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憲法9条を守ろう!原発から撤退しよう!

憲法改悪反対!原発撤退!これだけは巻頭から外すわけにはいかない!(その理由は口上で)

 ご案内
 たいがいが趣味(夏炉冬扇?)のブログですが、ときに真面目?になって、つい一言もの申したり、語ったり(竹頭木屑?)しています。多少とも関わりのあった「学校図書館」や「高校演劇」についても応援していきたいとカテゴリを設けました。初心を忘れず、ということで「国語・国文」を起こしましたが、あまり更新できずにいます。他は、最近何してる?は「日誌」に、何か考えてる?は「雑感」に、という塩梅です。
 あ、写真をご覧になっていただけるかたは主に「風景・散歩」のカテゴリーに!

この一枚
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 新宿御苑の寒桜の求めて。もう4年も前になってしまうのですね。(撮影日:20202月22日)

〈お知らせ〉
 


# by yassall | 2024-12-31 23:59 | お知らせ | Comments(0)

伊東静雄「夢からさめて」「夏の終り」

 「夢からさめて」

この夜更に、わたしの眠をさましたものは何の気配けはひか。
硝子窓の向ふに、あゝ今夜も耳原御陵の丘の斜面で
火が燃えてゐる。そして それを見てゐるわたしの胸が
何故とも知らずひどく動悸うつのを感ずる。何故なぜとも知らず?
さうだ、わたしは今夢をみてゐたのだ、故里の吾古家のことを。
ひと住まぬ大き家の戸をあけ放ち、前栽に面した座敷に坐り
独りでわたしは酒をのんでゐたのだ。夕陽は深く廂に射込んで、
それは現うつゝの日でみたどの夕影よりも美しかつた、何の表情もないその冷たさ、透明さ。
そして庭には白い木の花が、夕陽の中に咲いてゐた
わが幼時の思ひ出の取縋る術すべもないほどに端然と……。
あゝこのわたしの夢を覚したのは、さうだ、あの怪しく獣めく
御陵の夜鳥の叫びではなかつたのだ。それは夢の中でさへ
わたしがうたつてゐた一つの歌の悲しみだ。

かしこに母は坐したまふ
紺碧の空の下した
春のキラめく雪渓に
枯枝を張りし一本の
木高き梢
あゝその上にぞ
わが母の坐し給ふ見ゆ

(『コギト』昭和12年3月号)

 その書き出しこそ印象深いものがあったが、その割にイメージは平板に思え、夕日の射す旧家の古びた雰囲気と、紺碧の空の下、唐突に姿を現す母とがどこでどう結びつくのやら、私は長くつかみ損ねていたのだ。
 これは夢の世界を描いたものだと気がついてみれば、その連想も飛躍もよく分かる。とある深更、私はふと気配を感じて目を覚ます。それは耳原御陵の斜面で燃えている火であり、また怪しく獣めく野鳥の鳴き声である。しかし、それらは古代史との関連めいたのとすぐに切り離される。思い出されるのは遠く離れて久しい古里である。前栽は美しく手入れされているが、住む人を失った家の大戸を開け放ち、私はひとり静かに酒を飲んでいる。あくまで静謐であり、私は心の平安を得たのかも知れない。しかし、恐らく気づいている。それは幻の古里であり、最初から失われていた古里なのである。
 そこで映像は一転して紺碧の空の下、母の姿に変わる。母ハツはその前年、長女まきと入れ替わるように59歳で亡くなってしまった。直前まで新生児の世話を焼いていたのだった。
 前年まで生のあった人の記憶は新しいものだろう。けれども現前にあられた母の姿は変幻自在であってよく、老境である必要はない。若き日の面影を残す母の方が、いっそう親しみを感じられる場合があるだろうし、その場合「坐す」というより、枝に腰かけて脚を降ろしていた方が若々しい。いっそ子らの知らない童女となって、それでいて確かに母と伝わってくるような、そんなあり方もあるのではなかろうか。
 春のキラめく光の中で、母はひとつの発光体である。母なるものとは聖性である。伊東静雄はそのように母を描いた。


  「夏の終り」

  夜来の颱風にひとりはぐれた白い雲が
  気のとほくなるほど澄みに澄んだ
  かぐはしい大気の空をながれていく
  太陽の燃えかがやく野の景観に
  それがおほきく落とす静かな翳は
  ……さよなら……さやうなら……
  ……さよなら……さやうなら……
  いちいちさう頷く眼差しのやうに
  一筋ひかる街道をよこぎり
  あざやかな暗緑の水田の面を移り
  ちひさく動く行人をおひ越して
  しづかにしづかに村落の屋根屋根や
  樹上にかげり
  ……さよなら……さやうなら……
  ……さよなら……さやうなら……
  ずつとこの会釈をつづけながら
  やがて優しくわが視野から遠ざかる

(『文化展望』昭和21年10月号)

 「夏の終り」は長谷川三千子の『神やぶれたまはず』で一度引用したことがある。そのとき、「これは評論というより、神学の書である」と断じたが、伊東静雄が「自らの死を奪われ」たことから、何らかの「異変」を待望したと考えることは、次のような作品と接する限り、まったく当たらないと批判した。そして、伊東静雄の目はもっと透明で、自然や人間の営みに対する愛情と、そして静かな断念にみたされていると述べた。
 それは今でも変わらないのだが、ひとつ付け加えておかなくてはならない。伊東静雄が蓮田善明の死を知ったのは終戦の翌年の8月であった。作品は明らかに善明の追悼詩としている。だが繰り返しはしないが、狂信的ともいえる非業の死に比して、我が郷土を見届けにでも来たかのような、今は魂魄となって帰還した善明の、何という慈しみと大らかさに満ちた目であることだろうか。それこそが善明を終生の友とした伊東静雄の理解した善明であったのだ。

# by yassall | 2023-05-01 16:30 | 詩・詩人 | Comments(0)

今年の発句2023

流氷は航るアムールは愛の意ぞ

今年の発句2023_c0252688_11574508.jpg
 年賀状を投函できたのは2月28日である。賀状そのものは昨年末には入手しておいた。書き込んでおくつもりでいた文面はほぼ決まっていた。内容からしていわゆる幕の内を過ぎてから投函との心づもりもあった。
 その幕の内にすら投函できなかったのは健康長寿医療センターを退院してわずか12日目、自宅内で転倒し、左肩を骨折するというヘマをしでかしてしまったからである。無理はしないつもりではあったが、最低限の範囲でしておきたいことがあったし、ある程度は動けるという思い込みがあったのかも知れない。予想以上に体力が減退しており、薬の副作用に対する認識の不足もあったのだろう。
 高齢になってからの骨折は命取りとよく聞くが、身を以て実感した。肩ですんだことは不幸中の幸いであったかも知れず、頭を打たずに良かったとか、折れたのが腰や脚であったら二度と歩けなくなったかも知れないと言われたが事実だろう。
 幸い妹が在宅で救急車を呼んでくれた。もう午後4時過ぎで通常の診察時間を過ぎていたこともあったのだろう、診てくれる病院もなかなか見つからなかった話はさておいて、さて年末年始をどうやり過ごしたらよいか、途方に暮れた。家族といっても妹一人である。やはりここは人の助けを借りるしかない。ケア・マネージャーのつてで老健とよばれる介護施設に一部屋空きを見つけてくれた。肩の痛みが治まったらすぐにでも退所するつもりだったが、一週間で160分のリハビリが受けられると言うし、ここは焦らず、それぞれの病院の再診の結果を待ってからでも遅くなかろうと、結果として2月21日まで居続けることになった。
 と、ここまでは病床記3のようになってしまったが、体重は56kg(現在は57.5kg)まで落ち込み、リハビリも最初から出直しということになってしまったのである。
    ※
 さて、どうして私は年賀状にこだわることになったのだろう。何も告げずに止めてしまってもよかったのかも知れないし、このまま儀礼的に続けられるまで続けてもよかったのかも知れない。ただ、発症した病名を知った早い時期から、これまでと同じ生活スタイルをとり続けることはできないだろうという思い込みが生じたのだった。かねがね年賀状は私の趣味と嘯いてきたが、せっかくならみずから終止符を打っておきたかったし、人によっては聞かずに済ませたかったという向きもあったかも知れないが、私の側からは会う人ごとに事情を説明する手間を省いておきたい気持もあった。
    ※
 ここで自作について語る。流氷とアムール川とでは離れすぎているとの批判があるかも知れない。だが、もともとアムール川から流れ込んだ水の塩分濃度の違いから海氷の形成を容易にし、流氷となってオホーツク海を航ってくるのである。ありのままを書いたといえばそれまでだ。それでもアムールが単に川の名として認知されるのではなく、アモーレと同様に「愛」を意味する驚きに近い発見に主眼が移ると、確かに主題としての流氷からは離れるとの指摘は残るかも知れない。
 だが、広大な大地を流れてきたアムールはたっぷりと栄養をオホーツクに注ぎ込む。結氷期の間、船体の損傷を嫌う漁師たちは漁船を地上に上げておく。するとその間は自然の禁漁期となる。氷の下に豊かな生命が育まれるのだ。アムールがどうして愛の名にふさわしくないことがあるだろうか。流氷の季語は春なのである。
 なお、昨年2月の旅行記ではオホーツクはツングースの語で「広い川」の意との説を紹介したが、その後調べてみるとロシア語で「狩り」の意ともあり、少々困った。ただ、アイヌ民族とも交流しつつも、異なる言語を持つ北方民族が存在し、地名を残していることにはロマンを感じるし、黒澤明の『デルス・ウザーラ』に登場する沿海州の原住民ナナイ人もたまたまロシア領に居住しているということであって、もともとは同族の民であったのではないか。そんなことを考えている。
   ※
 長くなったので機会を改めるが、本文中でクラウゼヴィッツの名前を出した。文字数が限られていたので、読んでくれる側の人の知識にもたれかかるしかなかった。クラウゼヴィッツはレーニンが『国家と革命』で『戦争論』から「戦争は政治の延長である」を引用したことで知られている。しかし、政治が始めた戦争を政治の力で終わらせることは容易ではない。クラウゼヴィッツのいう「戦争の絶対的形態」というのは、一度戦争が始まれば相手を打倒するまではより過激化し、エスカレートすることがあっても、理論上、自ら手を引くことはあり得ないというのである。第一次世界大戦を終結させたのはスペイン風邪であり、少なくとも各国の理性ではない。確か西谷修が一連の著書で述べている。
 

# by yassall | 2023-03-21 19:03 | お知らせ | Comments(0)

病床記2

 12月10日(土)、東京都健康長寿医療センターを退院した。真夏の8月から真冬の12月までの入院となった。痙攣が抑えられた後にもしばしば残っていた不随運動も服薬で抑えられるようになった。医師の判断として、後は通院で薬の量を調整することで十分としたのだろう。
 痙攣が収まればこれまでのリハビリは無駄にはならないから、との説明を受けた。今はその言葉を頼りにしている。しかし、筋肉が落ちているのか、体幹が衰えているのか、よろめきやすく、実感としては30%くらいの力で生きている感じである。左の肩周りや足の付け根付近を激しい痛みに襲われたりする。
 先週の火曜日から週2回の訪問リハビリが始まった。私としてもこのままで終わるつもりはない。当分はリハビリと療養に努めることになるだろう。皆さんにお目にかかれるのはずいぶん先になるだろう。
 手の動きや頭の働きから、やることなすこと間違いが多く、動作が鈍くなっている。お問い合わせやお返事などには十分には応えられないことについてはご容赦願いたい。(12月17日)

# by yassall | 2022-12-17 18:40 | 日誌 | Comments(2)

病床記

8月以来、ブログも更新せず、さすがにこのまま何も知らせずにはいられないだろうと、私の身体状況について第一報を掲載しました。

今年は3月に背中を傷めたという話から始まったのだが、それどころではなかった。一部の方々にはお伝えしたのだが、8月10日に駅に向かう途中、脳梗塞を発症した。幸い救急車を呼んでくれる人がいて、東京都の健康長寿医療センターで緊急治療を受けることが出来た。足などは比較的に軽度ですんだが、利き手足側の機能を大きく損失したのは痛手だった。その後、8月31日に転院し、11月15日までリハビリ専門病院で過ごした。利き手の左手もかなり自由度が増し、通院や買い物に出かけるのも自足歩行で可能という自信もついてきた。ところが退院直前というときに、あろうことか一時性癲癇を発症し左手足の激しい痙攣に見まわれた。急性期として健康長寿医療センターに再入院することになった。
現在は癲癇は抑えられたが、左手の不随意運動がまだ時々見られる。リハビリも再開されたが、まだおっかなびっくりという状況である。
いずれ人生としては新しいステージを迎えることになると覚悟していたが、この先どうなるかは全く見通しが立たない。
明日から今年最後の月を迎える。とりあえずの現状報告とする。(11月30日)

今後、続報をお伝え出来るかは不明である。
# by yassall | 2022-12-02 08:57 | 日誌 | Comments(0)