がった仲間の中に入っていくというより、最初から運営体制づくりの中に組み込まれていくことになった。反対にいえば逃げ隠れ出来ないことになった。
 とはいえ、初心者であることには変わりがない。natsuさんには本当にいろいろなことを教わった。照明の基本的な考え方からパネルの作り方、そして芝居のあり方・考え方、脚本の読み方から稽古の仕方……。私はすでに45歳をすぎていたが、natsuさんは私より若干年長であったから尋ねやすかったし、natsuさんとしても教えやすかったのだろう(覚えの悪い奴だとは思っただろうが)。直接教えてもらったことも多いが、照明の仕込みでも最初は綱元などを任されながら「見て」覚えたことも多い。
 後年のことになるが、数年前に定年となったAさんから「Sさんは他校の生徒のことも同じように考えてくれたり、相談にのってくれた。」ということばをかけてもらった。ヒアリングやリハーサルなどでの立ち位置などもnatsuさんから受け継いだスタイルだ。「昔は自分のところのことしか考えいなかった。今はその罪滅ぼしだ。」というのが口癖だった。
 「(演劇部以外の)他のところで出会ったら、きっとお互いに何てヤツだ、と思い合っていただろう。」というのも口癖だった。だが、お互いに酒好きだというところでは気が合った。お互い現役だったころは、ことあるごとに居酒屋通いをした。他にも声をかければお仲間が大勢集まって来た。
 natsuさんは自分はやさしくないという。だが、他人にやさしくない人間がいっしょに酒を吞むことを好んだりはしないものだ。確かに大いに頑固で、少々?怒りっぽく、歯に衣着せぬところはある。だが、後腐れのないところもあって、相手がいい芝居を作れば過去のいきさつは抜きにして讃辞を送るというような場面には何度も遭遇している。
 相手を見てものをいうことを知っているのはもちろんである。私も志木にいるときより、朝霞に移ってからの方がきつい言われ方をした。朝霞をあずかったならもっとしっかりしろ、と言いたかったのだろう。当初はいろいろ難題もあったから、かえって励ましのことばと受け取った。それでも、私が初めて中央発表会への出場を決めた芝居のとき、バラシの最中に「段取りはみんな決まったね」とニコニコしながら声をかけてくれたのを印象深く覚えている。
 こんなことを書き出したのは、このところ何回か触れている西部A地区との接し方についてである。幸い古くからの付き合いの人も、新しく顔なじみになった人も、我々が行けばあたたかく迎えてくれる。打ち上げの席にも招待してくれる。だが、ときどき、このままでいいのかと思わないでもないのである。natsuさんの観察眼は変わらず鋭く、せっかくのチャンスがあるなら聞かなくては損だと私などは思うのだが、やはりヒアリングでさまざまな助言を得たり、ライトを吊ってもらったり、ときには同じ悩みをかかえる同志としての一面をみたりという関係性が薄れていくと、なかなか素直に耳を傾けてもらえないという場面も増えているのではないかと感じているのである。いつか、そんなことをゆっくり話合ってみたいと思っている。(書き過ぎも多々あっただろう。しかも、ながながと。natsuさんごめんね!)


# by yassall | 2017-09-26 02:28 | 高校演劇 | Comments(4)

近江丹後若狭の旅③長浜・彦根城

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 最終日のホテル発は10:00。この日の日程である長浜街歩きの店開きや彦根城の開園を待つためだろう。朝、時間に余裕があったので、琵琶湖湖畔を散策する。写真は宿泊した長浜ロイヤルホテル。
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 長浜・大手門通りの入口に掲げられた額。描かれているのは曳山祭で演じられる子ども歌舞伎である。
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 オルゴール館だとか巨大万華鏡だとかにはまったく興味がなかったので、まず街中を歩いてみる。
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 曳山博物館とあるのが目にとまった。ここに入ってしまったことで時間を食ってしまった。
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 とはいえ展示されている山車は見ごたえがあった。さすがは日本三大山車祭のひとつである。
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 山車の制作には仏壇づくりの技法が生かされているいう。
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 つぎに訪れたのは長浜別院大通寺である。山門は威風堂々としている。
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 本堂も堂々たるものである。大通寺は真宗大谷派の寺である。
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 土足厳禁とはあったが入場禁止とはなかったので中ものぞかせてもらう。同じ真宗でも大谷派と西本願寺派との荘厳の違いは黒塗りの柱に金箔を施したのが大谷派、柱を金箔で覆い尽くしてあるのが西本願寺派と聞いたことがある。仏壇はお内仏という言い方がある通り、本来は家内に置かれた寺院である。真宗独特の金仏壇もおなじ荘厳になっている。
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 集合時間が迫って来てしまったので街中の風景を楽しみながら帰路につく。
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 あまり観光地ずれしていないところが気に入った。土産物屋ばかりが軒をつらねているとそれだけで興ざめしてしまうものだ。
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 駐車場脇の豊国神社。長浜は秀吉に縁の深い土地である。江戸時代は幕府をはばかって、表向きは恵比須宮として建てられたが、土地の人々の信仰を集めたという。
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 彦根城には佐和口(左側)から入る。最初に見えてきたのは馬屋である。城内に残る馬屋は彦根城にしかないという。
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 馬屋に面して内堀が掘られている。奥手が表御門跡で入口になっている。

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 入口を入ると急な山切崖になる。威厳を見せつける城というより実戦に備えた城であることがここでも知れる。
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 その山切崖を登っていったところに見えてくるのが天秤櫓である。
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 容易には城内に入り込めないように、まず左に折れ、回り込んだところで橋を渡る。戦さのときは橋は落としてしまうことになっていたともいう。
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 天秤櫓をすぎてほどなく天守閣が見えてくる。本丸に到るにはさらに太鼓門をくぐらなければならない。
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 天守閣には登らないつもりでいたのだが、再訪することもないかも知れないと思い直し、行列について登った。眺めはあまりよくなかった。写真は天守閣の裏手に回ったところ。なかなかのバックシャンである。
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 時間がなかったので西の丸には向かわず、黒御門方面へ降りていく。急坂でいかにも要害堅固という感じである。
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 黒御門を出たあたりの内堀。静かないい雰囲気である。

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 井伊直弼生誕の地なる石柱が立っている。
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 玄宮楽々園はもと彦根藩の下屋敷であるという。建物部分が玄宮、庭園部分が楽々園として公開されている。
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 この庭園がなかなかの造営であった。天守閣で時間を潰したのが悔やまれた。
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 大急ぎで撮影ポイントを探ってみる。
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 回遊式庭園らしくいろいろなアングルから絵づくりが出来そうだ。
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 このへんでタイムアップか。楽々園をあとにし、この旅も終わった。

 G8+12-60mm、RZ4000



# by yassall | 2017-09-22 18:38 | 風景 | Comments(0)

近江丹後若狭の旅②三方五湖・天橋立・伊根の舟屋

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  2日目のホテル発は8:00。けっこう慌ただしい。関東から出張っている頭からすると距離感がつかめないが、滋賀を出て福井に足を踏み入れ、若狭湾沿いに丹後半島まで行ってしまおうというわけだから、この日一日だけでも大旅行なのである。
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 パノラマ撮影で。三方五湖とは三方湖・水月湖・菅湖・久々子湖・日向湖をいう。以前にも書いたが、淡水湖あり、汽水湖ありということらしい。この日の天候は晴れといっていいと思うが、遠望するとかすんでいる。肉眼の方がもう少し見え方は鮮明だった。
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 レインボーライン山頂公園にはさまざまなオブジェが陳列されていた。
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 登りはケーブルカーを使ったので降りはリフトで。眼下に広がるのは若狭湾である。
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 丹後鉄道宮津線(宮舞線)の四所駅に着く。途中、大飯原発は見えなかったが、このあたりだなと察しはついた。舞鶴港は車窓からみえた。
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 短い区間ながらここから栗田まで鉄道旅の雰囲気を味わおうというわけである。盛りだくさんなことだ。
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 栗田駅から再びバスに乗車。天橋立を観光する。
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 展望台のあるさ山頂は遊園地になっている。子ども向けなのだろうが、この飛龍観回廊はなかなか面白かった。
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 こんもりとした杜に囲まれているのは智恩寺。日本三大文殊のひとつだそうである。バスはその脇の駐車場にとまっている。下の方に見える線路が宮舞線である。
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 せっかくなので文殊の智恵にあずかろうと参拝する。
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 本堂である。
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 境内の様子。正面が多宝塔である。
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 無数につり下げられているのはおみくじ。扇形をしているのがめずらしい。
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 この日の最後の訪問地は伊根の舟屋。観光船の発着所である。
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 伊根湾に入っていく。生け簀にはたくさんのカモメが群がっている。
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 こうした舟屋が湾内をめぐるようにして建てられている。
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 望遠でアップしてみる。
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 赤い鳥居やお寺のお堂もみえる。土着の信仰をあつめているのだろう。


 G8+12-60mm、ZR4000



# by yassall | 2017-09-22 10:37 | 風景 | Comments(0)

近江丹後若狭の旅①近江八幡

 もう1月前のことになってしまったが、せっかくなので写真だけでもアップする。8月20日、朝8:30に新宿を出発して最初の観光地・近江八幡に到着したのは15:30を過ぎたころだった。
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 市営の観光駐車場でバスを降り、最初に向かったのが日牟禮八幡宮。時間内で行ける一番遠くまでまず行ってしまおうというわけだ。
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 境内に入ると能楽堂などもあり、なかなか立派な構えである。
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 正面が本社かと思ったらこれも舞台になっていた。このような造りは初めて見た。
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 舞台の奥が本社であるらしい。この他にもいくつか末社があった。
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 八幡宮と橋をへだてて向かい側に位置しているのは白雲館。1877年に建てられた八幡東学校を復元したものだという。
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 八幡堀。ここを撮影スポットと定める。
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 石畳に降りて川べりを散策する。
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 船着き場。今も使われているかどうかは分からない。観光船は出ていた。
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 落ち着いたたたずまいである。
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 近江八幡を開いたのは豊臣秀次。安土城に集められた商人たちが移り住んで来たことから一大商業都市として発展したらしい。西川甚五郎邸とか、森五郎兵衛邸とか、かつての近江商人として名をなした人たちの屋敷が保存されている。
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 時間が遅かったせいもあるのだろうが、いくつか開いていた商店も早々に店じまいしてしまった。あまり観光地らしくないところが気に入った。
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 旧伴家住宅とある。八幡教育会館という表札も掲げられていたから、何かに利用されているのかも知れない。
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 朝鮮人街道と刻まれた石碑が建っている。江戸時代の朝鮮通信使が通行したことに因んでいるとのことだ。
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 メンタームの本社は近江八幡にある。この件については興味深い話があった。日本でメンソレータムを製造・販売し出したのはアメリカから英語教師として招かれたウィリアム・メレル・ヴォーリズであった。キリスト教の布教の意志を持っていたヴォーリズは、その経済基盤を得るため製薬会社を設立したが、ほどなく経営危機に直面した。そこでメンソレータムの製造・販売の権利をロート製薬に売却。その後持ち直して、権利を買い戻そうとしたが失敗。そこで商品名をメンタームに変更して販売を再開したというのである。ちなみにロート製薬のメンソレータムはリトルナース、近江兄弟社のメンタームは羽根飾りをつけた少年がトレードマークになっている。ヴォーリズは終生近江八幡にとどまり、名誉市民となった。
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 宿泊地は長浜温泉は琵琶湖湖畔に立つロイヤルホテル。1人でツインルームを独占という贅沢をした。写真はホテルの窓からみた夕暮れの琵琶湖である。

 G8+12-60mm、ZR4000


# by yassall | 2017-09-21 15:44 | 風景 | Comments(0)