憲法9条を守ろう!原発から撤退しよう!

 憲法改悪反対!原発撤退!これだけは巻頭から外すわけにはいかない!(その理由は口上で)
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ご案内
 たいがいが趣味(夏炉冬扇?)のブログですが、ときに真面目?になって、つい一言もの申したり、語ったり(竹頭木屑?)しています。多少とも関わりのあった「学校図書館」や「高校演劇」についても応援していきたいとカテゴリを設けました。初心を忘れず、ということで「国語・国文」を起こしましたが、あまり更新できずにいます。他は、最近何してる?は「日誌」に、何か考えてる?は「雑感」に、という塩梅です。
 あ、写真をご覧になっていただけるかたは主に「風景・散歩」のカテゴリーに!

この一枚

 通称バラ屋敷Y邸の生垣のバラ(5月12日)
 

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# by yassall | 2018-12-31 23:59 | お知らせ | Comments(0)

旧古河庭園ライトアップ

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 20日、旧古河庭園へ出かけて来た。春のバラの季節、開館時間を延長し、ライトアップを行っているのを知った。
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 以前から恒例になっていて私が知らなかっただけなのか、つい最近になってはじまったのかは分からないが、もともと今年もバラを撮りに行こうと思っていたし、時間帯によってどのように変化していくか、比べて見るのも面白いと思ったのだ。
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 昼光のショットである。光によって花びらが透けてしまいそうだ。
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 陰影が強調される。光を受けたところは輝くようである。ただ、コントラストがきつすぎる嫌いは確かにある。
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 館内の喫茶室で休憩をとっているうちに夕暮れ時になる。外へ出て撮影を再開。今度は光が回ってやわらかい絵になる。
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 その分、ピントが甘くなる印象があるが、形状よりも色彩に重きをおくなら、花の撮り方としてはそれもありだろう。
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 19:00も過ぎたころ、いよいよライトアップ効果が出て来て雰囲気も高まってくる。
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 傾斜地を活用したバラ園を見おろしたところ。ふむ、どこがどうなっているんだか分からない。
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 花壇に小さなライトを何灯もしかけて一輪もしくは数輪を照らし出している。
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 暗闇の中に花影が浮かびあがるというような趣向であった。

 GM5+12-60mm



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# by yassall | 2017-05-23 00:31 | 散歩 | Comments(2)

今年もはじまります! コピスみよし第16回高校演劇フェスティバル

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 5月16日、コピスみよし2017/第16回高校演劇フェスティバルの出演校打ち合わせ会・会場下見が実施されました。今年もスタートしました。
 今年の出演校は県立坂戸高校、朝霞高校、新座柳瀬高校、朝霞西高校、星野高校、東京農大第三高校(出演順)の6校です。本番の6月18日(日)まで今日のワクワク感を持ち続け、観客の皆様に届けて欲しいと思っています。
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 出演校紹介、全体説明のあとはいつものように各校毎の会館スタッフの方々による説明と質疑。コピスのスタッフの皆さんはとてもていねいにアドバイスしてくれます。
 演目や細かな日程、バスの時刻表などは下記のチラシをご覧下さい。大勢の方々のご来場を心待ちにしています。
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# by yassall | 2017-05-17 20:22 | お知らせ | Comments(0)

共謀罪法案廃案へ!5.12議員会館前集会

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 5月3日の憲法集会には出られなかった。「共謀罪」が風雲急を告げる中、歯がゆい思いでいたのだが、12日には時間が取れそうだったので総がかり行動実行委員会のHPを閲覧すると、あたかも国会連続行動の最中で、この日も昼から行動が計画されていた。したがって私は途中参加ということになるが、18:30からの議員会館前集会に参加してきた。
 それにしても国会審議をチェックしていると、答弁不能で無能な人物をわざと法務大臣にすえたのではないかと思えるくらい、審議が深められる様子はない。たぶん、「一般人は対象にならない」(ただし、突然の変化によって対象となる)という検証されない答弁で押し切り、30時間で討論打ち切り、維新の会の修正で合意できたので採決強行というねらいではないだろうか?
 つい最近、首相は「九条改悪」を公然と目標にかかげた。1、2項は変えず、3項に「自衛隊」を明記する、という、これまで「国防軍」を創設するとしていた自民党草案とも整合性のない、思いつきのような発言だった。しかし、国会でろくな審議もせずに「共謀罪」を強行採決しても、「九条改悪」を唱えても、国民はたいして騒ぎ立てることもないだろうとはずいぶんと甘くみられたものだ。
 「共謀罪」は戦前の治安維持法の復活と危ぶまれている。その先に「九条改悪」が待っているとすれば、戦前回帰というのも杞憂ではない。来週がもっとも危険であるとの情勢説明があった。下は集会で配られた行動予定表である。まだ身動きできるうちに反対の声をあげていきたい。
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# by yassall | 2017-05-12 21:34 | 日誌 | Comments(0)

小石川植物園

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 天気がよいのでどこかへ出かけたいと思っていると、今年はまだ神田明神詣でをしていないことに気がついた。毎年4月を初詣と決めているのだが、今年はあれこれあってのびのびになっていたのだ。まだ行ったことがないところへとも思ったが、行きそびれてはと出かけることにした。せっかくなので茗荷谷で途中下車し、善仁寺を回って、小石川植物園(東大附属植物園)に寄ることにした。
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 正門をくぐってすぐ左に曲がる。低地帯には池があったり、水たまりがあったりする。水辺の植物が植えられている。
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 まっすぐ進んで行き止まりに見えてくるのが旧東京医学校本館。映画「外科室」のロケに使われた。小石川植物園にくるたび写真を撮る。プリントして過去の写真と比較してみようと思う。
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 階段を昇って高台側へ出ると樹林帯になっている。
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  季節がら緑が美しい。
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 2014年の埼玉県高校演劇中央発表会で創作脚本賞を受賞した川越高校の「いてふノ精蟲」の題材となったイチョウである。阿部哲也さんもこのイチョウを見に来たのだろうか? 案内板には「1896(明治29)年平瀬作次郎はこの雌の木から採集した若い種子において精子を発見した。」として、その偉業を讃えている。
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 根元から樹上を見上げたところ。
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 全景はこんなふうである。
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 柴田記念館。この建物の扉が絵になりそうなので何回か挑戦しているが、あまり成功したことがない。この日はパスした。
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 神田明神に回る。連休中だからか、神田祭が近いからか、山車や御輿が開帳されていた。
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 江戸総鎮守であること、平将門を祀っていることから神田明神に足を運んでいる。参拝をすませ、裏手に回ってお札を納めた後、末社にならんで開帳されていた御輿を見せてもらった。
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 この日はお茶の水からさらに半蔵門へ出るつもりでいたのだが、時刻も遅くなってしまった。駿河台へ出てニコライ堂だけ写真に撮った。駅前の丸善によって帰路についた。

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# by yassall | 2017-05-06 15:32 | 散歩 | Comments(2)

ミュシャ展  普遍的なものと「ナショナルなもの」と

United Nationsが複数形になっていなかったので訂正しました。ああ。(5月7日)

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 ミュシャ(ムハ)の「スラヴ叙事詩」を見た。ミュシャがその後半生を捧げながら、歴史の激動の中で一度は埋もれてしまいそうになったこの絵を、日本にいながらにして見られるというのは本当にすごいことだ。
 連作「スラヴ叙事詩」は1918年のチェコスロバキアの独立以前からプラハで描き始められている。だが、ハプスブルグによるハンガリー・オーストリア帝国の衰退の中で、チェコの独立運動の高まりがなければこの絵は生まれなかっただろう。
 絵の前に立ちながら、私はずっと「ナショナルなもの」について考えていた。というより、「ナショナルなもの」を考えようとして絵を見に行った、といってよい。
 ナショナリズムについては、柄谷行人の「ネーションとは失われた共同体の想像的回復である」(『世界共和国へ』)を唯一の拠り所にしてよいと今のところ考えている。実際、人種・言語・文化・宗教といった標識では民族としての統一性あるいは個別性を証明することは出来ない。現在、フランス語、日本語と呼ばれているものは国民国家の形成の過程で作られた(せいぜい統合された)しろものなのである。
 もし民族としての一体性の拠り所となるものが存在するとすれば、それは物語に他ならないだろう。物語の共有は歴史の共有であり、運命を同じくする、永続性の証明である。ミュシャが「スラヴ叙事詩」の制作を自らの使命としたことは当然の帰結だった。民族としての一体性や尊厳の表象としようとしたのである。
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 意識してクラッシックを聴いていた時期があった。マーラーなんかは名前から入った方で、「4番」と「大地の歌」あたりは何とかついて行けるが、他は難解すぎて理解できたとはいえない。モーツアルトよりはベートーベンの方だから、純粋に音楽にひかれるというより、どこか文学を求めていたのかも知れない。
 あれこれ聴いているうちに、いわゆる国民楽派と呼ばれる人々の音楽に強くひかれていることに気がついた。ロシアのムソルグスキーやリムスキー・コルサコフ、フィンランドのシベリウス、そしてチェコのスメタナ、ドボルザークといった人々の音楽である。
 音楽に詳しい人と話をすると、これらの人々の音楽は西洋音楽の正統からすると外れているところがあるのだそうだ。展開上、次にはこの音が出てくるはずだ、というところで違っているのだそうである。
 図式的になってしまうが、ヘレニズムとヘブライズムを二本の柱とする西洋文明は、合理・均整・秩序を重んじ、明晰であること、完成されていることを求め、普遍に向かおうとする。だが、私たちが知る一般論としての狭義の西洋文明に対して、広くヨーロッパを見渡したとき、それとは全く異なる一面を見るときがある。
 ゴシックは北ヨーロッパの教会建築からはじまったという。その後、ヨーロッパ中に広まったから、私たちは西洋建築の一典型としてみる。しかし、最初は「ゴート人の」という侮蔑的な言い方であったという通り、ローマ様式からみると際立って異質なのだという。装飾が過剰で、必ずしも左右対称でなく、歪であって平然としているというのである。
 音楽の話にもどると、国民楽派はロマン主義の影響からはじまる。ロマン主義は普遍よりは個性を重んじる。個性は個人から民族へと展開する。個人に個性を付与するもの、根拠となるもの(identity)がなければならないからだ。乱暴に言ってしまえば、ナショナリズムの根源にはロマン主義があり、もともと熱狂、混沌、昇華、蕩尽といった性格を帯びるのだ。
 国民楽派はロマン主義と土着が結びついたところから起こった。スメタナは「我が祖国」を遺し、ドボルザークは「スラヴ舞曲」が認められたことから作曲家として世に出た。

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 ヤン・フスは宗教改革の先駆者とされる。昔、学校の世界史で習った宗教改革はルターにはじまるとされたが、中東欧ではフスの方がはるかに重要な人物である。西洋史のおさらいをしなければならないときにしばしば登場する。フスはチェコ語で説教を行った。フスが異端と宣告され火刑に処せられたことから、20年にわたるフス戦争が始まった。フスの再評価は19世紀の民族復興運動の大きな原動力となった。「ベツレヘム礼拝堂で説教するヤン・フス師」でミュシャは自らモデルをつとめたという。写真は「イヴァンチッツェでの兄弟団学校」の右側画面。小屋の中では初めてチェコ語に飜訳された聖書が印刷されている。

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 連作をみていて気がつくのは前景に必ず名もなき民衆の姿が描かれていることだ。何点かの重要な戦いを描いた絵でも、戦闘場面は避けられ、戦争が終結した後の情景が多い。したがって、戦う勇士たちという姿はなく、将軍や指導者たちは中景もしくは遠景に小さく描かれ、むしろ犠牲者や難民となった民衆たちがていねいに描き込まれている。

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 写真は「スラヴの菩提樹の下でおこなわれる「オムラディナ」の誓い」の左前景に描かれた少女である。ミュシャの娘がモデルだという。
 アール・デコはアール・ヌーヴォーの過剰な装飾性に対する反動から起こったという。アール・ヌーヴォーの旗手であったパリ時代と「スラブ叙事詩」との断絶がいわれるが、その間をつなぐものがあったことを思わせる。植物文様による装飾は共通していると思われる。ただ、人物の表情はまったく異なる。パリ時代の洗練、気取り、甘美さといったものは影をひそめ、代わって、その眼は鋭いばかりに生命的な力を宿している。

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 「ロシアの農奴制廃止」の前景に描かれた母子。連作に描かれているのは必ずしもチェコとは限らず、ポーランドやハンガリーを舞台にした作品もある。汎スラヴ主義ということなのかも知れないが、ミュシャの場合、たとえば汎ゲルマン主義との対抗といった軸で民族的な一体性を確保しようというのとは違うようだ。
   ※
 「ナショナルなもの」は確かに自分の中にも存在する。一方でボヘミアン的な無国籍性や放縦なまでの自由にも憧れがある。私の場合、それくらいいいかげんなものだが、、たとえばパリに渡った藤田嗣治は帰日した太平洋戦争の最中には盛んに戦争画を描いた。柄谷行人はネーションは人々を「永遠」なるものに導くという。民族が永遠であるためには個人の命までも差しだそうという狂信がナショナリズムには潜んでいる。
 だが、自由や平等といった人類にとっての普遍的価値といったものも、私は捨てがたく思うのである。今日であれば平和、公開、参加、共存、自然保護といった価値も人類的に共有されなければならないと思う。
 国際連合の英語表記はUnited Nationsであり、第二次世界大戦中の連合軍も同じUnited Nationsである。ここからも国連の元になったのは連合軍であることは明らかで、国連は戦勝国による新たな世界秩序の維持を目的としているに過ぎないのだ、という見方をする人々もいる。「東京裁判」批判といったものもそこから出ているのだろう。
 しかしながら、各国を連合軍に結集させる元となった「英米共同宣言」(大西洋憲章)は、①領土不拡大、②民族自決、③政府形態の選択のための人民の権利、④恐怖と欠乏からの自由の必要性などを謳い、ヴェルサイユ平和条約を引き継ぐ内容だった。このような戦後構想を示すことによって国際世論を統合し、連合軍は結成された。戦争終結後に国連が創設されたのはその連続として当然だったのである。
 普遍的な価値としての人類的なものとナショナルなものとは、ついに相対立するしかないのだろうか? あるいは、あたかもジギルとハイドのように、人類はその歴史の中でその二つを交互に出現させるように定められているのであろうか?
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 「スラヴ叙事詩」の最終章は「スラヴ讃歌」である。画面中央右に描かれている国旗は第一次世界大戦の戦勝国の旗だという。民族の独立は戦争を避けては得られなかった。だが、ミュシャは戦争を描いても英雄たちの物語としては描かなかった。流された血を讃えるという描き方はしなかった。
 「スラヴ讃歌」においても、人々は解放の喜びを全身で表現していると同時に、長い戦乱の末の和解を讃えているように見える。少なくとも自民族さえ幸福であればそれでよい、という排外思想とは無縁であるように思われる。先の問いに対する答がここにあると思った。
(1993年のチェコ共和国とスロバキア共和国の分離はビロード離婚と呼ばれ平和的に成立した。民族の自立と共存・共栄の両立への模索があったのではないだろうか。)


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# by yassall | 2017-05-04 18:37 | 日誌 | Comments(0)

2017年春季西部A地区演劇発表会

 4月29・30日、2017年春季西部A地区発表会が朝霞コミュニティセンターで開催された。1日目が9:30開場で和光国際、新座総合技術、朝霞高校の3校、2日目が9:20開場で朝霞西、細田学園、新座、新座柳瀬高校の4校が上演した。
 2日間で7校上演ならずいぶん余裕があるな、と一瞬感じたが、各校の生徒・顧問は両日とも朝8:30には集合ということになっていただろうし、学校によってはもっと早い時間に学校集合がかかっていたところもあるだろう。現役時代、私の学校でも「朝通し」が慣例になっていて6:30だったかに集合していた時代もあった。(その後はメイクだけになって、少し集合時間が遅くなった。)
 そういうわけだから、見に行くだけの立場の人間は気楽なものである。1本の芝居を上演にまでこぎつける稽古の日々と(たぶん一直線に進められたわけではないだろう)、2日間の運営にあたるご苦労とに対するリスペクトを忘れないように心がけながら観劇した。まあ、そのためには楽しんで観させてもらうのが一番だと思いながら。

 和光国際高校「さいまじょ・メランコリア」萩原康節・作
 キャストリストをみると3年生はほぼ総出演。春の発表会は3年生の総決算公演でもあるのだ。卒業をひかえ、「三送会」で自分たちなりのメッセージを送ろうと、共鳴した後輩たちとともにダンスを踊る卒業生たち。ストーリーの展開がなんとも強引だなあ、と感じたが、どうやらアイドル・グループ欅坂46の「サイレント・マジョリティ」という曲を振り付けつきで踊りたい、というところから出発したらしい。私のような年齢の者には、どこかで聞いたことがあるかも知れないなあ、という程度の認知度であったのでネットで調べてみた。この歌詞が現代の若者たちの心をとらえているのだとしたら興味深いことだと思った。
 分かりやすくするためか、人物造形が類型に傾いているのが気になった。理事長がその典型だが、その口から吉本隆明の名が飛び出したのには驚かされた。吉本隆明をリュウメイと呼称するのはある特定の年代の人間まで、という思い込みがあるのだが、この理事長に吉本隆明を読み込んだ時期があり、その自分の思想を破棄するに到った過程があったのだとしたら、そこのところが深められていたら面白いのにと思った。まあ、そういう芝居ではないということなのだろう。

 新座総合技術高校「海がはじまる」曾我部マコト・作
 いつもは創作劇で独特の舞台空間を作ろうとしてきた新座総合が、今回は既成台本で臨んできた。少し前から、きちんと客席に届けようという意志とその力を感じるようになってきたが、今回の公演で1段も2段もステップアップを果たしたと思った。
 脚本がよかった。あとから顧問の先生に伺ったら、サツキを演じた生徒の提案だという。昨年あたりから舞台映えもよく、身体もよく動き、声も出る生徒だな、と注目してきた。彼女なりに芝居もよく見、本もよく読んだのではないだろうか?
 ボートレース大会の接待係に割り振られ、開会を待つというところからはじまるのだが、しだいに何が真実で何か嘘であるか分からない会話を通して、それぞれの抱える事情と人間関係が明らかにされる。かなり難しい芝居だと思うが、他のキャストもみごとにはまって、よく演じきった。余分な身振り手振りが多かったのが気になったといえば気になったが、思い入れたっぷりになりすぎて芝居を壊してしまうなどということもなく、脚本の心を摑んでいた。


 朝霞高校「酔・待・草」竹内銃一郎・作
 現役時代、やってみたいと思いながら果たせなかった作品。かなり苦心している様子がもれ伝わってきたが、よくぞ板に乗せてくれたというのが実感である。
 キャストに3年生は1人しかおらず、他の5人はみな2年生である。2年生はこの芝居づくりを通して演技を学んできたということになるのだろう。まだまだ勘違いしているところもあるかも知れないが、以前を知っている身としてはずいぶん役者らしくなってきたなと思う。
 ただ、私が原作を読んだのはずいぶん前だったから、細部は忘れてしまっていた。原作では田舎道にぽつんと電話ボックスがあるという設定になっているのに、携帯電話にしてしまったのは誤りだという指摘があった。確かに携帯電話だと時代設定に矛盾してくる箇所があるのは間違いない。
 ただ、電話ボックスを置くとしたらリアルさがなければ漫画になってしまうだろうし、作成するにしても、どこからか入手する(当たってみる価値はあるかも知れないが)にしても、相当に困難だろう。また、2017年にこの芝居をやるというとき、携帯電話に置き換えることによって生まれる効果というのもあるのではないかとも考えるのである。
 電話機を通して誰かと繋がっている可能性、あるいは誰とも繋がってはいない可能性、そして繋がるといったとき、空間ばかりか時間的な距離さえ超えてしまう可能性といったような。何しろ携帯電話は個体として切断され、電線ですら繋がっていないのだから。
 というわけで、私としては携帯電話に置き換えることで原作に対するリスペクトを欠いているとまでは思えないし、ましてや電話ボックスが手に入らなければこの台本をやるべきではないというのとは違うと思うのだ。
 ただ、カスミが立ち上がったとき受話器を手にしていた方がいいとは思うし、「証人」云々のところの処理が必要になるだろうが、マングースはバスケットの中の架空の存在のままの方がいいとは思った。ヒゲはメイクで作るか、ヒゲにまつわるセリフを変えてしまうか、ともかく今のままでいいとは思えないし、手直しが必要なところはまだまだある。
 もっとも大事なところは、まだまだ「受け」の演技が弱く、自分のセリフの順番を待ってしまっているところだろう。一人一人のセリフを早口にすればスピード感が生まれるというのではない。相手のセリフに反応し、そこから自分のセリフが繰り出されていくという緊張感からしかテンポは作れない。ますます磨きをかけてもらいたい。

 朝霞西高校「ある日、ぼくらは夢の中で出会う」高橋いさを・作
 台本については「2016秋の高校演劇Cブロックを振り返って②」で書いた。通常は新人刑事カトウに焦点を合わせて芝居づくりがされる。カトウからみたベテラン達の胡散臭さに対する失望や怒りが底流に流れている、と私は解釈してきた。
 ところが今回の朝霞西の芝居ではカトウによって否定されるベテラン達の方に重点が置かれているように感じたのだ。カトウを演じたのはただ1人の3年生だから演技的に弱かったということではないと思う。そのような作り方をしたのかも知れない。それとも胡散臭いはずの、それでいて自信たっぷりのベテランたちの言い分に、どこか納得してしまう程度にまで私自身が「怒り」を忘れてしまったということだろうか?
 建て込んだ白いパネルは上辺がきれいに揃ってよい出来栄えだったが、大黒にしてラストシーンでは少しスモークを焚いて青いサスライトを何本か落とすというようなことでもよかったのではないかと思った。また、カトウは女子だったが無理に男役にせず、その世界にあこがれて飛び込んで来た女性刑事というような設定でもよかったのではないかと思った。まあ、対立軸が変わってしまうかも知れないし、無責任な言い分だが。

 細田学園高校「七人の部長」越智優・作
 私の記憶違いかも知れないが、原作では他の部長達が皆揃っているところに演劇部の部長だけが遅刻して入ってくる、という始まりではなかっただろうか? そのことには直接触れなかったが、後から顧問の先生のお話を伺ってみると、部長達の並び方からして過去の公演の体裁を変えて見たかったということだった。
 若い顧問の先生が赴任されたことから細田演劇部が復活した。あれこれ方向性を探っている最中であるということだと思う。ここ数年の公演をたどってみると、手探りのようにしてすすめていることが分かる。それはそれで、きっと将来に結実していくに違いない。
 そんな中、今回の公演は細田として1段階ステップアップを果たしたと思った。それぞれの部活動の部長がそれらしくはまっていたし、全体としてちぐはぐになってしまうことなく、舞台上に同じ時間が流れていた。
 肝心の生徒会長と演劇部部長が少し弱かったと感じたが、顧問の先生もそこのところは承知していて、生徒会長の心の変化が描き切れなかったことを反省なさっていた。逆にいえば、もう一歩のところまで来ているという手応えを摑んでいるのではないだろうか?

 新座高校「夏芙蓉」越智優・作
 私の知る限り、新座高校として3回目の「夏芙蓉」である。自分たちの学校の十八番にしていこうというのは方向性のひとつとしてあり得ると思うし、観る側としてもそのときどきの生徒たちによってどのように演じ分けられていくか、過去とも比較して見ていくのは楽しみでもある。
 結論からいうと、過去3回の中では一番の出来栄えではないだろうか? これまでが不満足だったというのではなく、今回は何か演者たちに風格のようなものが感じられたのだ。
 皆自信を持って自分の役を演じているから、きちんと同じ時間が流れている。ただ、芝居はその時間の流れが急変する箇所がある。クライマックスへの導き方、作り方に磨きをかければさらによくなると思った。

 新座柳瀬高校「Article30」稲葉智己・作
 1948年の「世界人権宣言」の採択いたるまでの国連人権委員会での討論を描いた作品。各国代表を集めたという設定による密室劇であり、セリフの応酬だけで成り立つという作劇になっている。ほとんどが条文をめぐって、その内容や順序、文言の選択に費やされるのだが、最後まで緊迫感が失われることなく、進行していくにしたがって人間ドラマとしての風格までおびてきた。
 国民主権や基本的人権に対する攻撃はつねに繰り返されている。日本国憲法下にある日本でさえ、「優勝劣敗」やら「適者生存」説をかざして、それらを「建前」だけのことにしようとする勢力が存在している。(念のために言っておけば、ある特定の基準を設ければ「優劣」があるのは確かだが、すべての生物はいつかは衰え、滅びていくという厳然たる事実を前にすれば、絶対的に「優」なるものは存在せず、「劣」なるものが滅びる運命にあるのだとすれば、それらはすでに存在していないはずなのである。)その思想は結果的にニヒリズムに陥るしかなく、ニヒリズムからはいかなる未来も開けてはいかないのである。
 ときどき、こういうテーマ性のあるものが書きたくなるのです、と作者はいう。その言い方だと偶然にということになるが、私にはまことに時代をとらえた作品であると思われた。なぜなら、現代ほど人類の「普遍的価値」がないがしろにされようとし、「力」の論理がまかり通ろうとしている時代はないと感じるからである。経済的グローバリズムも「力」の論理なら、反グローバリズムをかかげる国家主義も「力」の論理である。
 「人権」思想は一朝一夕にして出来上がったものではない。ドラマでもそのことが強調されている。先に人間ドラマたり得ていると書いたのは、最後に議長のエレノア・ルーズベルトとサウジアラビア代表の会話を持って来たところにも現れている。「結婚の自由」「宗教変更の自由」をめぐってサウジアラビアは棄権するのだが、ドラマでは互いの討論をリスペクトしあうというところで終わる。未来への希望はそこにしか存在しないのである。

 簡略ながら、以上が感想である。最初に書いた通り、感想を書くことで上演にいたるまでの各校への敬意をあらわしたいと考えた。今回は小姑がましいことは書くまいというつもりでいたが、やはり書いてしまったかも知れない。ご容赦願いたい。


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# by yassall | 2017-05-01 20:22 | 高校演劇 | Comments(2)

草間彌生展

 27日、国立新美術館へ行って来た。火曜日は国立西洋美術館でシャセリオーをみた。実はその日も国立新美術館へ向かっていたのだが、火曜休館であることが分かり、行き先を変えたのだった(以前にも一度、乃木坂駅まで着いて休館との掲示を発見し、がっかりしたことがあった)。
 目当てはミュシャの「スラブ叙事詩」の方だったのだが、せっかく同時開催中であったし、当日券を同時に買うと割引になるので草間彌生展もみることにした。 
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 乃木坂駅の美術館口から入るとさっそくテラスに巨大なカボチャのオブジェが鎮座している。天気のよい日だったから陽光に映えて美しい。
 「ふむ。カボチャと水玉か。」実は草間彌生については世評の方が先行していて、実際はそれほどでもないのではないか、と高をくくっていた。いざ、展覧会場にはいってみて認識が一変した。恐れ入りました、というのが本音である。
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 草間彌生は日本画からはじまった画家、とどこかでインプットされていた。日本画の革新をめざし前衛的な画風を確立した画家たちがいることを知っていたから。たとえば「風雲児」とよばれた中村正義もアクリル絵具をもちいて日本画の枠を超えようとした画家であったと思う。だが、どこかで「日本画の革新」という意識からは離れていなかったように思われる。
 そこのところを草間彌生は軽々と超えてしまった、あるいは最初からその枠に収まるものではなかった、まったく独自の美的世界を構築していったのだ、と思ったのだ。
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 レイアウト的にも展覧会として成功していていたのではないだろうか? アプローチを入ると大きくスペースをとった第1室に近作である「わが永遠の魂」の連作が並べられ、ここだけは携帯電話での撮影が許可されている。
 その第1室をめぐる回廊のようにして草間彌生の画業がたどれるという趣向になっていて、その最初のコーナーでは戦前すでに滝口修造らから高い評価を受けていた、というようなことが紹介されている。1957年の渡米後の活動と評価(そう、戦後世界では新しい芸術はNYからはじまるのである)、彫刻・インスタレーション・映画さらには文筆にまで創作分野を広げ、やがて帰国後に活動拠点を東京に移すまで、あたかも回顧展のような構成になっている。
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 回廊をめぐると再び第1室にもどってくる。ここまででも、その多様で旺盛な創作活動に圧倒されるのだが、何といっても圧巻はこの「わが永遠の魂」の連作だろう。約2m四方の大作が2009年以降だけで500枚に及ぶという。そのうちの132枚が広大なスペースの壁一面にところ狭しと展示されているのだ。
 過去の誰とも似ていないことと並んで、その創作のエネルギーがこんこんと湧きだして尽きないことが天才の条件だというが、これら連作は過去の自分の画風からすら一変し、しかも猛スピードで描かれ続けているのだ。
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 会場の中央にはこのようなオブジェも陳列されていた。若き日、草間彌生は己の幻覚に悩まされたとあった。草間の作品は自分の外部に対象があるのではなく、すべて内なる心象風景を表現しようとして止むことがなかったのだ、というのが私の勝手な感想である。
   ※
 最初に書いたように、この日のそもそもの目的はミュシャだった。もちろん、その期待は裏切られることはなかったし、実にさまざまなことを感じたり、考えたりした。こちらの方は感想をまとめるのに少し時間がかかりそうである。


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# by yassall | 2017-04-28 20:44 | 日誌 | Comments(1)

シャセリオー展とスケーエン展

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 25日、歯科通いのついでに上野に回り、シャセリオー展とスケーエン・デンマークの芸術家村展を見てきた。
 シャセリオー(1819-1856)は「早熟の天才」というふれこみだったが、37歳で早世してしまったこと、壁画家として名をなしたがその多くが戦災等で失われてしまったことなどから、作品数は多くは残されていないようだった。総数約110点とはあるものの、素描や版画、あるいは書簡等の資料を含んでのことであり、見ごたえという点ではもの足りなさがあった。
 11歳でアングルに入門を許されたが、古典主義からロマン主義に移行していく中で師と決別したこと、アルジェリア旅行を機にエキゾチシズムにも目覚めていくなど、その変遷は興味深く、長命にめぐまれればどのような展開をとげたかと想像するとその死が惜しまれる。時代の転換期にあったといっていいのか、モローやルドンにも多大の影響を与えたというのも理解できるものであった。「気絶したマゼッパを見つけるコサックの娘」、「コンスタンティーヌのユダヤの娘」がよいと思った。
 スケーエンはデンマークの最北端に位置し、19世紀までは自国の中でも異郷というべき寒村であったという。だが、19世紀末から20世紀初めにかけて、その自然にひかれた画家や詩人たちが集まるようになり、北欧の芸術家村として知られるようになったということだ。
 以前にオランダ・ハーグ展を観た。芸術とは本来孤独な営みであると思うのだが、刺激を求めてか、切磋琢磨につとめるためか、芸術家たちがある種の共同体を求めようとするかのように結集することがあるのは面白い。モンマルトルに若き芸術家たちが集ったのは、パリの中では物価が安かったからだというような理由もあるらしいが。
 ミカエル・アンカーの「海辺の散歩」「ボードを漕ぎ出す漁師たち」、ベーター・セヴェリン・クロヤーの「マリー・クロヤーの肖像」がいいと思った。
 いずれも村の人々や家族がモデルである。シャセリオーの肖像画に描かれたのが社交界の人々であったのに対し、いかにも素朴なたたずまいである。だが、冬の荒海、あるいは春先の明るい陽光の中の人物たちは生き生きと描かれていると思った。

 シャセリオー展 2/28~5/28 国立西洋美術館
 スケーエン展 2/10~5/28 同常設展会場

 実はここ2週間ほど風邪を引きこんで家に籠もっていた。最初、喉の痛みと咳が3日ほど続いた。喉にくると長くなるので覚悟していたのだが、比較的早く収まった後、鼻水が出て止まらなかった。不思議なことに熱はまったく出ない。昨年も同じような症状だった。医者に相談すると、アレルギー性が疑われるということだった。いまさら花粉症とは思いたくないが、処方してもらった薬を飲むと確かに楽になったのである。桜の撮り歩きももっとしたかったのに、せっかくの季節を棒に振った。少しでも取り戻そうと、先週末ころから活動を再開した。


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# by yassall | 2017-04-26 20:55 | 日誌 | Comments(1)

桜2017⑤法明寺

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 荒川線を都電雑司ヶ谷駅で降りる。写真は反対側のホームにに到着した電車。なかなかオシャレである。これから目の前の道を左に歩く。めざすのは法明寺である。
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 法明寺は日蓮宗の古刹。飛地境内の鬼子母神堂の方が有名かも知れない(恐れ入谷の鬼子母神に対して雑司ヶ谷鬼子母神として江戸三大鬼子母神に数えられる)。桜の名所として知られることは今年になって知った。
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 境内はさほど広くない。参道はそれなりのにぎわい。
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 実は歩いて来た道沿いに最初に見えて来たのは本堂裏手の墓地。路地を入ると本堂の脇へ出た。こちら側が参道の入口にあたる。
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 だいぶ日が傾いてしまったが、何枚か絵づくりをねらってみる。
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 法明寺の住所は豊島区になる。名墓案内には武蔵国一帯を支配していた豊島氏の名があった。
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 他に楠正成息女との名もあったがいかなる縁であろうか。
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 15:30を過ぎたころ、そろそろ撮影を切り上げることにした。元の道に戻り、さらに北西へすすむとジュンク堂の脇へ出た。そのまま歩いて駅へ向かう。

 G8+12-60mm


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# by yassall | 2017-04-09 19:27 | 散歩 | Comments(3)