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又吉直樹「劇場」

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 通常1万部のところ4万部印刷したが、たちどころに完売したらしい。近所の本屋へ行ったときには売り切れだった。その後にもう1万部増刷したと聞いた。今度は買いそびれないように急いで本屋へ行った。

 瞼を閉じても瞼の裏側の皮膚は見えない。これは嘘だと分かるから作り物感は残る。だが、作品全体を予感させるような巧みな書き出しだと思った。終いまで読み終わって、この感慨はいつの時点のものだろう、とまた考えこんだ。

 青山という「僕」とは異質な存在を挿入したことで小説として成功した、と思った。青山の書いた小説を「嫉妬で感情的に読んでもうたかも知らん」から「もう一度読んでみる」という「僕」に、青山は「永田さんが自分で思っているほど私にとって永田さんの評価って重要じゃないから」と、多分に棘を含んだ言い方ではあるものの、過去にわだかまりのないことを伝える。それでも「僕」は「いや、絶対読む」と答えさせているところで、「僕」は変わったと思った。その前のメールのやりとりでは、「お前の思考には人間が変化するという当然の節理が抜け落ちている」といっている。本当は、これは「僕」が自分に対して突きつけた言葉ではないのか? つまりは「他者」ときちんと向き合えるかどうかであり、はね返ってそれは「自己」とどう向き合うかという問題であろう。

 もう一度、書き出しにこだわってみる。「僕」が見ようとしているのは「風景」=世界なのか、「瞼」の裏側=自己の内面なのか?
 「変化」という言葉は冒頭部分にも出てくる。高校時代、心斎橋の小劇場ではじめて小劇団の芝居に触れたとき、「客席で観ている自分自身の内部にまで変化をもたらすことが面白くてしかたなかった」という。だが、この時点で「僕」に自分がつかめていたとは思えない。沙希と出会うころの「僕」の自己認識は「肉体を使いこなせていない虚弱な幽体」であり、「知らん人と話す」のが苦手で、「頭の中で言葉はぐるぐる渦巻いてんねん。捕まえられへんだけ」と告白する。自分の尾を追いかけて同一箇所を回り続ける子犬を想起させる。あるいは自分の尾を飲み込もうとする蛇のようとでもいうのか。未熟さ、またはグロテスクさを感じる。
 決して否定的に述べているのではない。言葉にならないものを言葉にしてみようとすること、見えないものに輪郭を与え可視化していくことを避けたら文学ではない。又吉は文学に挑んでいるのだと思った。ありきたりの表現を剥ぎ取って、どれだけ根源に迫ることが出来るのか、読者として見届けてやろう。グロテスクであるのは当然である。

 言葉にならないものを言葉にしよう、見えないものをみよう、というのだから、最初はつきあうのもつらかった。なかなかストンと落ちてこないから、読むスピードも上がらなかった。新しい表現は作り物と紙一重である。
 恋愛小説を書こうとした、というが、これは恋愛小説といえないという気がした。「僕」は沙希を「支配」しようとし過ぎたというが、「支配」というより「独占」であり、独占し得ていないという焦燥が「嫉妬」となって噴きだしている、という感じである。つまり、相手には常に自分の方のみを向いていて欲しいという承認願望ではないのか? しかし、恋愛とは相手を「支配」するというより、相手に「支配される」という感情に近いはずだ。これを「純粋」とはいわない。目の前にこのようなカップルがいたら、青山と同じように私もすぐさま別れることをすすめる。
 自己愛の投影、しかも相手に映し出されることによって、かろうじて自己を保持できるという構造。「僕」自身がもてあまし、振り回されている。

 NHKスペシャル「又吉直樹 第二作への苦闘」を私も見た。又吉が「人物たちが作家の手を離れて勝手に動き出すのを待っている」というような意味のことを語っていた。「動き出した」という言葉はなかったが、後半に入ると明らかに文章の速度感が変わってきた。
 「火花」を読んだとき、この作家は文章は書けるが「物語」は書けない、という印象を持った。大きな「物語」は書けていないが、今回は小さな「物語」は書けていると思ったし、さきほどの恋愛小説の問題にもどれば、もしかするといたるところで孤立化を深める現代青年をめぐる事情からすると、けっこう核心に迫っているのかも知れないと思い直した。
 それはむしろ沙希が動き出すことによってはじまった。沙希は「永くん一人で大丈夫?」と東京を去る直前に「僕」にたずねる。客観的には「従属」でありながら、その自分がいなければ相手はダメになってしまうのではないか、と考えるのは、自分の存在意義=居場所を相手の内側に見いだしているということだろう。少し健康を回復し、部屋の撤収のために上京した沙希は「私ね、東京来てすぐにこれは全然叶わないな。なにもできないなって思ってたから、永くんと会えて本当に嬉しかった」と語る。だが、沙希はそれを「何か吹っ切れたように」言ったのであり、沙希は変わったのである。
 沙希が「私の宝物」という昔の脚本を読み合わせるところからはじまったアドリブで、沙希は「あんたなんかと一緒にいられないよ」というセリフを発する。「僕」は「何かを消すためではなく、背負うところから沙希の言葉を聞きたいと思っていた」と書く。沙希と「僕」とは切り離され、ようやくにして対の関係が生まれる。「僕」も変わったのである。
 ラストまで読んでも、それが出口となったかどうかは分からない。「日常が残酷だから小説を読んでる時間くらいは読者に嫌なことを忘れてもらいたかったんだ」は青山の言葉である。「僕」は実は「ハッとした」という。だが、同調したわけではあるまい。そのギリギリのところで又吉はこれを書いたのだなと思った。

 「劇作家」という設定には苦しいものがある、と思っていた。だが、随所にあらわれる演劇論はけっこう面白かった。「自分のなかのどうしようもない感覚や摑み切れない感情に無理やり形式を与えたりせず、その奇妙は形のまま表出してみる」などという箇所と出会うと、自分で脚本を書いたことがあるかどうかはともかく、少なくともいろいろな芝居を観ているのは確かだろうと思った。かといって、そのような演劇がメジャーになっていくとは思えないが。


 又吉は大阪出身であるが、出自は沖縄であるらしい。彼の持つ疎外感や孤立感は思いの外、複雑であるのかも知れない。これは又吉の「東京物語」ではないか、という勘も働いたが、もうここでは触れない。


by yassall | 2017-04-03 19:42 | | Comments(0)
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